終話
──
ぼんやりと遠くから、雀の鳴き声が聞こえる。
やけに頬が温かい。男は暖かな布団の中で、ゆっくり意識を揺り起こされる。
ゆさゆさと、頭を軽く撫でて揺さぶられていた。
「ケンさん。ケンさんったら。起きないとキスしちゃいますよう」
「んん……分かった、分かったよ。起きるってば……」
若い女の声に、男……ケンは眠い目を擦って、上半身を起こした。
窓から零れる日差しに、たまらず目を細める。
声の主である若い女は、まだ結婚して日の浅い、ケンの幼妻だ。
「おはようございます」とにっこり微笑むと、妻はケンの頭を見てあらあら、と苦笑いして、頭を撫でつける。
「ケンさん、可愛いお耳が出てますよ」
「む。しまったな、最近よく出るようになっちゃって……」
ケンは苦い顔をして、頭から突き出た狼の耳を、掌で押し込めるように引っ込めた。
妻はその異様な大きい耳に特段驚くでもなく、「朝ご飯出来てますよ」と言って、夫の手を引きながらリビングキッチンへ向かう。
何気なくケンが壁に目をやると、お洒落なパンケーキの電子カレンダーが、2020年の8月24日を提示していた。
何気なく、「そろそろ五百年かあ」という一言がケンの脳裏をよぎった。
「昔の夢を見たんだ。僕が子供の頃の夢をね」
ケンがぱちん!と指を鳴らすと、キッチンに並んだ皿がひとりでに浮かび、テーブルの上に行儀良く並び始める。
若妻はやはり、特段驚く様子もなく、むしろお皿に「あなたはこっちね」と指示を出しながら席に座る。彼女にとっては見慣れてしまった光景だ。
朝ご飯に炊きたての白いご飯、葱入りのだし巻き卵、おつけものにタラの塩焼き。
久方ぶりの休日の朝ご飯を噛みしめながら、ケンは妻にそう話した。
すると妻は目を輝かせ、「ケンさんの昔話ですか?」と黄色い声ではしゃぎだした。
「ケンさんの子供の頃って相当可愛いんでしょうね~。いいなあ、是非聞かせてください!私、ケンさんの子供時代の写真って見たことないかも」
「こんな四十路のおじさんの子供時代なんか知りたいかい?若い子にとっちゃつまんないと思うよ」
「んもう、本当は五百歳のくせに、イジワル言っちゃって。私、ケンさんの事なら何でも知りたいです!」
「……元カノがいたって話でも?」
「それは私の気が狂うのでやめてください。ケンさんが私のものじゃなかった頃の話なんて、嫉妬してタイムスリップを目論むかもしれません」
「はっはっは」
妻は大真面目な顔で圧をかける。
そんな妻の怒った様子も楽しむように、大口を開けて笑いながら、ケンは熱いほうじ茶に口をつけた。
時刻は朝の八時半。雀たちが窓辺に並んで、ちゅんちゅん朝の唄を歌う。
テレビをつけると、朝のニュースが流れていた。今日も巷を騒がせる物騒な殺人の話題だとか、水族館でアザラシの赤ちゃんが生まれただとか、台風で新幹線が未だ復旧していないだとか、世間は今日も大賑わい。
「まあ、話すことがそんなにないんだよ。戦国時代の話だしね」
「ケンさんは、合戦とかに参加したんですか?」
「どうだろう、実のところ、その辺の記憶は曖昧でね。なにせ昔の僕は記憶喪失だったんだ」
「記憶喪失?」
「ああ。……最初の記憶は、暗い森の中だった。誰かに追いかけられて、どこかの浜に逃げたんだ。けど浜でも恐ろしい目に遭って、僕は海に飛び込んで……気付いたら見知らぬ浜に辿り着いていた。
そこで女の人に拾って貰って、小さな村で育てられたんだ。普通の子供じゃない、ってのは早々に自分でも気付いたよ。周りの子より格段に成長が遅かったからね」
「つまり、ケンさんはそれだけ特別子供時代が天使だった、ってことですね!」
「気楽に言ってくれるなあ。まあ、村の暮らしはつまらなかったし、僕を拾ってくれた母代わりの「童萬」って人は、村の外に出るなって口を酸っぱくしてよく怒っていてね。結局、村の暮らしに嫌気が差して家出したんだよ」
「うんうん、それから?」
「色んな所を旅したよ。一度だけ、僕を知っている人にも出会ったけど、あんまり僕は碌な奴じゃなかったらしい。
僕はそれから「ミタケ」を名乗るようになって、色んな魔術も修めた。合戦はあんまり好きじゃなかったな、嫌な匂いがしたし、争う意味って奴がよく分からなかったし。色んな人の元で、様々な魔術を学んで、色んな事をした」
「正義の味方になったり、悪の組織の大幹部になったり?」と妻は茶化す。
「ああ、スパイにも暗殺者にも、お医者さんや怪しげな製薬会社の社員にも、とにかく色んな人生を送った。……ああ、君に気を悪くしてほしくないから言っておくけど、僕は奥さんだとか家庭は持たなかったよ。
とてもじゃないけど、僕は自分のことしか世話が出来ない性分だったから、誰かと人生を送るだなんてとても考えつかなかったんだ。中々歳も取らないしね」
会話が一区切りついた頃、テレビのニュースが二人の興味を引いた。
ニュースキャスターとコメンテーターが会話をしている。
画面には、ある映画に関する画像や、よく知った俳優の顔などが並んでいた。
映像が切り替わり、ナレーターがゆっくり語り始める。
『いよいよ、映画「狼と夏藤」が本日公開!
