第14話 黒薔薇のヘリオス

「後始末といこうか。」


 そう言うと彼女は、土塊た素足の底を見せながらで、一つ背伸びをした。

 

 そして自身の親指の先端を口元に持ってきて威勢よく嚙みちぎる。血がぷつりと浮かび、耐えれなくなったそれは線となってゆっくりと腕へ垂れていった。熟れた果実のように肉付きの良い唇の端には、血が滲む。鋼鉄をも穿つ程の、光を帯びた視線が兵士を射るさまは、野性的な色気さえ感じる。

 

 彼女は手の甲で口元を拭う。


 兵士の額にその指を押し当て、鮮やかな鮮血が刻まれる。


 その印は未知の紋章や文字で構成された、円であった。


 この印を私は知っている。

 

 記憶の海原に眠るそれを手繰り寄せるように思い出した。


「…魔法陣。」


 一人でにそう呟いていた。


 

 中学生時代、私は読書が好きであった。本を読むことが私の唯一の救いであり、現実から逃避できる方法の一つであった。だからか、昔の記憶のほとんどは辛い記憶と、本の記憶しかない。


 記憶の中で、彼女が兵士の額に刻むその印に似た挿絵があったのを思い出した。


 その小説の主人公は二重人格であった。本来の人格と悪魔の人格、その両方が彼の体には潜んでいた。主人公は魔法陣によって悪魔を召喚し、その悪魔は彼の心に住み着いた。しかし悪魔は本当に召喚されたのか、主人公の妄想ではないのか。それを読者は読み解いていく。


 たしかそんな内容だったはずだ。


 その小説の挿絵には、確かに魔法陣の表記があった。


 しかし今更このようなことを思い出したのはなぜだろうか。今の今まで、その小説の内容について忘れていたってのに。


「”魔法陣”については知っているみたいなんすねぇ。」

 

 突然、質量をもった冷気が肩に触れた。


 「ひゃぁ!」


 背中にざあっと粟立つのが分かった。思わずうわずった声を出してしまった。肩には彼の手が置かれていた。


「何なんですかいきなり!」


 例のこともあってか、彼には近寄りがたい恐怖に似た感情が、私の奥底に巣くっていた。だから彼に触れられただけでも、警戒心を覚えるには十分であった。


 彼との距離を空ける。


「そう脅かすなよ。可哀そうじゃないか。」


「別に脅かす意図があったわけじゃ…。」

 

 彼はさも悲しげに俯いた。


「……。」


 別に彼のことを嫌っているわけではない。だからと言って信用できる人物でもない。いつ彼の考えが変わって、寝首を掻かれるか分からない。だからあまり近寄りたくなかった。


 あまりにも陰鬱な空気を我関せずといった様子で、彼女は兵士の額に手を当て呟く。


――神聖なる器、蝋燭の骸、巡廻し回帰せよ


 彼女の手のひらに柔らかな白色の光が灯る。ごく繊細で、りんのようなにか細い光の露は、仄かに彼女の頬を染め、煙に巻くように冴えた空気へと霧散するようであった。


 彼女は一つ溜息をつく。


 暫くの間を置き、彼女はくるりと私たちの方へ向いた。


「ダンテ。お前は診療所に…。」

 

 言葉を詰まらせ、少し考える素振りを見せると、彼女は辺りと見渡す仕草をした。


「あっ、確か食堂があったろう。そこなら兵士たちを十分に寝かせれる広さはあるだろう?そこに布を引いて寝かせてくれ。ついでに暖炉の用意も頼んだ。」


「はい、分かりました…。」


 私のリアクションを引きずっているのか、彼の声には覇気がなく、俯きがちにとぼとぼと彼女の方へ向かった。


 私よりも年上の青年が、私の所為で気を落としているのが、やや後ろめたい。


 兵士を担ぐ彼の陰った背中を見送った。


「あと、そこのお前も兵士を運ぶのを手伝ってくれ。」


「えっ、私ですか?」


 まさか私に頼まれるとは夢にも思っていなかった。


 私も手伝えるならそうしたいのだが、立つだけでも精一杯なのだ。到底兵士を運ぶほどの腕力はないし、まともに動かせるような体ではない。だからどうしたらいいのかわからず狼狽した。


「手伝いたいのはやまやまなのですが、この体でどうやって…。」


「いや違う違う。お前の後ろにいる奴だ。」


「えっ…。」


 ダンテは兵士を食堂までは運んでいるはずだ。つまり私の後ろには誰もいない筈である。


 彼女は誰に言っているんだ。


 背筋がぞくりとした。


 私は恐る恐る振り向く。


「はい、了解しました。」


「うわぁぁぁぁ!」


 二度目の叫びが静寂にこだまする。


 遠くでダンテの笑い声が聞こえる。


 容易に想像できるのが余計にむかつく。


「えっ、だ、誰。」


 私は困惑した。涼しく射すような美しさのある、見知らぬ人物がさも当然のように私のそばに立っていたのだ。


 その者は首筋がすっと伸びて、厳粛さと気品を携えて私の前へと直立した。


「はっ。自己紹介が遅れて申し訳ありません。私の名前はレイニー・フォン・クリスプス。幌馬車の御者ぎょしゃでございます。その際はお伝えすることができず、誠に申し訳ありませんでした。」


 そう片膝を立てて、私に対し敬意の姿勢を取る。


 慎ましい胸のふくらみ、その者は女性であろうか。ダンテと同様に軽鎧を身に纏っている。しかし装いがそこらの兵士とはかなり異なる。目につくものでも、太陽を象ったネックレスや、腰まで伸びた質素な艶っぽい黒色こくしょくのマント、複雑な紋様が施された指輪。百合の花にも似た清純な印象が、彼女にはあった。


 肩まできっちりと揃えられた艶やかな黒髪が、風になびく。淡い髪の香りが、風に運ばれそっと鼻をくすぐる。


 年上の女性が足元に跪くようすに、私は当惑してしまった。


 永遠かと見紛う如きの沈黙。


 そんな様子を見かねたのか、グラフィからの助言が入る。


「あぁ、こいつは従軍聖職者なんだよ。だからか戒律に厳しくてなぁ。お前が立ち上がる許可をしない限り、ずっとこのままだぞ。」


 他の兵士に印を刻む、その手を止めずに言う。


 視線を目の前の彼女に移す。樹木のようにどっしりと根を下ろして、動こうとする気配を見せない。


 なぜ私が許可を下す必要があるのだろうか。


 彼女の言う通り、私が言わないと彼女はずっとこのままだろう。


「あのぉ…。姿勢を戻してくれませんか。」


 彼女の顔色を窺うように、恐る恐る言う。


「はっ!御心に従います。」


 唐突に姿勢よく立ち上がったので、少々驚いた。かなり背が高い。グラフィほどではないが、ダンテほどの背丈はあろうか。だから余計に驚いた。

 

 彼女の神を前にした敬虔な信者のような言動に、何だか私の調子が狂ってしまう。だからと言って、真剣な顔ではあるが所々笑みが隠れていない、ちぐはぐな嬉しさを表情に浮かばせる様子に、私は何も言えなかった。


 私は見上げるようにして彼女の表情を窺う。


「……。」


「……。」


 私たちは見つめ合い、微動だにせず固まったまま。


 

 ……彼女はどうして動かないだよ!



「こいつは何も知らないんだから、そう困らせるようなことをするなよ。レイニー、お前は転移者をそっちに運んでくれ。」


「はい、了解しました。」


 彼女は空気に溶け込むように姿をくらました。


「えっえっ?」


 確かにそこに彼女の姿があったのに、目の前から忽然と姿を消した。そんな唐突すぎて状況が飲み込めないこの現状に、私は狼狽えた。考えれば考える程、情報の波が収束しない。だから鏡に映った私の姿を見つめるみたいに、口を開いたまま意識が定まることはなかった。


 そんな感覚は以前、そう、つい最近体験したはずだ。


 …まさかこれも魔法なのか?


 私の意識が微睡の彼方へと揺らいでいるさなか、目を覚ますような声が聞こえた。


「あいつは付きっ切りでお前の仲間を看病していたんだよ。そして、診療所で爆発が起こった時だ。あの時、一時的にお前の仲間を匿っていたのも彼女だ。こう、ちょっとばかし癖はあるが、お前を困らせたいわけじゃないと思う。だからお礼は忘れずにしとけよ。」


 手を止めず、視界の端に私を捉える様子でそう言った。


 しかしそんなことなど些細なように、疑問が一つ、否応なしに深い意識の底から浮かび上がってくる。


 レイニーはいつからここにいたんだ?


 そしてその疑問に誘因されるにように強烈に浮かぶものがあった。

 

 

 ダンテ、グラフィ―、レイニー、そして私。

 どうして私たちは洗脳されていないんだ。



 出かけた言葉を途中で飲み込んだ。


 誰もが忙しそうに各々の作業をする中、私だけが何もせずにそこに突っ立っているのだ。そんな質問で彼らの手を煩わせてしまったら申し訳ないと思ったから、ただ黙っておくことにした。いつか聞けるタイミングが来ると、そう思って。

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