其の二十
「……私が……ミタケの、子を……?」
その一言は、脳を直接
腹の中にいるのは、ミタケの子。
フジには心当たりなどなかった。多少なり学はあれど、男と女が何をすれば子供が出来るかという当たり前の知識は持ち合わせていなかったのだ。
けれど、まだ嫁入り前でありながら、お殿様でも紫月でもなく、ミタケの子を宿してしまったことの意味は、いやでも理解してしまった。
意図せずして、フジはあの兄弟たちの想いや期待も、老夫婦の心も裏切ったのだ。
呆然と立ち竦むほかなかった。
自分のしでかしを自覚して、今更手足が冷えて痺れていく。
蝋燭の寿命は短い。じりじりと、少しずつ部屋は暗がりを取り戻して、互いの輪郭を貪り食らっていく。
「ああ、そうとも。やってしまったなあ、俺たちは。
殿下も、紫月様も、さぞや怒り狂って、嘆き悲しみ、俺達を侮蔑するだろうさ。
ばれたら縛り首か、斬首か。それとも生き埋めか、車裂きだろうか。
なあニトウ。今、どんな顔してるんだい」
「やだ、ケン、お前おかしいよ。なんでそんな恐ろしいことを平気で言えるんだい!」
震える声で突き飛ばそうにも、力強い手から逃れる術はない。
乱暴に顎を掴まれ、ぼんやりと照らす灯火が、顎先から頬をなぞるように、二人の顔を照らした。
橙の蕩ける色が、ミタケの顔を不気味に照らす。
まだ幼さの残る少年の相貌は、まるで粘土で作った泣き顔を捏ねくり回して雑に歪めたような、醜い笑みをたたえていた。
恐怖に息を飲むフジを押し倒し、ミタケはうっそうと笑みを深める。
「ああ、そうだ。おかしいんだ、きっと俺は初めから狂っているんだ。
変だな、俺はどこで道を間違えたんだろう。初めは上手くやれていたのになあ。
駄目なんだ、俺はまっとうに何をしても、心が満たされないんだ。
犬神をこさえたときは、あんなに愉しかったのに」
「……なんだって?」
掌から伝わる体温が、掴んだ肌もろとも、骨まで灼くような熱に思えた。
不意に彼の口から飛び出した言葉に、フジも、吐露したミタケ自身も驚いて目を丸くした。
けれど再びミタケは不気味な笑みを作り直して、いっそう開き直ったように、饒舌に語り始めた。
「そうだよ。ちいこかった頃の紫月様が眠っていた部屋の屋根裏にいた、あの犬神さ。あれは俺がつくったんだ」
「……ま、まさかお前。殿様に気に入られるために、わざと紫月様を病にしたのか。犬神まで創って!」
「そうさぁ、時間は掛かったけどな。
そりゃあ犬の生首を切り落とすのは不愉快だったけどもな、狼じゃないからそこまで心は痛まなかった。残りの肉はちゃんと食ってやったとも。
だってああでもしなきゃあ、お殿様に恩は売れないだろう。一芸だけじゃあ食っていけないのが乱世だ。いつまでたっても下郎暮らしはうんざりだった。
お前が仕事に慣れてからは、ちっとも躾け甲斐がないし、ただ力仕事をするだけの日々はつまらなかったからなぁ」
「お、お前、なんてことを……もし殿下や紫月様が、そんな外法の真似をお前がしでかしたと知ったら何と仰るか……!」
「気付くもんか、あの暢気で勘のにぶい兄弟が!
なあニトウ、あの犬神の出来はとっても良かったろう。お前の父親が俺の父親の首を切り落したように、俺もそうしたのさ。十二のあの日から、俺はとっくに外法に墜ちていた。もう今更だ。
一度墜ちてからは、本当に気楽だったとも。誰の命を奪おうとも、どれだけ汚い事に手を染めようとも、どれだけこの身が穢れて血染めになろうとも。
俺には「大義」があった。それをするだけの正当な理由が用意されりゃあ、俺は立派な殿様の懐刀だ。しばらくはお前をいじめなくても、心が満たされた。
紫月衆の一員として働く間も、お前を心ゆくまでこき使って、好きなだけ頭を働かせて悪事を働くことが、とても、とても愉しかった……」
金色の瞳が、思い出をなぞるように目を細める。
だがな、と言葉を切った途端、ミタケの目が虚ろに黒く濁った。
朗々と饒舌に回っていた口が閉じられたところで、おそろしさは拭いきれず、寧ろ真綿で心臓を締め上げるような重圧が辺りに満ちた。
未だに切ってない銀髪交じりの髪からは、嵐の夜の匂いがする。
「お前の父親の首を斬ってから、変わっちまった。
あれほど俺の中でぐつぐつ煮えたぎっていた、野心だとか向上心だとか、俺を突き動かしていた炎に似た何かが、ごっそり削ぎ落とされてしまった。
なんでだろうな。父様の仇を討ちたいとあれ程願っていたのに、あの村を思うさま焼き払って、村人達を腐った肉袋に変えて、山に打ち捨ててやれば、どれだけ胸がすっとするかと、いつも心に描いていたのに。
いざ終わってみれば、俺の心には灰しか残っていなかった。何をしてもつまらない。
何を言われても、心が動かない。こんな僻地に左遷されても、ちいとも悲しくもないんだ。紫月の皆に慰められようとも、罵られようとも、心はぴくりとも何も感じない……」
ミタケの骨張ってたこだらけの、無骨な手が、フジの長い髪を梳く。
時折痛む腹を庇い、フジは身動きも取れないまま、黒く濁った泥の目を見つめるほかない。
夜に、音も生気も飲み込まれていく。新月の夜は、妖魔すら身じろぎしない。
荒い息づかいを貪るようにミタケは再び口を開く。
「殿様と紫月様にしたってそうだ。
わざわざ争いの種を撒いてやっても、血縁の真実を匂わせても、二人は不仲を極めてお前を奪い争うどころか、流行病のせいで絆はより一層深まってしまった。
殿はそのうち、紫月様に、城も立場も全て譲ることになるだろう」
「お前、どこまで悪どく立ち回ってるんだ」
「我ながら、外法には節操なく手を出したとも。
だがどうも、俺は悪だくみに関しては、あと一歩というところで詰めが甘いらしい」
ミタケは自嘲した。
全てを諦めきった、乾いた笑い声だった。
「こうしてお前の顔を見て、はっきり分かった。
やはり俺には、復讐心しかない。お前の顔が絶望に、痛みに、苦しみに歪んで涙を流す時だけは、この胸に生きた火が戻る。
やはりお前の言う通り、俺は
可哀想に、ニトウ。お前は死ぬまでずっと、いいや、とこしえにずっと、俺に苦しめられるしか道はないんだ。
人生の幸を絞り取り続け、不幸の沼で溺れるだけの生を送らせてやる。
狼は執念深いんだ、よく知ってるだろう。そして飽きたら、父親と同じように首をはねて、糞の山にでも埋めて捨ててやる」
やおらミタケは、フジがいつも口にしていた、天甜酒の瓢箪をひったくった。
そして何を思ったか、それを二人の頭の上まで高く掲げ、力任せに握る力で砕き壊してしまったのである。
甘く蕩けるような香りと共に、天甜酒が二人の全身をしとどに濡らす。
呆けるフジを見下ろして、ミタケは目に滴る酒を指で拭った。
「ニトウ、神の酒の効能を知っているか」
「は、はあ?」
「お前に飲ませ続けていたのはな、隠り世の、あるいは天上の神々が口にするはずの酒だ。
この日の本の外においても、神だけが口にすることを許された酒は多くある。
それらが共通して与えられた力は、「飲み下した者に不死を与える」。
これがどういう意味か分かるか、ニトウ」
「…………まさか」
「ああ、そのまさかだ。お前は欲深く飲み過ぎた。
天上の酒は病も癒やすが、人を人たらしめる定命をも奪う。
腹の子は天甜酒で育ちすぎた。もうすぐこの世に生まれ出てしまう!逃れようもない不義の呪いを背負って生まれてくる!
そしてお前も、そして不死の狼の血を引く俺も!もはや死ぬ事も、病むことも出来ない。
魂は六道輪廻に加わることなどなく、地獄にも黄泉にも下れずに、永久にこの世界を彷徨うほかないのさ!ざまあみろ!」
そこまで言い切ると、ミタケは我が身をそらして、気が狂ったように笑い始めた。
まるで狼の嗤い声だ。けたたましい声は雨雲を呼び、にわかに外では大雨が降り始めた。ざあざあと雨が瓦を穿ち、強い風が木々を凪ぐ。
音に驚き、ついで闖入者の存在に気付いてか、十波や見張り達が駆けつける音がする。
「姫様、何事ですか」と戸の外で怒声が響き渡る。直後に雷が落ちたような音が廊下に轟き、十波と見張り達の悲鳴が聞こえてくる。
「十波、皆!ミタケ、今度は何をしたのだ!」
「俺があらかじめ張った結界だ。たかが剣士如きに、やすやすと超えられるはずもない。とはいえ、稼げる時間はそう長くないな」
ミタケは扉の方を睨み付けると、ずぶ濡れた手でフジの服を乱暴に正した。
懐からカラン、と金細工の鏡飾りが落ちて、床に転がる。
は、とフジがそれに一瞬目を向けた隙を突き、ミタケはフジの体を抱き上げる。
「猩々がお前を連れて、新月になったら浜に来いと言っていた。海の底の宮で過ごすんだそうだ。
お前が妊婦と分かった今、最早病を癒やす必要もないし,どうでもいい。
俺がすべきことは、お前から一切合切の全てを奪うことだ」
歯を剥いて、底意地悪い顔でミタケはフジの顔を覗き込んだ。
強張る少女の顔を撫で、乱れた髪を紐で縛る。
外は大騒ぎだ。今にも結界を打ち破ろうと、激しく戸を殴りつける音が聞こえる。
「お前はもう、この豊前にも、殿や紫月様の城にも帰れない。
紫月の皆と別れの言葉も交わせない。この先、俺が全て奪ってやる。
父を奪ったように、故郷を奪ったように、この先お前から、何もかも奪って食ってしゃぶり尽くして、いじめ抜いてやる。
さあ泣け、喚け。恨めしいだろう、俺が憎いだろう。
終わらない苦悩の日々がここから始まるんだ。尽きることのない絶望をお前にくれてやる」
雷の音が再び響いた。今度は外の雨雲が降らせた稲妻だった。
真っ暗闇の部屋に、窓から雷の鮮烈な輝きが差し込む。
ミタケの意に反して──雷光の照らしたフジの顔は、穏やかで,寂しそうな表情だった。
「良いよ。お前がそう願うなら、一緒に着いていく」
◆
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