今日はこの映画についてピックアップしていきましょう。
映画の原作は、戦国時代末期に成立した作者不詳の「夏藤物語」。
数奇な人生を送った一人の少女「夏藤」と、「紫月衆」という忍の頭をつとめた殿様「信月」の悲恋を描いた物語で……』
「あ、ケンさん!この映画、私が見たかったやつなんです。せっかくのお休みですし、お買い物がてら見にいきませんか?」
「ン?ああ、そうだね。映画なんて久しぶりだなあ」
空っぽになった皿を片付けると、二人は着替えて支度をすませる。
不意にケンは、鏡で自分の顔を見やった。老け込んだ顔は、長年培った魔術の知識でいじくった外見だ。ふと気が変わったのは、久しぶりに自分の昔話なんかしたからだろうか。
ぱちん、と指を鳴らすと、いつかの元の、少年のケンが鏡に映る。しばし自分の顔を眺めていると、「あーっ!」と妻の大声が隣から聞こえた。
「やだあ、ケンさんったら若い!お肌つるつるじゃないですか!それに美少年!」
「見た目だけなら君と大差ないと思うけど……」
「もしかして、この格好でデートしてくれるんですか?今まで何度言っても見せてくれなかったのに」
「うん、まあ……デートの時くらい、同い年くらいの見た目の方が良いかなって」
「私はどんなケンさんとデートできても嬉しいですけど……でもやったあ!」
意気揚々と、妻は嬉しそうにケンの手を繋いで外に出る。
夏真っ盛り、空は雲ひとつない快晴。若妻は「うわあ、お肌焼けちゃう」と笑いながら日傘を差し、それをケンが持つ。
暑いね、などと笑い合うが、二人の肌には汗一つ浮かぶことはない。魔術にかかれば、暑さ対策などお茶の子さいさいなのである。
映画館があるショッピングモールまでは、バスにゆっくり揺られていく。
夏休みの休日ということもあり、バスの中も、降りた先のショッピングモールも、当然映画館の中も、人でごったがえして溢れていた。
「わあ、すごい人の波!私、ポップコーンとドリンク買ってきますから、チケットお願いしますね」
「ああ、分かった。気をつけてね」
一度妻と別れ、ケンはチケットを買う列に並ぶ。
こんなに沢山の人で溢れた場所に来たのも久方ぶりのこと。なんだか懐かしささえ覚える。
今なら高校生カップル割引って押し通せないかな、と邪念を浮かばせながら並んでいると、長蛇の列に並ぶ、小学生くらいの男の子と女の子たちが、わいわいと大騒ぎしながら歩いていた。
「なあなあ、テレビで出てた信月の役の人、あれ若丸の父ちゃんってマジ?」
「すごいわ!
