其の二一
それは、ミタケにとって、思いも寄らぬ一言であった。
菩薩のような穏やかな笑みだ。
先程まで露わにしていた、憎しみも恐怖も、苦痛もない。
今度はミタケが、フジに薄ら寒いものを覚える番であった。
「は……なんだ、その顔は」
「どうしてお前がそこまで必死になるか分からないけど。
お前、本当は怖いんだろう。この先、どんな風に生きていけばいいのか。復讐の道標もへし折れて、何を幸福として寄る辺にすればいいか、ちっとも分かってない。
だから、私という復讐の相手が欲しいんだ」
「うるさい……うるさい!分かったような口を聞くな、莫迦女!」
「また叩くのかい、いいよ。好きなだけ殴ると良い。でもどれだけ私をいじめたって、お前の心が晴れるわけがない」
怒りで頭に血が上り、ミタケは咄嗟に手を上げた。
だがフジは、振り下ろされた手を見切って、身をよじると、懐に潜り込んで、反対にミタケの頬を力強く叩く。
不意打ちで頬を叩かれ、ミタケの体がよろめく。転びかけた手を掴んで踏ん張ると、二人ともその場に崩れ落ちた。
「ねえ、ケン。お前、自棄になってるんだろう。
殿様と紫月様の期待を、こんな形で裏切ってしまって、破れかぶれになってるだけさ。少しは頭を冷やしな」
「うるさい、俺は初めから、いつかはこうするつもりで」
「ほら、おいで。良い子だから」
ニトウの手が、項垂れるケンの頭をぐっと抱き込んだ。
その体の温かさに、ケンはぞっとした。今すぐにでも突き飛ばしてやりたいのに、押しつけられた体から、甘くて懐かしい匂いがして、振りほどけない。
濡れた手が、ケンの硬い髪を不器用に撫で回す。
顔を見上げれば、断続的に襲う腹の痛みに歯を食いしばりながらも、笑顔をつくろうニトウと目があった。
「一緒に、謝りに行こう。訳を話して、せめてお許しを貰おう。
殿様も紫月様も、そりゃあ怒るだろうけど、もしかしたら永久に追放されるだろうけど、黙って居なくなったら、皆悲しんで、ずっと探してしまうだろうから。
それさえ約束してくれるなら、私は地の果てだろうと、海の底だろうと、お前に着いていってあげる。けじめだけは、きちんと付けなきゃ」
「お前……何を、言って……」
「お前はどれだけ私が憎くて、苦しめたくて、いじめたくてたまらないだろうけどさ。それでも私にとって、お前は兄さんなんだ」
ちかちかと、火花が目の中に散る。
鮮烈な光が閉じた目の中で、記憶の花となって花開く。
鞭打たれた奴隷としての幼い日々、手を引いて逃げた強い風の吹く夜、あばら家で過ごした時間、殿様に褒められて頭を撫でられた日、紫月やフジと共に紫月衆の面々と巡り合い過ごした日々。
なぜ、こんな時に限って、こんな過去の日々が眩く思い出されるのか。
「私はもう、お前だけは絶対見捨てたりしない。
だから、お前も、大事なものを、そんな悲しいやり方で捨てないでおくれ。
せめて、大切なものだけは、綺麗にしまいにしよう。
いつ終わるかも分からない長い命の中で、残されるのが怖いんだろう。なら、この世が終わるその日まで、私だけは、お前に付き合ってやる。
お前の寂しさも、悲しい気持ちも、ぜんぶ受け止めてやる。
どうせ、死ねない命になったなら、最後まで面倒見るのが、筋だろう」
再び雷が落ちた。
白い閃光が城のすぐ傍に落ちて、それは激しい炎となり、瞬く間に城の周りを包み込み始める。
誰からともなく「火事だ」と叫び、城の中も外も大騒ぎになった。
だが、二人にはそんな喧噪すらも、ちっとも聞こえちゃあいなかった。火の手が回ってこようとも、叫び声が聞こえようとも、煙の臭いが辺りを包んでも、まるで別世界の出来事のようであった。
震えの止まらない少年の手を、今は心も凪いだ少女の手が、しっかりと包みこむ。
「今日から私が、お前の家族だ。
お前のために、全部捨てたって良い。だからこの手だけは、絶対離さないで」
痛みに耐える、力強い声。
火の粉が散る音よりも鮮烈に、ニトウの言葉が、少年の心を震わせた。
それが少年にとっては、おそろしかった。
自分の中でやっと灯った炎を、優しい雨の言葉でかき消されてしまうかのようで。
嫌だ。この少女に抱く想いを認めたくない。でないと、自分の心の臓が真っ二つに裂けて、自分自身が壊れてしまう。
その手は、最後の力を振り絞って、少女の身重の体を突き飛ばしていた。
「あうっ!?」
「うるさい、
そんなに願うなら、お前から一番大事な「
俺のことも、紫月様のことも、殿様や皆の事も忘れさせてやる!
自分が何者かも忘れ、なぜ子供を孕んだのかも忘れ、何も持たぬ女として永遠を彷徨え!それが俺の、俺に出来る復讐だ!」
心に絡みつく躊躇いを振り払うように、力の限り叫びながら、ミタケは呪いを唱え始めた。
ケンの口からどろどろと青黒い煙のようなものが溢れはじめ、悪臭と共に煙の色は白へと変わっていく。
印を結ぶケンの指先に怪しげな光がともり、一つの集約していく。
その時である。扉の方からけたたましい音が響いた。
炎で脆くなり、結界が緩んだことで、扉を壊し十波がけ破って飛び込んできたのである。
「仁藤姫、無事か!おのれミタケ、そこで何をしている!」
「ちっ、邪魔をするな木偶の棒!」
場の状況を見て理解し、十波は主の危機のため刀を振り払う。
すかさずケンがとんぼ返りをして距離を置いたことで、印を結ぶ手から光が少し萎む。身構えた十波が刀を手に突貫するが、ケンは機敏に太刀筋を紙一重で躱していく。
ニトウは肝を潰す心持で、二人の攻防を見守るほかない。無意識に腹を庇うように、じりじり後ずさる。
決着は一瞬でついた。十波が縦断せんと大上段から刀を振り下ろした隙を狙い、高く跳びあがると、ケンは光が集まった己の手を、十波の顔に押し付けた。
途端、十波は悲鳴を上げて身悶えすると、刀を取り落とし、その場で崩れ落ちて白目を剥いて倒れてしまったではないか。
「十波、しっかり!ケン、何をしたんだ!」
「記憶を消してやっただけだ。なに、今のは力が弱かった。
せいぜい俺一人をすっかり忘れてしまった程度だ。動くなよ、次はお前だ」
「やめて、馬鹿なこと言ってないで、十波をもとに戻して!」
再び印を結び、呪文を唱えながら、一歩ずつニトウににじり寄る。
記憶を消し飛ばす輝きが指先一つに集まり、今度こそと輝く指先がニトウの顔へ向けられた。
腹の痛みで、ニトウはまともに動けない。這いつくばって後ずさるうち、ニトウの手がつるりとした平べったいものに触れる。
ぬらぬらと部屋を覆う火光が、少年の顔を強い影で塗りつぶしていく。
「去らばだ、ニトウ。あわれな女よ!」
ニトウは恐ろしさのあまり、掴んだものを盾にしようと、手にしたものを顔にかざした。
皮肉にも、それはケンがニトウに土産として贈ろうとした鏡であった。
鏡はケンの恐ろしい顔を映したかと思うと、放たれた忘却の光は、鏡に吸い込まれた。直後、綺羅星のように閃光が鏡がら放たれ──ケンへと、跳ね返り、直撃する!
「ぐ──あああああああああああ!」
光はもろに眉間を穿ち、激痛からか衝撃からか、少年はどたりと倒れこんだ。
動かない少年へニトウが駆け寄ると、背後で十波がううん、と呻いた。
不思議そうな顔をして起き上がり、周りを包む火の手を見てぎょっと目を見開く。
「うわ、炎がここまで!姫、早く外へ」
「分かってる、今行く……あ、あああああ――――ッ!」
「姫!そ、その腹は……!」
やおら、かつてない激痛に苛まれ、ニトウは這いつくばったまま絶叫する。
ニトウの着物の下から洪水のように水が吐き出され、少女の体が何度も痙攣する。
十波は狼狽えながらも小さな体を抱きかかえようとすると、「駄目」とニトウ叫び、しがみついて押しとどめた。
何故、と問うより先に、またもニトウの口から獣のような悲鳴が上がった。その声の悲痛さたるや、戦場では死をも恐れぬ十波ですらたじろぎ、足が動かぬほどであった。
そしてひときわ大きな絶叫の直後、ニトウの両足の間から、ぼとりぼとり、と重たい音が二つ響く。
十波はその音の元を見やって、石のように固まるほかなかった。
「あ、ああ……うまれ、た……」
「姫。まさか、これは貴女の子か?」
赤子だ。それも、只の赤子などではない。
かたや愛らしい女の赤子、そして──狼の耳と尾を持つ男の赤子。
ニトウは燃え盛る炎にも構わず、震える体を無理やり動かし、歯でへその緒を嚙み切った。
そしてよろよろと子を二人とも抱き上げ、倒れ伏したケンに近寄り、にっこり微笑んだ。
「なんだ。お前に似て可愛い子じゃないか、ケン──」
◆
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます