其の二二


燃え盛る炎の中、十波は赤子を抱えたニトウとケンを背負い、どうにか辛くも城から逃れた。

不思議なことに、焼け落ちゆく柱や壁、そして取り巻く炎が、彼らを襲うことはなかった。これは天甜酒がもたらす神気のお陰であったが、十波は知る由もない。

城から脱出した者たちと落ち合うか悩み、十波は森へ逃げた。

生まれた子供たちの事を説明するだけの言葉と覚悟が、十波になかったためである。

夜と城が炎の赤に染められるさまを、森の中から呆然と見ていた。


「姫。赤子とこの男の事は、また後程お尋ねするとして、今はお休みください。

ひどく体が冷たいです。起きていると体に障ります」

「大丈夫。それより、ケンの様子を……あ」


二人が会話を交わしていると、やっとケンが身を起こした。

目の焦点があっておらず、夢見心地のようにぼんやりとしているようだった。

だが徐々に、意識がはっきりしてきたのか、顔が強張り、困惑の色がにじみ始める。そしてすぐそばに、十波とニトウの姿を認めると、ぎょっとして、犬のように四つん這いになり身構えた。


「なんだ、お前たちは。何者だ?ここはどこだ?

それにこの格好はなんだ。どうしてこんなに頭が痛むのだ……いや、それより。

?」


ニトウは言葉を失った。

何ということだろう。あの鏡によって跳ね返った光は、ケンから、己が何者であるかも、自分たちが誰であるかも、そしてこれまでのことも、一切合切すっかり奪い去ってしまったのだ。

一切の全てが記憶になく、あてもない正体もない恐怖と困惑に囚われ、怯えている獣そのもの。

近寄ろうとすると牙を剥き、「寄るな!」と吼えてよろ、と後ずさった。

苦しげに頭を抱えて悶えるその姿は、徐々に毛深くなっていき、体の形が変わっていき、耳は尖り牙は鋭くなっていく。


「落ち着いて、ケン。私はお前の味方です、妹なのです。どうか怖がらないで」

「嫌だ、お前を見ていると胸がずきずきして痛くなる。

 俺……お前が嫌いだ!妹だったら、どうして俺が忘れているんだ!」

「話を聞いてケン。私はお前が何者なのか知ってる。忘れてしまった理由も」

「うるさい、頭が痛い、俺……俺は誰だ……なんで何も思い出せないんだ……!」

「そんな、行かないで。逃げないでケン!お願いだから!」


少年は背中をのけぞらせ、力の限り吼えた。胸元からカラン、と小刀が空しい音を立て落ちる。

身にまとっていた服はちぎれ、背中を丸め、人らしい骨格が嫌な音を立て壊れていく。やがて、全身が黒と銀の毛皮に覆われた狼が、そこに現れる。

十波が「もののけか!」と喚き刀を振るうと、狼は戸惑うように唸り、身を翻して走り始めた。


「待って!行かないで、兄さん、……兄さん、ここに居て!」


悲痛なニトウの叫びが辺りに響く。

追いかけようにも、十波が「いけない、食い殺されるぞ!」と必死に押しとどめた。

狼は止まらなかった。ただただ、夜の森の中を、風のように走り続けた。

どうしてこんなに頭が痛むのかも、こんなに胸が苦しいのかも、自分が何も覚えていないのかも、何も分からなかった。

ただ、目の前の女を見た時、「離れなければ」と叫んでいた。


どこまでも、どこまでも狼は走った。気づけば闇に覆われた山に、朝日が差し込む。

星空は夜の帳を先駆けるように逃げていき、まばゆい曙が空を照らした。

朱と白の入り混じる、青ですらない色が天上を彩っていく。

狼は、悲しくて、寂しくて、目から涙が溢れて止まらなかった。


夜になっても、狼は足を止めなかった。

あてもなく走り続けて、気づけば狼は浜辺に来ていた。なんとなしに、ここへ足を運んだのである。

そして狼は身悶えすると、再び少年に戻った。

力尽きるほど走ったが、やはり自分が何者かは思い出せなかった。


「ひとりで来たんだね。狼の坊や。鏡でずっと、お前を見ていたよ。

あんな酒の使い方をするだなんて、なんて子だい。確かに神の酒は、不老と長寿の力を与える強い水だ。しかしあれは、それをかなり薄めただけのもの。せいぜいが子の育ちを助け、丈夫な体にする程度のもの。

それをあんなにがぶがぶ飲んで、あまつさえ浴びせるだなんて。元々不死であるお前だけならまだしも、あの子たちにまで、その祝福のろいはあたえられてしまった……」

「誰だ!?」


夜の海の中から、平坦で静かな声がする。

怯えながら少年が顔を上げると、そこには女が一人いた。

真っ赤な猩々の面を被り、煌びやかな服を身にまとった赤毛の女であった。

少年は異様な姿を見て、驚きに後ずさるが、女は気にせず近寄り、少年の顔を撫でて言葉をかけ続けた。


「可哀想に。鏡に魂を取られてしまったのだね。

鏡は真実を映し、邪なるものや呪いを跳ね返してしまう。

お前は、これまでの自分をすっかり自分自身で砕いてしまった。それは自業自得というものだ。お前があの女の手を取っていれば、少なくとも穏やかな一生を送れたはずなのに。

今はまっさらな、善も悪もない、ただの獣だ。この乱世で生きるには、あまりに無垢がすぎる。おいで、お前の生きるべき世界を示してやろう」

「いやだ!いきなり現れたかと思ったら、意味の分からないことを好き勝手ばかり言いやがって!」

「来るのだ、ケン。お前は人として超えてはならぬ境を超えた。ならばその報いは受けねばならん」


女の姿が徐々に変わり始める。真っ赤な髪がずるずると伸びて、鮮やかで細い珊瑚に変わり果てていく。

肌は毛深く、掌や顔にはきらめく鱗が生えていき、仮面がぼとりと落ちて、そこには美しい人の顔があった。

煌びやかな服の下からは、海の生き物たちのひれや触手がぞくぞくと生えていき、少年にまとわりついていく。

すっかり腰がぬけた少年は、砂を這って逃げ惑うが、まもなく黒い無数の蛸や海月の足にすがりつかれ、咄嗟に頭の中に浮かんだ名前を呼び叫ぶ。


「いやだ、触るな!怖い、怖いよ、助けて、助けてニトウ!嫌だぁあああ!」

「ケン、もうお前は人の仁愛に触れることはかなわぬ。

 ニトウやお前を取り囲む者たちが与えた慈愛を、お前は自ら断ち切った。その罪は五百の歳月をかけて償わねばならぬ。

心を忘れ、仁義も礼節も情けも忘れた生き物として、誰とも縁を紡げぬままに生きるのだ、狼よ!」


少年は絶叫し、泣き声を上げて、がむしゃらに助けを求めた。

無我夢中で手足をばたつかせて暴れ、珊瑚の髪が足を切り裂こうと、海の怪物たちが嫌な磯臭さを放ちながら、胸や手や顔に貼りつき、引っ掻こうとも、少年はもがいた。

全身を凍てつくような冷たさが包んでいく。は、と全身を見ると、まるで波や藻のような不気味な紋様が、皮膚の下を這いまわり、侵食していくさまを見た。


その時である。夜の闇を裂いて、銀色の光が浜を駆け、猩々の肩を貫いた。

一振りの小刀である。猩々がそちらを見ると、遥か遠くに、美しい髪をした女の姿が見えた。

それは、息も絶え絶えに少年を追いかけてきた、ニトウその人であったが、少年は気づかなかった。

猩々の動きが止まった隙に、少年はおぞましさに全身を掻きむしると、俺を蝕む髪や海の生き物たちを振り払い、やっと猩々から解放された。


「さあ往け、獣よ。常に月のような冷たい心がお前のうちにある限り、お前に下された罰は終わらぬのだ」


猩々はゆっくりと海へ沈んでいく。その底冷えする声を背に、再び少年は獣に姿を変え、海に飛び込んだ。

手足をばたつかせ、遮二無二泳いだ。浜が見えなくなるまで、泳いで、泳いで、泳ぎ続けた。

ニトウはじ、っと狼が見えなくなるまで、黙って見送った。

両頬にたえず涙を流して、やがてその場で膝をつき、嗚咽して、ニトウはただ、悔いた。


そうして狼は、夜の闇に姿を消した。

暫くして、後を追うように、ニトウは女の赤子を十波に託し、やはり城から姿を消したという。

狼と丹藤姫の行方を知る者は、誰ひとりとしていなかったという。


長い時が流れ、いつしか、消えた狼と姫のことは、誰も口にしなくなったとさ。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る