「あはは……俺も親父が俳優ってのは最近知ったんだ、ごめんな黙ってて」
「ミタマちゃんも知ってたんでしょ、若丸のお父さんが俳優って!いいなあ、サインほしいなあ~!」
そんな会話に興味を抱いて、ケンは子供達を見やった。若丸と呼ばれた、鷲鼻に恰幅のいい男の子が友達に囲まれながら小突かれている。
その脇で、ミタマと呼ばれた青い髪の女の子が「これこれ、暴れるでないぞ」と男の子達を窘めている。その愉しそうなさまを見て、懐かしいものがこみあげて、ケンは不意に声を掛けそうになった。
それより早く、男の子達の先頭に若い赤髪の女が、「こらぁ、暴れんさんな。静かにせんね!」と男の子達を叱りつける。
男の子達は萎縮すると、「ごめんなさい、イサオお姉さん」と謝って、途端に大人しくなった。ミタマはその尖った空気を和ませるように、「ほれほれ皆、列が進むぞ」と声をかける。
彼らの会話に思わず聞き入っているうちに、列は進み、ぼんやりしたままチケットを二枚買っていた。若い格好を見てか、気を利かせたスタッフが「次から学生証をお持ちくださいね」と言って、勝手に高校生割引にしてくれていた。
「そういやトウイチは?」
「あいつ列に並ぶの嫌いだからなー。どっかその辺ほっつき歩いてるんじゃね?」
「どうしよ、ここ結構広いから、迷子になっちゃってるんじゃ……」
妻を待っていると、慌ただしげな声が近くにあったので、意識を向ける。
同じくチケットを買った子供達が、誰かを探しているようだ。
イサオと呼ばれた女性が電話をかけ、「高雄おじさん?トウイチが迷子になったらしいんやわ、食べ物買ったら探してくれん?」と告げると、子供達を連れてどたばたと劇場ロビーの中を探し始めた。
妙に目を引く騒がしさだったなあ、と思いながら、足は物販の売店に向かっていた。
先にパンフレットでも買おうかな、と思ったのである。
チケット売り場やフード・ドリンクのエリアに反して、物販エリアは殆ど人がいない。映画の上映中だからだろう。
欲しかった「狼と夏藤」のパンフレットは売り切れだった。人気らしい。見本誌以外は無いようで、その見本誌も、一人の男の子が食い入るように読んでいた。
「……ふーん、まあまあ面白そうじゃん。恋愛モノとか、絶対眠いと思ってたけど」
男の子は言いながら、見本誌をしまい直して、振り返る。
同じく見本誌を見ようと、並んでいたケンとぶつかり、男の子は「いでっ」と悲鳴を上げて尻餅をついた。
「いててて、尻が……」
「おっと。大丈夫かい」
咄嗟にケンは屈み込んで,男の子を立たせようとした。
彼岸花のような前髪と、短く刈った黒い髪が印象的な男の子だ。鋭い目つきがぎろ、っとケンを睨んだかと思うと、「どこ見てんだよ、危ねーじゃんよ」と喚く。
ケンは男の子の顔に魅入って、そっと手をのばし、丸い頬が掌を撫でた。
「……フジ?」
男の子はぽかん、とケンを見上げていた。
しかしすぐに、自分で立ち上がると、男の子は憤慨したように鼻を鳴らす。
「誰だよ。俺は高橋トウイチ!フジなんて名前じゃねえ!気色悪い兄ちゃんだなあ」
酷い口ぶりで罵ったかと思うと、ケンを振り払う。ぱしんっと肌を叩かれただけなのに、何故か痛みが火のように熱い。
その時。背後に小さな足音が聞こえてきた。
「やっと見つけた、高橋!お前、一人でふらふらほっつき歩いてんなよ」
「あ、大山」
は、とケンが振り返ると、そこには男の子がいる。つんつんと尖った黒い髪、ケンと同じ蜂蜜色の瞳が煌めいた。
大山と呼ばれた男の子は「皆探してたんだぞ。早く来い」と乱暴にトウイチの手を掴む。
トウイチは「うるせえ、指図すんな、手掴むなバカ力!」と喚きながら引っ張られていく。
そうして先程の男の子たちが、二人を見つけるや「どこ行ってたんだ、ばか」「映画もうすぐ始まっちまうぞ」と小突き、トウイチは「悪い悪い」と歯を見せてにっかり笑った。
ケンはその光景に、ただ胸を締めつけられた。どうしてこんなに胸が苦しいのかも分からないまま、呆然としていた。
そのうち、妻がポップコーンとジュースをのせたお盆を持って、意気揚々と戻ってくると、ケンを見て驚いたようだった。
「どうしたんですか、ケンさん。なんで泣いてるの?」
「さて、何でだろうな。分かんないんだ、自分でも」
ケンは自分でも気づかないうちに、ぽろぽろと涙が溢れていた。
けれど、涙を拭う気にもなれなくて、妻にハンカチで拭われながら、ふと想う。
己でも分からないけれど、じんわりと胸が熱くなっていた。なんとなしに、あの少年に雑に手を振り払われて、やっと「許された」ような気がしたのだ。
「ごめんね、急に泣いちゃって。歳のせいかな、涙腺も脆くなっちゃったなあ。
僕ってよく考えたら、結構なおじいちゃんなんだよな。この先、またこんな事が急にあるかもしれない」
「いいんですよ。泣きたくなったら、私がいつでもハンカチで拭いてあげます。
私、怒った顔のケンさんも、泣いてるケンさんも、どんな顔でも私に向けてくれるなら、とっても嬉しいんです。あなたを愛してるから」
ね、と妻は朗らかに笑った。
ケンもつられて笑うと、気恥ずかしそうに「ありがとう、僕も愛してるよ」と小さい声で笑うと、重たいお盆を持った。
もうすぐ劇場に入場できます、とアナウンスが告げる。二人は腕を組んで、薄暗い入場口へと向かうのだった。
◆
狼と夏藤 上衣ルイ @legyak0810
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます