第15話 第一の特異点

 青草を撫でる足音のみが深々と息づいている。そこに拍手が二回、パンパンと乾いた音を立てて、閑寂(かんじゃく)な空間へと冴え渡る。徐々に厚みを増し、際立っていく足音が一つ、また一つとこちらへ近づいてきた。


「もうくったくたっす。そもそも僕は肉体労働なんてがらじゃないですし。」

 

 悪態をつきながら最初にやって来たのは人物は、意外にもダンテであった。


「あっ?なんだ、俺に文句でもあるのか?」


「何でもないっす…。」


 いつもの一幕を横目に、松葉杖でぬかるみに穴をほがしながら、次に私が到着する。彼女の見える範囲にいたのだが、どうも片足のみでの移動はたった数メートルでも遠く感じさせる。松葉杖を支えに、あぶくのような蹌踉そうろうとした足取りであったため、酷く時間がかかった。


 到着するや否や、私は周囲を見渡した。そして、妙な違和感がその行動を引き起こさせたということに気が付いた。その釈然としない違和感の正体を明確にするように、どこになにを見るでもなくじっと斜め上を凝視した。

 

 途端にその曖昧な輪郭が浮かび上がる。

 

 あれ?レイニーが来ていない。


 彼女を探すようにぐるりと、体を一周させようとしたその時。


「いてっ。」


 硬い表皮に覆われた水風船みたいに頭が沈み込む。その何かに私の行動は阻害されたのだ。ぎゅっと絞られた瞼を開き、そこに薄く光が差し込まれる。


 黒い壁?しかし妙な膨らみがある。


 ふと頭上に薄暗い影を落とした。その違和感に促されるようにして、自然と私の視線は上へと向かれた。

 

 化粧といった顔を飾り立てるぞんざいさを少しも感じさせない。自然で清純さを湛えた顔が、裏側から陽光を受け、表情には影を作る。


 そこには私を見下ろすようにして、困り切った表情を浮かばせるレイニーの姿があった。


「だっ、大丈夫ですか!どこか痛いところはございませんか!あぁ、本当に申し訳ございません。これはどうしましょう⁉あぁ、額にあざができているではありませんか!これは私の失態。私の非礼をお許しください!」

 

 彼女の艶やかな前髪が私のまつ毛に触れそうなほど近くに、彼女の顔があった。


 熟していない果実のような女性の匂いが、気が滅入るほど肺いっぱいに立ち込める。その滲んだ汗の香さえ漂ってきそうな首筋が目を伏せればすぐそこにある。


 彼女の距離感はどうなっているんだ!


 どうにかなってしまいそうだと思ったから、どうにかするしかないと思った。そう考える時点ですでに私はどうにかしていた。


 そんな私でも言うことはただ一つ。


「まずは落ち着いてください…。」


 彼女は腰を屈め困惑した目つきで、私の額にハンカチを当てる。薄い涙の膜が絶えず陽光を反射させ、燦々と潤んでいる。その近すぎる距離はさほど変わってないし。


 …そもそも血なんか出ちゃいない。


 頭上に合った顔がただ真正面にきただけで、何一つ状況は変わっていない。


 何なんだこの人は。そして彼女はいつから私の背後にいたんだ?


「さっさと話をしたいんだが…。」


 途方に暮れたといった様子で腰に手を当て、私たちを睨み据える。声音はいたって普通だが、その表情はかなり怖い。たぶん怒ってはいないだろうが。


 そして私やグラフィ以上に困惑しているレイニーの姿があった。しかし、その様子は明らかに異常に思えた。切れやかな彼女の表情に驚愕と恐怖が顔いっぱいに広がり、血色の良い肌が急激に蒼褪めた色へと変化した。彼女の瞳でさえも焦点が合わない様子で、その恐怖にわなわなと震えている。


