一章

第1話 夢

 長い夢を見ていた気がする。例えば、好きな映画の続編がようやく上映されると聞いてわざわざ映画館まで足を運んだのに、期待していたほど面白くはなく、だけれども終盤に巻き返してくれる可能性にかすかな期待を抱き、結局は序盤の印象を覆す展開の訪れないまま、エンドロールを流し読みするかのような、嫌な虚脱感に苛まれていた。


 夢ならよかったのに。


                 

                  ◇


 

 目覚めた時の最初の感触は、まぶたの裏にじくじくと差し込む光の眩しさであった。身体を動かそうにも、まるで自分の身体ではないかのように、ピクリとも動かない。しばらく使われていなかった水道のホースのように、喉奥の空気をうまく押しのけてはくれなかった。

 白む視界にまぶたをしょぼしょぼさせ、徐々に瞳を慣らしていく。細めたまぶたの先には、赤があった。赤は次第に輪郭をハッキリとさせ、私の横、正確には私の横たわるベットの隣に鬼が鎮座していた。


「ヒぃ……」

 

 私の口から漏れ出た、死ぬ間際のセミのような断末魔だんまつま。自分からでた音なのに、まるで自分以外の誰かが発しているかのように聞こえた。

 鬼を見た時、私はまるで三途の川を渡っていたような気がした。しかし、私の目に飛び込んでくる久方ぶりの新鮮な景色は、あの世ではなく、むしろ現実であった。

 

 消毒液の香りに満ちた室内には、鬼の仮面を被り、真紅しんく甲冑かっちゅうを身に纏った、さながら赤備あかぞなえの武士のような者が、丸椅子に座って、じっとこちらを見下していた。甲冑の中身はからっぽと思っていたが、よく見ると胸部がかすかに上下しているため、中には人がいるのだろう。


 組まれた腕が、ぴくっと動いた。


「アザミ殿がご起床なられた!グラフィ殿、早くこちらに!」

「うるせぇ!そんなに大きい声で呼ばんでも聞こえるわ!」


 病室と奥の部屋とを隔てるカーテンの奥から、聴き馴染みのある声が耳奥に響いた。見知らぬ土地で顔なじみにあった時のような安心感が、喉元へと駆け上がってくる。私は声にならない声を漏らしながら、必死に身体を起こそうとした。


「ステイステイ。三日三晩も気を失っていたんだ。色々と聞きたいことはあるだろうが、今は安静にすることだ。分かったな」


 カーテンの横にある扉から入ってきたのは、真っ白なワンピースをゆったりと身に纏った、馴染みのあるグラフィの姿であった。彼女の姿を見た途端、心にわだかまっていた妙な焦燥感は抜け落ちてゆき、ぽすっという音と共にマットへ身体を沈めた。


「看病ご苦労さん。トト、一先ずは休憩しといてくれ」


 トトと呼ばれた者は、仮面のために男とも女とも判別できないくぐもった声で返事をした。


「それがしは『トト』などと言う矮小わいしょうは名前はとうに捨てた身。これからは『ノブナガ』と……」

「分かったからさっさと退け」


 グラフィは急かすように丸椅子の足を蹴った。


「……招致した」


 トトは不承不承といった風に立ち上がった。

 

 座っている時の上半身や、折れ曲がった両足から長躯ちょうくであるのは分かっていたが、グラフィと同程度の背丈であるのは驚いた。トトはさながら、叱られた大型犬のように首をすくめ、甲冑の金属音をジャラジャラと室内に響かせながら、病室を去っていった。


 グラフィは溜息をついて、トトのいた椅子に座った。


「騒がしくて済まなかったな。あの大柄のヤツはトトって名前でな、お前の世界の『センゴクブショウ』?ってのに憧れる、いわばオタクのような奴なんだ」


「大丈夫です」と言おうとするが、パクパクと口を動かすのみで、舌がもつれただけであった。喉に詰まった声を、唾液と共に喉奥へと飲み込んだ。


 グラフィは身を乗り出すように、大きく開かれた股の間で両手を合わせ、重苦しい姿勢とは異なった快調な口調で言った。


「心配するな。意識は回復したが、三日も寝てたんだ、身体はまだ本調子じゃないんだろう。呂律ろれつの乱れは一時的で、じきに身体は普段の調子に戻るさ」


 下の方はすでにギンギンかもな。


 グラフィの口から飛び出た下ネタは、まるで緩み切った楽器の弦が突然爪で弾かれたみたく、いつもの自分とは別の、異なる感情の線を刺激した。

 おそらくは、息の詰まる雰囲気を和ませるためにジョークを飛ばしたのだろう。彼女の乾いた笑い声が静かな病室に響いた。四方を囲む木の壁に笑い声が染み込み消えてゆくと、グラフィの引きつった笑顔がすっと消え、おもむろに顔を床に落とした。


