第16話 扉の向こう側
私はひんやりとした木の感覚に尻を沈めた。ようやく私は
熱っぽい左足をまじまじと眺める。
右足を失った体というものは、ただ歩くだけでもこれほどまでに体力を奪うものなのか。他にも私をもちのように伸びさせる理由はあるのだろうが、やはり右足の大切さというものをつくづく実感させる。
新しく人物と出会うごとに疲労が蓄積されるような感じがする。
もともと私は人と関わり合いを持つのが苦手なんだよ。だからこんなだらしない恰好になってしまう私を許してほしい。
他の者たち(レイニーを除く)は机を境に、各々腰を落ち着けた。レイニーは当然と言った佇まいで、私の背後にこれでもかと圧倒的なプロポーションを見せつけてすらりと控えている。もう彼女の生来の癖なのだろうと、どうしようもないのだと。私の背後にばかり立つことについて、考えることは諦めた。
「ふふふふ。」
その疲れにほだされ目をつむっていると、ひっそりと時間が止まったなかに、ダンテの密かなざわめきがその揺蕩いを邪魔してくる。こんなにもだらしない恰好は誰の目から見ても明らかだろう。私もそれを認識してはいる。だがしかし、べつに笑わなくてもいいじゃないか。
体の熱が顔の辺りまで昇ってくる感覚に、体がそわそわする。
心の中で「くたばれ」と悪態をつきながら、平静さを装うように目を開けた。
「大丈夫ですかどこか…。」
彼女の枕詞は聞き流す。どうせ聞かなくても分かる。
私の気持ちはどこか達観していた。
その薄く見据えた、いつになく冷静な瞳を、この中で一番まともな者へと視線を移す。
無言でこちらをじっと睨み据えていた。
「ひっ。」
凄まじい無言の圧。そんな容赦のない視線に晒された途端、私の体はこわばり、伸びきった足を引っ込めて、急いで居住まいを正した。
「っ…。」
私の怯えにも似た行動を見た彼女は、その表情に影が差して、どこか呆然とした様子で机に目を伏せた。彼女の瞳孔の輪郭がいやにおぼろげで、その視点が一つに定まっていない。
その表情はどこか悲しげに思えた。
「これからのことだが、レイニーから話してくれ。」
「はい、了解しました。」
すると彼女は私の後ろから姿を現す。
「どこかで聞いている者がいるかもしれませんので、転移者を『彼ら』と称させていただきます。アザミ様はこれからのことをご存じないそうですので、ダンテさんとグラフィさんは再度にはなりますが、もう一度説明させていただきます。」
ひとつ咳払いをし、彼女は説明を始めた。
「率直に申し上げますと、彼らは王都へは向かっていません。」
兵士が私に襲いかかる直前、グラフィがそう言っていたのを覚えている。しかしなぜそのようなデマを兵士たちへ流布したのか、そしてどこに何の目的で連れていかれようとしているのか。そして私までもその情報を隠した理由は何なのか。
「向かっている場所について教えることはできませんが、その場所に私たちも参ります。そしてグラフィさんも私たちと一緒に来て欲しいのです。」
グラフィの表情は変わらない。どこを見ているのか、伏し目がちにじっと机を凝視して動かない。そのようすはどこか思案しているようにも見えた。
「あなたは彼らと共に例の大戦争を生き抜いた稀有な存在。そして彼らと密接な関わりがあったとか。その貴重な経験が私たちには必要なのです。」
前の転生者がいたのって確か300年以上も前のはずだ。3世紀も昔に彼らとの関わりがあったってことは、彼女はその時代を生きていたことになる。それが本当なら、今彼女は何歳なんだ?
途方もないほど長生きした彼女ではあるが、そんなことなど微塵も感じさせないほど若く見える。さすがに300歳には見えない。
彼女はその言葉を聞くな否や、日の届かない天井を仰いで溜息をつく。そして視線を天井に固定したまま、頭の中を整理するようにじっと情報を吟味しているように思えた。そしてしばらくの沈黙は彼女自身の言葉によって破られた。
「つまりは彼らを知るヤツが俺以外にはいないから、わざわざこの村に呼ばれたってわけか。そしてその情報を利用するために、どこか知らない場所になんの目的かも分からず連れていかれなきゃならないのか?」
彼女の坦々とした低い声音は苛立ちが滲み出ている。そしてその言葉は私の思いを代弁しているようであった。
彼女は口ごもりながらも「はい、その通りです」と声を落とした。
「あぁそうかそうか。十分に理解したよ。」
今まで天井にずっと向けられた視線は、途端に真正面へと向けられた。そしてようやく明らかになった彼女の表情は、薄く見開かれた瞳だけがその冷徹さをもって、ただただぼんやりと霞んで見える窓の風景を眺めるだけであった。
そしてようやく、どこか力のこもっていない唇が開かれる。
「俺は同行しない。」
ここにいる者の息遣いだけが無言に冴えていた。暫し彼女も沈黙に身を潜めていたが、ひとしきり間を置くと再び彼女は話し出した。
「ついてきて欲しいと俺にお願いしてはいるものの、どこになんの目的かを教えられないのはさすがに理屈が通っていないんじゃないのか。そして俺には患者が大量にいる。この村に誰もいない状態をつくれない。だから俺はここに……残る。」
彼女は微妙な間を置いて突然話を切った。
彼女は急に席を立ち、扉をじっと睨み始めた。それにつられるようにして私の意識も扉へと向けられる。
それはいたって普通な木製の扉。
なんの変哲もない扉ではあるがそれをじっと見つめていると、どこか漠然とした不安がざわざわと背筋に昇ってくる。そこには何かがあると、彼女の行動が明瞭に示している。
彼女は声を潜めて私たちに伝える。
「扉の前に誰かがいる。」
数秒、数秒と時間が過ぎていく。その間彼女は瞬き一つもせずにその扉を睨み続けている。言い知れない恐怖が部屋一体を支配し、唾を飲み込むことさえも緊張する程の圧迫感。そこだけ時間が停止したみたいに誰一人として動かない。だた心臓の音だけが鼓膜に響いているその静寂さ。
ドンドン
突然扉が叩かれた。
息が止まる。意識が芯の底から冷えていく。
「ひぃう、ぃう、ひゅう。」
その音は恐怖という感情となって、消えない染みとなる。そうして私は、息の吸い方さえも忘れてしまった。
建付けの悪い扉の隙間から冷気がゆるゆると流れ込んでくる。それと一緒に不鮮明な音が流れ込むのだが、ようやくそれが人の声であると分かった。
そしてその耳障りな音は灯りのない部屋の隅へと浸み込んでいった。再び花崗岩に沈んでいくような沈黙だけが取り残される。その空気がいやに息苦しくて、嗚咽が喉元までせりあがってくる。
しゃくりを上げる息を両手で塞ぐ。扉の前にいる者へ聞かれないように、息を殺してじっと耐える。徐々に時間が減速してゆき、永遠かと感じさせるほどまでに時は弛んだ。
しかしそれは長くは続かなかった。
その扉が開かれることによって収束した。
その者は唇をゆっくりと開ける。
「お久しぶりです。お師匠様。」
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