其の十九


翌日から、フジはみるみる回復の兆しを見せていった。

瓢箪の天甜酒を口にした後であれば、ヒエもアワも、味噌、野菜の類いもどんどん平らげた。

寧ろ今まで食べなかったぶんまで、どんどん食べた。

昨日まで水と梅干しと塩しか口にしなかっただけに、十波たちは目を丸くしたものの、「元気になったのは良いことか」と胸を撫で下ろした。


しかし、起き上がることは依然としてままならず、すぐに気を失うように眠ってしまったり、相変わらず腹や手足の関節が痛んだり、頭痛で泣き喚くこともあった。

すぐに熱もぶりかえすので、たえず誰かが付きっきりで看病をせねばならなかった。

特に老夫婦の心配ぶりたるや、「部屋から出ないほうがいい」としきりに言って、外に出すことを嫌がった。

ミタケは外の病を持ち込まないためにも、極力、外に出ないよう努めた。


「どうだ、吐き気は治ったか」

「たまに魚の干物の匂いとか、お香なんかでえづくけど、だいぶになってきたよ。あのお水のお陰さね。どこで手に入れたんだい」

「まあ、伝手があって」

「ふうん。あの水を飲んでから、吐き気が減ってとても有り難いんだ。

 味も甘かったり酸っぱかったり、飲む度に味が変わって飽きることもないし」

「それは良かったが……それにしても、お前ちょっと食い過ぎだ。そのうち牛になってしまうぞ」


ミタケが苦言を呈するのも無理はない。

元々痩せ細っていただけに、肉がつき体力が戻るのは喜ばしいことである。

しかし、これまで食が細かった反動からか、運動も出来ないことがあいまって、日毎にふくよかになっていったのである。

七日も経つ頃には、すっかり頬も丸くなり、食べたものも戻さなくなった。

どころか、いつも腹がはち切れそうになるほど何か食べているので、より一層心配になるほどであった。


「だって、これまでは何を食べても吐いていたのに、何か食べられるようになったと思うと手が止まらなくて」

「だからって限度ってもんがあるだろう。それに、滋養を考えるなら魚を食え。ウサギや鳥ばっかり食べたってしょうがないだろう」

「魚はだめ。一生口にするなと約束したもの」

「お前も律儀だな、たかが魚相手に」


そんな会話をしている間も、フジはしょっちゅう天甜酒に口をつけていた。

飲んでもなくならない不思議な飲み物である上に、飲むと腹が満たされるので、空きっ腹になるたびにちびちびと飲んでいたのである。

それも、ミタケに叱られるため、隠れてこっそり飲んでいたようで、日に少しずつという注意に耳も貸さなかったのである。

これまでずっと好きにものを食べることも出来なかったことを考えると、ミタケも強くやめさせることは出来なかった。


ある日の事、病の話を聞いて、童萬が見舞いに訪れた。

しかし童萬も眠っているフジを診た後、貝のように押し黙って部屋から出てきた。

何を聞いても、童萬は答えず、二人を呼び止めてこう尋ねた。

十波もフジの異変を心配してか、ミタケに問いかけた。


「十波。フジに何かしましたか?」

「何、だと?これまで通り、普通に過ごしていたが」

「心当たりはないのですね?」

「ないものをどう答えるんだ」

「ミタケ、貴方はどうなのです?尤も、貴方は任務のために方々を巡っていると聞きましたが」

「……半年前に顔を合わせたのが最後だ。少し……話をしたくらいだが」

「本当に?」


童萬の活珊瑚の瞳が、食い入るようにミタケを睨んだ。

責められているような気がして、ミタケは目を合わせぬよう必死だった。母を知らないが、母に叱られるとはこういう心境なのだろうか、といつも思う。

何度も似たような質問をされるので、ミタケは遂に童萬にだけ、半年前の事実を白状した。


「その、話をして、腹が立ったから乱暴を働いた」

「乱暴?」

「昔から、あいつに腹が立つと殴り合ったり、をすることがあったんだ。俺も昔、あいつの父親によくをされていたから。

昔は逃げだそうとする度にしつけていたけど、城仕えしてからはやめた。

でもあの日は、……フジが煽り言葉をぶつけてくるから、腹が立って……」


「しつけ」の話を最後まで聞き終えると、童萬は顔を赤くしたり、青くして、「なんということを」と声を震わせた。

激昂と軽蔑と困惑が入り交じっているのだと、察するにあまりある顔だった。

童萬は一度だけミタケをぶとうと平手を上げたが、寸でのところで歯を食い縛り、ミタケを力強く抱きしめた。何故童萬がここまで怒るのか分からなくて、ただただ困惑した。

ミタケは悩んで、童萬に思い切って、天甜酒のことを尋ねた。


「なあ、天甜酒って知ってるか」

「日本書記にある酒のことですね。大山津見神と神吾田津姫が初めて造ったとされています」

「その酒って、どんな効能があるか、日本書紀とやらには書いてあるか?」

」 きっぱりと童萬は答えた。

「天甜酒は、神吾田津姫……もとい、木花咲弥姫命このはなさくやひめのみことが、燃す産屋にて子供を産んだ際、子の生誕を祝い造った酒とあります。

新嘗祭にて神に捧げるための酒であること以外、効能等は伝わっていません。

が、神が造りし酒に関する逸話は、世界各地にあります。どれもこれも、似たような話で、面白みはありませんよ」

「……教えてくれ、その話」

「良いでしょう。そもそも、貴方は大事なことに限って、物を知らなすぎます。

これを機に、貴方も学ぶべきですよ」


童萬が去るまでの数日の間、ミタケは童萬から様々なことを学んだ。

フジは童萬からしきりに、城にいるお殿様や紫月衆の近況を知りたがった。楽しい数日だった。

帰りたい気持ちを押し殺し、二人は豊前を去る童萬の背を見送った。

童萬が残していった薬のお陰で、フジは更に快方に向かったが、十波はそんなフジを訝っていた。


「なあ、近頃の姫はどうも変じゃないか。

まるで鬼のようにばくばくと食べるし、些細なことで癇癪をおこして、泣き喚いたり怒ったりするんだ。かと思えば雀を見ただけでけろっと機嫌を直すし。

しかも、近頃は腹にが出来たみたいで苦しそうなのに、金創医きんそうい(※現在の外科医)を呼ぶつもりはないみたいなんだ。

その上、医師や他の世話役たちは、病が治っているのかも悪化しているのかも教えてくれやしないし。何が起きているんだ?」

「分からん。流行病なんだから、皆、それだけ慎重になってるんだろう」


ミタケはそう答えるものの、「あと数日でこの城を出て行くのだから、いずれ医師も不要になるだろう」とはとても言えなかった。

ひどい病だから、と十波も顔を合わせて貰えなくなったため、扉の前で見張りをするほかなく、まんじりとした思いを抱えているようだった。


やがて、新月がやってくる前日のこと。

いつものように、ミタケは夜を待ってフジの部屋に忍び込んだ。そろそろ猩々のことを打ち明けたほうがいいだろう。

だが、窓から入った矢先、御簾の向こうから呻き声が聞こえてきた。

まさか病が悪化したか。嫌な予感がして、すかさず寝所に飛び込むと、フジは脂汗をかき、腹を抱えて呻いていた。


「大丈夫かニトウ!しっかりしろ!」

「胸と腹が……痛い、痛いよぉ……!」


あんまりに痛がって泣くので、様子だけでも見ようと、ミタケはフジの帯を解き、服をはだけさせた。

蝋燭に灯りをともして、その姿を見たとき、ミタケは言葉を失い、愕然とした。

フジも自らの露わになった体を改めて見下ろすと、息を飲んで青ざめる。

ここの所、ずっと体は濡れた布巾で拭くか、お香を焚くくらいだったので、自分の裸体をまともに見る機会が殆どなかったのである。


フジの腹は、ぼっこりと蛙の腹のように膨らんでいた。

腹だけではない。胸も腹と同じくらい大きく膨らんでおり、だらしなく垂れて、先端からは絶え間なく、だらだらと白い液が垂れているのである。

混乱したフジは悲鳴を上げ、ミタケにしがみついた。


「な、なに、どうなっているんだ!私の体に何が……!

 これ、病気なのか!助けてくれ、ミタケ!私は死ぬのか!?」


そうして初めて、ミタケは猩々の言葉を思い出した。

病であって、病ではない。

吐き気や熱や頭痛も、体の節々の痛みだとかも、梅干ししか食べられなかったのも、匂いに過敏になっていたのも、やけによく食べるようになったのも。

童萬から習った事を思い出し、すべて説明がつくと気付いて、変な笑いが浮かんだ。


「……だから、童萬は怒っていたのか。俺が全てを失うとは、こういうことか……」

「何をぶつぶつ言ってるんだ。お、おれ、どうすればいい?」

「どうもこうもしない。受け入れるしかないんだ、ニトウ。安心しろ、お前は死なない」

「だって、どう考えてもおかしいじゃないか!

胸も腹もこんなに膨らんで、悪い出来物がしこたま詰まって、膿だって出ているじゃないか。こんな病気、見たことも聞いたこともない!」

「落ち着け。それは膿じゃない、母乳だ」

「は?」


今度はフジが、間の抜けた声を上げる番だった。

ミタケはいっそ笑い出しそうな、強張った顔でフジを見て、その両肩を掴む。

じっとりと、掌からしみる脂汗が嫌な熱を孕んでいた。


「傑作もいいところだ。お前は子供を孕んでいたのさ、ニトウ。はは、はははは!」

「な、何言ってるんだ。俺は男だぞ、子供なんか作れるわけない!」

「お前こそ、いつまで目を反らし続ける気だ。それとも初めから知らなかったのか。

 ああそうだ、お前ってちょっと、頭がどこか足りない奴だったものな。

 それに周りも気付くわけがないか」

「な、なんの話だ」


窓の外で、分厚い雲が風に乗り、星空を覆い始める。

微かな月の形も隠されて、蝋燭の明かりが不気味に、二人の顔だけを照らした。

ミタケの強張った笑みは、出来の悪い面を被っているようだった。


「ニトウ。お前は

あの父親がお前を男として育てて、お前はそれを馬鹿正直に信じていただけだ」

「う……嘘だ。そんなわけない、だって」

あの父親は、男が中々生まれなかったことをいつも嘆いていた。

女に村を継がせたくなかったんだろうさ。

火叢も十波も、なぜお前に「女の振りなんてしているんだ」なんて問わなかったと思う。何故誰もが訝らなかったと思う?」

「そ、れは」

。女が女の格好をしているのは当然だからな。

成程、大名夫婦がお前を外に出したがらないわけだ。未婚の娘が、どこの誰かも分からん男の子供を孕んだんだ、恥もいいところさ。顔も見に来なかったのは、そういうわけだろうよ」


フジの強張った顔に、汗が浮かぶ。

全身を震わせ、必死に己の手で着物の前を締め、信じられないものを見る目でミタケの笑顔を凝視した。

これまで生きてきた年月の全てが、フジを裏切った。そんな絶望と当惑とがない交ぜになって、足元の感覚さえ覚束ない。自分自身の体が、見ず知らずの怪物とすげ替えられてしまったかのような錯覚。

脱力するフジの体を、ミタケの両腕だけが支えている。

そして不意にフジの脳裏に、最も初めに問うべき疑問が浮かんだ。


「待て。……わ、私は、誰の子を孕んだんだ?」


沈黙が場を包んだ。

その沈黙を拒むように、フジの腹の内側から、何かが力強く腹を蹴り上げた。

う、っと呻き、足元がふらつく。よろけたフジはミタケに寄りかかった。相変わらず、ミタケの肌からは、故郷の森の匂いがする。

不安と安堵の狭間で視界が滲んだ矢先、耳元でミタケが囁いた。


「お前の腹にいるのはな。俺の子だよ」



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