其の十八
豊前の城の中では、慌ただしく人が行き来している。
無理もない。ただでさえ流行病で気が立っているところに、大名夫婦の娘が倒れたのだから、それはもう大騒ぎであった。
フジの療養する部屋は隔離され、医者と数人の世話役、十波だけが姫を見舞うことを許された。
十波の弟というていで、城の中を出入りすることは出来たが、とても部屋に近づける雰囲気ではない。
せいぜいが、フジのいる部屋の窓を見上げるくらいしかなかった。
城の庭に立ち、見舞いの代わりに窓を仰ぐミタケを見かねてか、十波がフジの様子を教えてくれた。
「お前を不安にさせる物言いはしたくないが……あまり容態はよくないようだ。
疱瘡こそ出ていないが、毎日吐いたり、頭痛に苛まれたり、熱っぽかったりと、とにかくひどいらしい。
食事もろくに喉を通らんようだし、一日じゅう伏せっていてな。
せいぜい口に出来るものが梅干しくらいのものだそうだ。あまりに哀れだよ、このままじゃ飢えて死んでしまう」
「治らないのか」
「どうも近頃の流行病とは、症状が違うようで、医師も匙を投げかねん状態でな。
童萬蝶師が近々、診にきてくれるそうだが、それまでもつかどうか」
いてもたってもいられなかった。
ミタケはその日の夜、刀を手に、城の裏手にある辻道をもう一度訪れてみた。
するとはたして、見計らったように、あの女の物売りが辻道に佇んでいた。月明かりの眩い夜に、物売りの鮮やかな赤毛がくっきりと浮かび上がっている。
辺りに人気はないのに、むわりと酒の匂いが漂う。果実のような甘ったるい香りにミタケは顔をしかめた。
きゃたきゃた笑い、物売りは瓢箪を手に、浴びるように酒を飲んでいた。辺りに漂う甘い匂いの元はこれだろう。
物売りは辻の分かれ道にどっしり置かれた、大岩の上に腰掛ける。猩々の面がにたにた笑うさまが不愉快だった。
「やい、猩々の面。正体を現せ!お前がフジに流行病をかけたんだろう」
「おうやおうや、再会の出会い頭に酷い言い草だ。
確かにあたしゃ猩々だよ。海に棲み、酒を好み、陽気に踊って笑う。
だが病を感染すだなんてとんでもない!それどころか、病の風を追っ払ってやってるのさ。一応こんなナリでも、神様だからね」
「神様だァ?お前のようなふざけた神がいるもんか。大体、猩々は酒の神のはずだろ。病を追い払うだなんて、聞いたこともない」
「そりゃあね、お門違いだとは思うが、ヒトたちが「助けてくだされ、どうにかしてくだされ」って願ってるもんだから、無視するわけにもいくまいよ。
それに、疱瘡神の連中はあたしのことが大嫌いなのさ。
日の本の酒は魔除け、邪悪を祓い、妖霊たちに混乱をもたらすもの。
連中みたいな陰気臭い病の神からすりゃあ、あたしみたいな手合いは苦手なンだろうねえ」
「……成程、その説明で合点はいった。だがフジは病に罹ってしまった。あんたが病を祓えるってんなら、どうして豊前の連中はこうもばたばたと倒れていやがる」
「そりゃあね、あたしはあんたに着いてきたからだよ」
「俺にだと?」
またもぐびり、と瓢箪の酒をかっくらった。
老婆のような声が、酒を飲む度若返り、ついには女童のような声に変わっていた。
月を仰ぎ、猩々は浪々と語り出す。
「あたしはお前の故郷の山にいた猩々サ。あんたは知らないだろうがねえ、あたしはずぅっとあんたを見ていたよ。
というのもね、あんたの親父はね、行く当てもないあたしを拾ってくれて、あの山を訪れ、共に住処にしてたんさ。
あたしはあの山でひっそり神様をやって、あんたの父親は山人の長になった。そのうち、人間たちが山にきて、酒をこしらえ、あたしを酒の神様として奉るようになった。いい日々だったよ、あれは。
だが、あの憎っくき水蛇野郎が、あたしの社も、あたしの護っていた村も、全部全部押し流して台無しにしやがった。
もう、自分が情けなくて情けなくて。誰もあたしを奉ることがないから、そのうち弱りきってしまってね。
したら、あんたの親父がまたあたしを拾ってくれて、村に置いててくれたのさ。お返しに、あたしは山人の村をちょっとだけよくしてやっていた。……滅んじまった時は、本当に寂しかったとも。
出来ることなんか何もなかったからね、あんたがあの
だがね、と猩々は盃をひとつ出すと、己の袖でよく拭いた。
朱塗りの盃に酒を注ぎ、ミタケに押しつけると、ふくふくと笑って、またぐびぐびりと酒をあおる。
ミタケがつい、と酒に視線を下ろすと、盃の内側には、桜と藤の絵が踊っている。おそるおそる口につけると、この世のものとも思えぬ、瑞々しい果実のようで、花のように華やかな香りが鼻を吹き抜けていく。不思議と酒特有の香りはなかった。
「だからね、戻ってきてくれた時は、そりゃあもう嬉しかったよ。
村に戻ってきてくれた後、どうしてもあんたが気になって、ついこっそり、着いてきちまったのさ。
あんたのお殿様や村の連中が病にかかったのも、あんたを追い出したからだろうさ。あんたと縁を切るような真似をすりゃあ、あんたにくっ付いているあたしの護りも効かなくなる」
