第26話 終わりと始まり

 私の蹌踉そうろうとした足取りではたかだか滅多矢鱈めったやたらと杖先で泥濘ぬかるみ鋤返すきかえすだけであった。それが私の行える唯一の悪あがきであり、先頭の背中に追いつける気配はどこにもなかった。雑木林に敷き詰められている枯れ葉の絨毯が踏みにじられるたびに、雨後によくみられる発酵した堆肥の香りが狭霧さぎりに染みつき、せ返る程の芳醇ほうじゅんな森の香りとして鼻腔を刺激した。


 円柱状の杖先がバターを抉るかのようにぬっと地面に穿つ。途中で固い地盤に当たる感触があるとそれ以上にはまることはなかった。森の貯水性はこの森も例外ではないようで、額に前髪が貼り付き何度も手で払わなければならないくらいには湿気っていた。水気を帯びた空気は、昨朝さくちょうに降り始めた飛礫つぶてを打ち付ける程の黒雨こくうが原因でもあるのだろう。私たちによって踏み均された林道には、一定の間隔で窪みが穿たれたありさまだけが、足跡とは別の痕跡を残していた。


 それ程までに体を酷使したとしても、明確なまでの差というものが先頭と付いていた。足が健在だった頃の歩速とはいかない。きびきびとした歩調で私のことなんぞ配慮してはくれないラインハルトの姿は遥か彼方で点となって、彼の体のほとんどは白んだ灯りの一部と化していた。


 ラインハルトを先頭に、暗がりが足下を呑み込んで判然としない道を私たちは雁行がんこうしていた。起伏がない平坦な道であったがためにずっと遠くにいる彼の存在がかすみの向こうで灯りとして確認できた。彼の歩みに従って左右に揺れるランタンが腰辺りにぶら下がっていた。可燃性の香りが潤沢な森の香りの中で唯一輪郭を保っており、微かに暗がりを照らす灯が誘蛾灯ゆうがとうのようであった。彼の背後から放射状に伸びた後光が夜を曖昧にみせるかのように霞を退け、私の網膜に届かんとする寸前で暗晦あんかい光芒こうぼうを掻き消すのであった。


 立てば芍薬しゃくやく、座れば牡丹ぼたん、歩く姿は百合の花という言葉があるが、芍薬よりも巨躯であるグラフィが列の中程で後頭部で際立たせていた。大抵の男が上目遣いでないとその端正な顔を覗くことはできないであろうダンテですら軽く凌駕してみせるほどに、彼の頭部越しに頭を覗かせてみせる彼女に改めて驚愕した。彼女の身長を今まで正しく認識していなかったのは、私と一緒に行動していた彼らが、平均身長という概念を根底から揺るがしかねない背丈を持っていたことが要因であろう。そもそも、以前の私は彼らの背丈を正常に判断できる程の精神状態ではなかった。ラインハルトが同伴したこと、彼が私と同じような背丈であったために冷静に判断することができ、ようやく私の常識は麻痺していたのだということを思い知らされた。


「そういえば魔物と遭遇しないっすね」


 ダンテの呟きが私の元までわびしく届いて、誰も反応することなく再び、枯れ葉を破く音だけが静かにこだました。


 彼の軽鎧けいがいの特徴を挙げるならば布面積のほとんどが獣毛で構成されていることである。尚更なおさらに防寒服のような格好のため分かりにくいが、服の下には引き締まった肉体が眠っていることを私は知っている。子犬のようなスキンシップで、獣毛が私の肌をちくちくと苛めるたびに、大型犬のような隆々りゅうりゅうとした筋肉が感じられたのだ。すぐさまグラフィによって私と引き剥がされ、こってりと絞られていた。肌が岩陰に佇んでいる白魚のような冷たさと滑らかさであったことは満更でもなかったが。そんな彼がもやしにすら思えてしまう程に、対蹠的たいせきてき雄牛おうしのように逞しい体躯に刻まれた歴戦の痕を残した彼女の背は、視線を向けるのにも躊躇ためらってしまう。


 レイニーは最後尾で私の後ろに控えている行動自体にさして変わりはないのだが、疎疎うとうとしく三歩だけ距離を空けていた。このような状況に陥ったのはグラフィの暴露が原因であった。実際、彼女が私の執拗に舐め回すような視線には薄々と感づいてはいたのだが、こうも露骨に距離を空けられていると背中がむず痒かった。以前の私はその行動に不快感を覚えていたのだが、彼女の吐息が旋毛つむじに触れる程の距離感に慣れてしまった私にはそれがとても堪らなかった。


 それから悶々もんもんとしたまま夜の静けさに身を任せていると、ラインハルトの歩調に沿って揺れているランタンの「キィーキィー」と擦れる音が、街路樹のように左右に茂る樹木と呼応するかのように、葉擦れの騒めきと混然一体こんぜんいったいになっていた。森の喧騒すらも鼓膜から抜け落ちてゆき、終いには止め処ない音だけが苔のように鼓膜に貼り付いて、私は繰り返される音に辟易へきえきして悄然しょうぜんとうなだれた。じーっと目線を下に研ぎ澄ませてながら気を紛らわせていると、明らかに私たちの人数と一致しない数の足跡が濡れた土に浮かんでいたのだ。その足跡は掠れていて明確に識別できる状態ではないのだが、その劣化した足跡のどれもが類似しているように思えた。そして私が履いている学校指定の革靴と酷似していた。そのまま足跡は道なりに進んでいた。


 やはり私たちの目的地にはクラスメイトがいる。しかしながら、一つの心配がもたげ始めた。


 私の所属していた高校は地元では有数の進学校であったために、一クラスにおける生徒数は30と他校と比較してもかなりの数であった。だけれども、泥濘ぬかるみに浮き出た足跡は否が応でも認識せざるを得ない程に少ないのだ。それが異様な程に心持ちを暗澹あんたんとさせていた。


 はっきりとしない思考かつ、擂粉木すりこぎのような足を引きずりながら光を追っていると、ダンテの声が鼓膜の内側をそっと突いた。しかし、不安な考えが膨らむばかりの思考が私の頭を曇らせたために、彼が私に声をかけたのだと、そう認識するのにはかなりの時間を要した。


「到着したみたいっすよ」


 いつも間にか私の隣にいたダンテが私の肩を叩いていた。俯いていた私は地面に映る影が異様な程後方に伸びていることに気が付いた。ランタンから放たれていた淡い光とはおもむきが異なった、赤い光が照り返してきて、私は片腕で目を覆った。光を掻き分けるようにして顔を上げ、辺りを見回す。そこには葬儀場にような建物が陽炎と共に遠くから揺らめき立っていた。


 緋色にゆらゆらと揺らめき放つ松明がその建物を囲うようにしてその輪郭を浮き上がらせている。白煙が空中を揺蕩いながら夜空に霞をかける。


「ここは……」


 それ以上言葉が出なかった。見覚えはないが私は確かにそこに居た。確かに私はそこに居て、何かが私に大きな影響を与えたはずだ。しかし、どうしてか、その内容を鮮明に思い出すことはできない。まるで黒洞々たる暗闇が視界に覆いかぶさっているようで、その暗闇を拭い払うことはできないのだ。激しく早鐘を打つ気持ちが胸騒ぎを引き起す。


 その建物は深緑色の苔むした岩を切りぬいたような見た目である。それ以上は筆舌に尽くし難い、この世と切り離された奇々怪々の恐怖が景色に溶け込んで調和していた。


 星が夜空に煌めく。月がその姿を幻想的に映す。


「ようやく皆様にお伝えすることができますね。ここはアパナ聖殿」


 そしてアザミ様。そう彼に告げられた時に彼の蒼い瞳が飛び込んだ。それは余りにも一瞬で、永遠のように長い刹那であった。


「貴方には転移者ではなく、別の人物としてこの世界で過ごして欲しいのです」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る