「アザミ、お前って男、だったんだな」


 俯いたまま、独り言のようにぶつぶつと呟く。


「胸を叩いた時、女にしては胸が平たいなと思っていたんだ。その時は、その見た目でありえないと思っていたんだが、しかし、いやぁまじか」


 その時とは、私に魔力がないことを告げられ、気持ちの沈んだ私を奮い立たせるために、彼女が私の胸に活を入れた時だろう。自分の拳を見つめ、独り言のように何かを呟いていた彼女の表情には、そのような意図があったのか。自分の性別が正しく認識されていなかったことに、悲しくなってくる。


 ……いいや、そんなことはどうでもいいんだ。重要なのは、どうやって性別を確認したのかだ。


「……見たんですか」


 私の思いが通じたのか、しわがれた声が微かばかり漏れ出た。


 グラフィは得も言われぬ微妙な顔で弁明する。


「いや、その、あれだ…、別に見ようと思って見たんじゃないんだ。普通は同姓に着替えを任せるんだが、その時お前が男だなんて知らなかったんだよ」


 昏睡状態の私の身体を拭くために服を脱がそうとして、その結果、見てしまったというのが事の顛末てんまつであった。身に着けていたのが制服ではなく、布のような素材になっていることに、いまさら気が付いた。


 気まずい沈黙が室内に充満している。私は首だけをグラフィに向けて、乾いた唇を開いた。


「……大丈夫です。気にしていません。ありがとうございます」


 私は二重の意味で彼女に感謝していた。一つは、彼女なりの方法で雰囲気を和ませてくれたこと。そしてもう一つは、私を看病してくれたことである。

 身体が十全に動けなくとも、左足に巻かれた包帯の感覚が確かにあった。私の髪も、三日三晩も寝ていたにしては異様なほどに、綺麗に整えられている。傷の処置だけではなく、私のために付きっ切りで介護をしてくれていたのだろう。グラフィは疲れなんて微塵みじんも感じさせない至って平然へいぜんな様子であるものの、きっと彼女の性格ならそうするだろうと思った。


 感謝の言葉を受け取ったグラフィは、にこやかに笑って言った。


「お前の仲間はすぐ近くにいる」


 一瞬彼女の言葉に耳を疑った。そして、次第に言葉が意識の中に浸透してくると、喜びのあまりにベットから身を乗り出した。しかし、頭がズキッと痛み、巻き戻しのように、私は静かにベットへ横たわった。


「まあまあそう焦るな。仲間たちは特訓の最中で、まだお前の意識が回復したことは知らない。積もる話もあるだろうが、今は養生ようじょうが最優先だ」


「特訓、ですか?」


「ああ、お前たちが元居た世界に戻るためのな」


 私たちの元居た世界。その言葉を聞いた瞬間、それに呼応して転移、聖殿、結界。レイニーやグラフィ、それにセシリアとダンテ。重要なキーワードがまるで洪水のように脳裏に蘇ってくる。


「……前に言ったと思うが、転移には大量の魔力が必要なんだ。だが、お前たちを元居た世界に返すには、この世界の魔術師だけじゃ全然足りなくてな。だからお前たちを鍛えて転移者の力を覚醒させ、お前たちの手で転移の儀式を完成させる。そのための特訓だ」


 グラフィは「不幸中の幸いか、転移の魔法陣は復元されているからな」と、神妙しんみょうな面持ちで付け加えた。


 元居た世界に帰るための方法が彼女の口から提示された。頭の内側にモヤモヤとした霧が取り払われるような、そんな活路が目の前に現れた。私の頬は徐々に緩んでゆく。


 心が軽くなって思考に余裕が出来たためか、一抹の疑問が頭上に降りてきた。


「ダンテさんは、どうして私を殺さなかったのでしょうか」


 グラフィの本質に宿る優しさ温かさといった雰囲気は一変し、私との間に大きな壁を作るみたく、私を見つめていた眼差しが急激に遠ざかった。その話を振られることに露骨な不快感を示す表情を見て、あまり良い話は聞けないだろうと思った。

 意味ありげにたっぷりと間を取ってから彼女は話し始めた。


「アイツはなあ、何て言うか、好きな相手を虐めてしまうような、こじれた性格をしてるんだよ。ダンテはここにお前を送る役目を終える前に、近い将来お前に待ち受ける困難に立ち向かえるように鍛える必要があると考えていたみたいなんだ。だから、ダンテは俺たちを裏切ったように振る舞い、お前過酷な環境下に置くことで、精神的に強くさせるつもりだった」

 

「厄介な相手に好かれちまったみたいだな」と、グラフィは苦笑いを浮かべて下を向いた。

 

「ダンテさんってもしかして、ここにはいないんですか?」


 グラフィは、胸の辺りから折り畳まれた紙を取り出し、私の胸元にそっと置いた。


「ダンテはセシリアの代わりに王都へ向かった。やるべきことがあると言ってな。ダンテが黙って去ろうとするから、俺が手紙を書かせたんだ。なぜお前がこんなことをしでかしたのかをアザミに対して説明する義務があるって言ってな。……すまんが、少し中身を読んだ。体調が良くなったら読んでくれ」


「セシリアさんの行方は今も分からないのですか?」


「……セシリアもここにいる。あらかた話は聴収ちょうしゅう済みだ。突然失踪した理由や、どうやって結界内に侵入したのか、全部聞いた。だが、今は話せない」


「どうしてなんですか。また、私には話せないことなんですか?」


 グラフィはかぶりを振った。


「それは別に、お前に隠し事をしたいわけじゃないんだ。ただ、今はまだその時じゃないってだけだ」


「じゃあ今っていつなんですか」


 私の口調は苛立ちが滲んでいた。グラフィは、あたかも昔の自分にされていたことを再現するように、肝心なことを避けるような態度を見せる。その態度が暗に、「お前には関係ないから気にするな」と言われているかのようで、たまらなく嫌っていた。だから、無意識に語気が荒くなってしまった。


 グラフィはいつもの口調とは一変して、弱弱しく呟いた。


「アザミ。お前には、この世界の知識を得る過程で、転移者や転移者の置かれている状況、これから待ち受ける未来について知った方がいいと思っている。一気に情報を伝えて混乱させるよりも、段階を踏んで説明した方が身構えられるはずだ」


 グラフィの言葉には一理ある。異世界のことについて何も知らない私が、この世界の事柄について把握することは容易ではない。だから、この世界について学びつつ、セシリアについてや転移者の置かれている状況を理解する方が最適だろう。

 

 彼女の言葉には、話をはぐらかす意図はないように思えた。


「……分かりました。グラフィさんの言葉を信じます。感情的になって済みませんでした」


「俺も済まなかった。最初にお前と交わした約束は後になりそうだ」


 グラフィが村で私と交わした約束。私の置かれた状況を教えてもらう代わりに、私は自分の情報を提供すること。彼女は今でもその約束を守るつもりでいるのだ。本当に義理堅いし、それがグラフィらしいとも思った。


 グラフィは一つ大きな話を終えたような表情で、立ち上がった。


「なにか食うか?薬草ゼリーなら用意できるぞ」

 

 聞いただけで口内が渋くなる。私おそるおそる尋ねた。


「……美味しいんですか?」


「くそまずい」


「じゃあ……遠慮しておこうかな」


「いいや食え。動物の脂身と、特段効き目のよい薬草を混ぜた、獣臭くて死ぬほど苦いが、今のお前にとっては必要不可欠な栄養剤だ。吐いてでも食わせるからな」


 そこまでして食べさせようとするのは、私に魔法が効かないため、魔法での治療ができないといった理由もあるのだろう。……しかし、一つしかない選択権をなぜわざわざ選ばせたのか。私へのいじりがだんだんと強くなっている気がする。

 グラフィのそんな言動に、私は少し戸惑いを感じつつも、心の中では彼女がただ楽しんでいるだけだと思っていた。そして、なぜかその彼女のちょっとしたいたずら心に、私は少し慰められるような気持ちを覚えていた。


 やり残したことに気がついたみたいに、グラフィは扉に手を掛ける寸前で止まり、私を見て言った。


「お前って変わったな。最初会った時は、年相応になよなよしてんなぁと思ったが、意外にも肝が据わってたり、かと思ったらすぐにきょどったりで、よくわからんヤツだったが、何かこう、落ち着きが出たっていうか、一皮むけたって気がする」


 それとなく、それでいてあっさりとした口調が、心の乾いた部分に染み込んでいく。その言葉は波紋のように心の隙間を埋めてゆき、目頭に熱いものが込み上げてきた。その時、初めて、弱い自分を少しだけ変えられたような気がした。

 

 淡い感動に浸っていると、私をからかうかのように「下の方は剥けてないけどな」と捨て台詞を吐き捨て、私が怒りを覚えるまえにそそくさと病室を後にした。やり場のない怒りを落ち着けるために、毛布に顔を埋めて悶えた。


 暗がりに転がり込むと、まぶたの裏からぽつぽつと、転移してからの色々な思い出が浮かび上がってきた。そのほとんどが辛いことばかりであったが、今なら少しはいい夢が見れそうな気がしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

片翼のラプラスは蝶の夢を見る~私だけが知っている君の物語~ 馬場 芥 @akuta2211

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画