第12話 終焉の一幕

 銀色の筋に煌めく玉露たまつゆが、薄雲に透け、少しばかり零れる太陽の光と共にキラリと明滅する。さながら蜘蛛の糸のように張り巡らされた氷の糸、その中心には気だるげに首を捻る彼の姿があった。


 屋根の上でへたり込み、ただただその景色に恍惚としていた。


 これほどまでに人を圧倒させる景色の中にいるのだ。私は、くっきりと浮かび上がる氷の結晶を、取り留めもなく眺め、その景色に魅了されてしまった。その水気を含んだ冴えた空気を思いっきり肺に吸い込めば、その景色を体に取り込めるのではないかとさえ思った。


 硝子のように煌々と、そしてあてもなく空中に漂う氷の粒の揺らめきの中に、彼はいる。鈍く霞んでよく見えないが、そこにいることだけは、はっきりと分かる。


 ふっと吹き、曇りガラスを拭い払ったようにその景色は鮮明さを取り戻す。寒さに鼻を赤らめ、白い息を弾ませる彼の姿が、そこにはあった。


「これで、ひとまずは一見落着っすかね…。」


 視線も魂も、奪われしまうほど華麗で圧巻な制圧であった。


 遠くでひっそりと佇む彼。視線が合った。


 そして彼女に視線を変え、突然背を仰け反ったかと思うと。


「グラフィーさーん。体内に爆発物があるのか、確認してもらえるっすかぁ!」


 そう無駄にやかましい声で、彼女へ呼びかける。


「そんな大きな声出さんでも聞こえるわ。あぁ、ちょっと待ってろ。」


 そういうと彼女は、やる気なさげに屋根から飛び降りた。


 靴が氷に張り付くのか、億劫そうにべりべりと、氷と靴との接着を剥がしながら兵士の下へ向かう。


 今ふと思ったが、裸同然の姿で寒くはないのだろうか。そう思い、女性にしては逞しい彼女の背中を見ると、様々な傷跡は残っているのは変わりないのだが、先ほどできた火傷跡のみが全く残っていなかった。


「あれ、どうして傷が…。」


「君ってホント、悪運が強いっすねぇ。」


「うわぁぁぁぁぁ!」


 彼が私の肩からぬうっと顔を出し、思わず尻餅を着いた。


「何を驚いて…。あーあ、顔に傷ができてるじゃないっすか。」


「いつの間に後ろに…。」


 私の慌てふためく様子を、さも可笑しそうにケラケラ笑う。


 彼は向かい合わせにしてしゃがんだ。切れ目で鼻筋がすうっと通った、いまだ無邪気さの残る美少年の顔がこちらまで近づいてくる。


 こんなに美しい顔をじっと眺めていると、何だかいけないことをしている気がして、無意識に顔を逸らしてしまう。


 そんな私の気持ちを気にした様子は見せず、彼の手のひらが、頬に触れた。


 氷かと思うほどに冷たい。


 何かと思い視線だけを彼に向けるも、彼の表情はあまり芳しくはない様子である。そして彼は「おかしいなぁ」と唸り、またも顔を無遠慮に触る。


 冴えなかった頭は次第に鮮明になり、今彼がやっている事を理解すると、恥ずかしさに顔が火照る。


「なっ、何をしているんですか!」


 しかし、彼の顔はいたって真剣のようである。


「いやはや、君は面白いっすねぇ。」


 そう彼は頬杖をついて不敵な笑みを浮かべた。何を考えているのかさっぱりだが、彼の表情に気味の悪さを覚えた。


 彼女も行っていたが、頬を触ると言う行為な何の意味があるのだろうか。いや、掴みどころのない彼が、またふらふらと何処かへ行く前に、聞かなくてはならないことあるのだ。


「何もない所から現れた氷は、いったい何ですか!」


「あぁ、魔法のことっすか?」


「ま、魔法?」


 『魔法』、それは空想上でしか聞いたことがないような言葉。以前の私であれば信じはしなかっただろう。しかし、その現象をこの目で直接見たからには、どれほど面妖であろうとも信じざる負えない。


 一瞬で目に見える全てが凍ったのだから。


 だから確信できる。


―――この世界には魔法が実在する


 私は驚嘆するとともに、より一層とんでもないことが起こっているのではと感じた。


 この世界は異世界であり魔法という概念が存在する。


 それは物語の中でしか知ることのできない事象が、今この身で体験しているという事実。


「また、初めて知ったような顔をしてるっすよ。」


 意地の悪そうに無邪気に笑って見せる彼。


 私のこの状況を面白がっているのか。いや彼のことだ、そうに違いない。


 グラフィと同じように彼もまた、私が異なる世界からここへ転移したということを理解しているはずである。しかし、知らないふりをするのはなぜなのか。


 まさか、油断を誘うためにあえて知らないふりをしているのか。


 それが事実であるなら、かなりの食えない人物かもしれない。


 しかし、彼自体が飄々としているため、その行動に意味はないのかもしれない。


 ううん、彼の素性が見えない。


 伏し目がちに彼の表情を見ても、やはりにやにやしている。


「お前ら、喋ってねぇで兵士たちが変な行動をしないか見張ってろよ。あぁ、さみぃな。」


 そう愚痴りながら、彼女は兵士の体に触れている。兵士たちは虚ろな瞳でただぼーっと遠くを見つめ、心ここにあらずの様子である。


「爆発程度じゃ傷なんてつかないじゃないっすか…。」


 彼は蚊の鳴くようにぼそっと呟く。


「てめぇ聞こえてるぞ!」


 彼の愚痴は聞こえていたようで、叱られた彼はしゅんと肩をすくめた。


 しかし彼の言ってることは矛盾している。現に彼女は爆発によって背中に傷を負ったのだ。今は元あった傷のみであり、爆発によってできた傷は見る影もないが傷を負ったのは確かだ。まぁ、彼の冗談の可能性も否めないが。


 ひとしきり兵士たちを調べ終えた彼女は、屋根にいる私たちへと顔を上げた。


「こいつらには、診療所の兵士みたいな仕掛けはないみたいだ。そして、術師との接続はもう切れている。まぁ、心配するに越したことはないがな。」


「そうなんすね。はぁ、めっちゃ疲れましたよ。」


 そう彼は肩を下げ、安堵の表情を浮かべる。


「安心するにはまだ早いぞ。近くに術師がいる可能性だって残っているからな。」


「そんなの十分承知してますよ。」


 そう言いながら、彼は屋根の上から彼女の方へ、ひょいと飛び降りる。


「じゃあ、ひと段落ついたことですし、兵士たちの催眠を解いてもらえるっすか?」


「あぁ、勿論だが。まさかこれだけの人数を俺一人でか?」


 私が見た限りだと、ざっと数えて20人以上の兵士がいる。


「そりゃ当然っすよ。ここにいる中であなたしか回復魔法を使える人物はいないんっすから。」


「いや、お前も一応は使えるだろうが。」


「ほ、ほら、僕はあの子の護衛を任されてるんで…。」


 そう笑ってはぐらかす。そんな様子を見た彼女は、いかにも不満げの様である。


「はぁ、これだけの人数を俺一人でか…。これは肩がこるなぁ。」


 彼女は肩に手を当て、首を回す。


「一旦お前も屋根から降りてくれ。ダンテ、アイツが降りるのを手伝ってやれ。」


「任せて下さいっす!」


「あんときと態度が全然違うじゃないか…。」


 彼女は誰が見ても分かるように嫌な顔を見せた。


 彼に手伝われながら、慣れない体でてこずりながらも、ようやく屋根から降りる。屋根の上も寒かったが、地面に近い方がより寒さを感じた。


 太陽はカッと照りだし、氷が白々と反射して眩しい。だから私は腕で額をかざして、薄目で辺りを見渡した。


 雪解がじとりと氷の表面を濡らしている。しかし、それ以外はまるで時が止まったように、あの時の戦闘のあらましをありありと伝えるようであった。私は、そんな侘しい景色を薄ぼんやりと眺めながら彼女の方へ向かった。


 せわしない一幕が終わると、家屋を覆う氷の塊が、なんだか以前よりも一層綺麗に思えるのはなぜだろうか。うつらうつらと眺める氷の景色は、より一層輝いて見えた。

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