 蒼くこわばった収まりの良い彼女の唇が、突然けたたましい声となって開かれた。


「一体これはどういう事ですか!」


 彼女の悲痛な叫びが、張り詰めた弦のような緊張感を携えて、さっきの朗らかな気配など微塵も感じさせない、空気が重く静まり返った粘着質な液体へと姿を変えた。そして、水のような淡泊さをもってグラフィが。


「その話は後にしよう。さて、これからのことだが…。」


 と投げやり気に言った。


「ちょ、ちょっと待ってください?一体何なんですか。私に何かあるんですか?」


 私が待てる訳がなかった。あれほど陰鬱な空気になっておいて、「はいそうですか」などと納得できる訳がない。自分自身、消極的であると自覚しているが、そんな私が行動に移すには十分すぎる理由であった。


 そんな空気など読む気がないといった様子で、彼は飄々とこんなことを言った。


「君には魔力がないんすよ。」


「ちょ、お前!」


 彼女の普段の様子からは想像もできないような声音で、素っ頓狂な声を上げた。


 そんな彼女の様子を横目に、関心なんぞ最果ての彼方へと置いてきたように坦々と、なおかつ悪戯な笑みを込めて、彼は言う。


「いいじゃないですか、あの子も知りたがっている事ですし。この話題が出たことだから、今言うべきだと僕は思うなぁ。」


 そうざっくばらんと大袈裟に、考える素振りをする。 


 彼がこのようなの性格を見せるようになったのは、そう、あの時。彼の素性が少しではあるが垣間見えた時だ。何だか遠慮のない冷徹な、それが本来の性格であるような。いいや、やはり彼の心の内はこれっぽっちも見えないが、今目に映る彼の様子はどこか楽しそうなのだけは分かった。


「それと、この子の心はそんなに弱くはないっすよ。」


 私の頭にぽんっと手のひらが乗る。


「この畜生が…。」


 誰に言うでもなく、彼女は俯きがちにぽつりと悪態をついた。


 こいつを引き合いに出すのは反則だろう、そういった様子で。


 これ以上ないくらい時間の感覚が引き伸ばされた、そんな陰鬱な空気の支配する空間の中で、私の意識は俯瞰していた。


 自分の意識がどこか遠くにあるみたいに、まるで鏡の中の私を覗き込むみたいに、私はこの状況の一切を理解できなかった。


 魔力といった概念自体ファンタジーの用語である。だからファンタジーの用語同様に魔力といった概念は私には存在しない。そもそもこの世界の住人ではないのだ。だからこの世界の常識が私に当てはまる筈もない。


 それは他の転移者だって同じなのだから。


 目線をちらりと、他の者へと向ける。


 ダンテの表情とは違って皆、神妙な面持ちで黙りこくって話そうとする素振りすら見せない。息を吸うのも窮屈な程の、重苦しい雰囲気。


 私に魔力がないことの何が、問題だっていうのだ?


「まさかそれすらも知らないって言うんですか?ううん、知っている事と知らないことがかなり乖離しているっすねぇ。この世界の言葉と違うのかなぁ。いいや、この言葉は君の世界から伝わった…。」


 突然、鋭い剣筋が彼の首元へと伸びる。


「これ以上無駄口を叩くようでしたら、いくら副騎士団長のあなたであっても一切の容赦は致しません。」


 刃先が触れるか触れないかの距離で、レイニーの短剣はぴたりと止まった。


 彼は仰け反り、両手を上げる仕草をする。それでも彼はいたって余裕そうに。


「あぁ、怖い怖い。」


 こともなさげに大仰な仕草を見せる。


 一触即発の空気が辺り一帯に立ち込めた。



「てめぇら止めないか。」


 

 そんな空気を押し退けるような彼女の殺気。彼らを睨めつけて、息を呑む程の獰猛さが今にも飛びかからんと息を潜めている。彼女も、そしてダンテでさえも、その首筋に汗が滲んだ。


「レイニーはその短刀をしまえ。俺が話す。」


「ですがしかし!」


「これ以上俺をイラつかせるな。俺を怒らせるとどうなるか、お前は知っているだろう。」


「…っ。」


 彼女は突きつけた短刀を、己の懐へと収めた。そして今まで首元に刃先が当たっていた彼は、いたわるように首筋を擦っている。


「いやはや、一時はどうなることかと。」


「お前は後で殺す。」


「えっ。」


 いかにも虚を突かれた表情で、あんぐりと口を開けている。


「という事だ。聞く準備はいいか。」


 そう彼女は私をしっかりと見据え、私に尋ねる。まるでガラスに傷をつけないように繊細に、静かすぎる優しさをもってして。


 私の答えはもちろん。


「はい。できています。」


 彼女のやさしさに答えるようにして、はっきりと。

 

 そして一つも間が置かれる。そしてゆっくりと、彼女から言葉が紡がれる。


「ダンテが言う通り、お前には魔力が存在しない。魔力が極端に少ない体質は、ごくまれに存在する。しかし、お前みたいに全くない奴は、どこを探しても存在しない。」


「しかし私はこの世界の住人ではないのです。それは当たり前のことではないのですか?」


「いいやそれは違う。お前の仲間には確かに、魔力の波を感じた。だが君に触れた瞬間、核心が持てたよ。」


 そっと彼女の暖かい手が触れる。決して美しいとは言えない手。しかし、彼女のその大きな手が優しく頬を包み込む、そんな感覚が心地よかった。

 

 罪悪感を携えたその瞳は、月光に照らされた霞の様である。そんな悲しみを私は感じた。私は彼女の覚悟に答えなければならない。それがどれだけ辛いものになろうとも。


「魔力がないものは二つある。一つは無機物、もう一つは。」


 

 死体だよ。


 

 私は絶句した。いくら決心を固めたところで、その事実は私には耐えがたい現実として、心の奥底で燻ぶる。服の袖をつかみじっと我慢する。

 

 私は私の心臓を掴む。


 確かにここに、拍動する命の輝きがある。



 到底私には、自分が死んでいるなんぞ信じられる訳がなかった。



「いいやそれはおかしいですよ。だってここに生きている証があるじゃないですか。」


 震える声を何とか言葉にして、私の中に蟠っている熱い熱を吐き出すように、彼女に訴える。私の手は心臓に、震える手を悟られないように強く握る。覚悟は決めたのだから、それをすぐさまおざなりにして、弱みを見せては彼女に申し訳が立たない。


「あぁ、確かにお前は存在する。心配するな、お前の魂はここにある。医者の俺が言うんだ、間違いない。」


 ドンッと彼女に胸を叩かれる。力強く、確かな痛みを感じて。


 そして彼女はもう一度、パンと高らかに手を打ち鳴らした。


 陰鬱さを吹き飛ばす程の喝采が空中にはじけ飛んだ。


「さぁ、気を取り直して俺の話だ。今後どうするのかを決めよう。」


「じゃ、じゃあ私から提案がございます。」


 意識を置き去りにした様子で彼女は話す。


「私から皆様にお願いがあるのです。ここで話すのは何ですから、あの家で腰を据えて話しませんか?」


「あぁ、そうだな。じゃあそこへ向かおう。」


 私たちはぞろぞろとそちらへ向かった。


「肩を貸しましょうか。」

 

 レイニーがそう声をかける。


「あぁ大丈夫です。私には松葉杖があるので…。」


 そう言うと彼女は私に後ろにぴったりと張り付くように、ゆっくりとした足並みでついてくる。なぜこうも私の後ろへ行きたがるのだろうか。


 彼女の気配を背中に感じながらの、おぼつかない足取りの道すがらに、よろよろと歩くグラフィの姿があった。嫌に手首を執拗に凝視しているため、余計目につく。


「いいや、そんなはずは。あの見た目でそんな…。思い違い、そうだきっとそうだ、そうに違いない…。」


 そう呪詛のようにぶつぶつと自分に言い聞かせている彼女の姿を、遠巻きに見ていた。何か手首に異常でも起きたのだろうか。その様子はいつもの彼女らしからぬ、奇妙な様子であった。

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