「……そんな」
その言葉を理解した途端、ただただ、ミタケは青くなった。
確かに奇妙には思っていた。ずっと病が蔓延る土地を延々と回りながらも、自分だけは不思議と病に罹ることはなかった。
それがもし、猩々の言葉通りだとするなら、自分は城を出るべきではなかったのだ。
盃を持つ手が震え、地面にぽとりと落っこちた。
「まあ、良いじゃないか。風の噂じゃ、お殿様の病は治ったんだろう?あんがい、あたしが居なくても問題なかったろうねえ」
「だ、だとしても。フジがまだ病に罹ってるんだ。頼む、フジを助ける方法を教えてくれ」
「そりゃあ無理だ」 ばっさりと猩々は即答した。
「何故だ!」
「只の病なら、祓ってやる事も出来るが、あれは病であって病ではないのさ」
「どういう事だ。紛らわしい言い方はよせ、俺は言葉遊びは好かん」
猩々は大岩から降りて、ミタケににじり寄った。
不思議なことに、一歩近寄るほどに背丈が伸びて、面と向かい合う時には十尺ほどもある大女になり、まじまじとミタケの顔を見下ろした。
一瞬たじろいだミタケをぐわし、と片手で抱き上げると、ミタケの顔や体をべたべたと触り始めた。
やめろ、とミタケは反抗したが、両手足をばたつかせても、ちっとも指ひとつ外れない。やがて、猩々が面の下で、笑みを消した。
「ミタケ、お前は幾つになったかね」
「確か、十七だ」
「そうか。お前がそこまで願うなら、フジの病を治してやってもいい」
「本当か!」
「だが、それと引き換えに、お前は多くを失わねばならぬ。
今の立場も、殿の信頼も、紫月衆も、何もかもを捨てることで初めて、フジを苦しみから救えるだろう」
猩々は言いながら、やっとミタケを地面に下ろした。
その言葉に、衝撃を受けた顔で、ミタケは押し黙るほかない。
迷いが腹の中を渦巻いた。静かな夜の道に、梟と梢の唄だけが響く。
しばらくして、少年は面をあげ、月を宿した瞳でまっすぐ猩々を見つめた。
「フジを治してくれ」
「良いだろう。さて、今から言うことをよくお聞き」
猩々は懐から、小さい真っ赤な瓢箪を手渡してきた。
小さな瓢箪にはなみなみと、水が入っているようで、軽く振るとちゃぽん、と音がする。
先程飲んだ酒よりも、もっと甘い香りが強く、盃に出してみると、表面は白く濁っているが、中は透きとおっていた。
「酒……にしては酒気がないな」
「これなるは
日の本で初めて生まれし酒、
「これが?あのイヤな酒の匂いはしないのに、不思議なもんだ。神の酒だからそういうこともあるのかな」
「これをフジに飲ませろ。浴びるほど飲みたがるだろうが、程々にな。
そうしたら、次第に吐き気が落ち着いてくるだろうから、新月の夜になったら、フジを連れて二人きりで浜に来るんだよ。
あたしの宮で暫く過ごすことが、フジを病から切り離す唯一の方法だ」
「宮だって?どこにあるんだ」
「海の底にあるのさ。誰も入ってこれやしない場所さね。渡した箕を必ず着てくるんだよ」
それを聞き、ミタケは頷いた。
瓢箪を大事に抱えると、後ずさり、ミタケは城へと一目散に駆けていった。
猩々は小さく溜息をつくと、夜の月をひとつ見上げ、宵の黒へ溶けるように姿を消した。
ミタケが瓢箪を抱えて城に戻ると、壁を伝い、そうっとフジの部屋に忍び込んだ。
部屋にはフジだけがいた。世話焼きたちは全員眠りこけているのだろう。
そっとフジの寝床に近寄ると、げぇげぇ、と吐く声がした。
覗き見ると、フジは桶を抱えて、たえず腹の中のものを、苦しげな声と共に吐きだしていた。
吐く声が止まると、フジはやつれた顔を上げた。月夜の暗さも相まってか、明日にでも干からびて死ぬのでは、と思うような青白さであった。
「随分酷い顔だ。鬼瓦のほうがもっとましな顔をしているぞ」
「……ミタケ?こんな夜半にどうしたんだい」
「ふん、病に罹ったと聞いたが、随分元気そうじゃないか。半年前と大差なさそうだな」
憎まれ口を叩いてみたが、フジは言い返す余裕すらないようだった。
邪魔な桶を足で脇に押しやり、ミタケは瓢箪の栓を開け、ぐっとフジの顔に近づける。
甘ったるい匂いを嗅ぐと、フジは訝る目でミタケを見やった。
「これは?」
「良いから飲め。飲めば少しはその吐き気もましになるそうだ」
「良い匂い。いいのか、これ飲んでも」
「質問はなしだ。日に一度、少しずつ飲むんだ」
言うが早いが、フジは瓢箪に口をつけていた。
ぐびり、と一つ飲み込んだかと思うと、暫く動きが止まった。もしや吐くか、と身構えた刹那、目を見開き、ごくごくごく、と休みなく一気に飲み干していくではないか。
驚いたミタケが「おいばか、やめろ!」と押しとどめて、やっとフジは口を離した。
口周りに白いかすのようなものをくっつけたまま、ふうと一息つく。先程より格段に顔色が良くなり、酒の匂いはないのに、酔ったように頬に朱がさしていた。
「一気に飲むな、少しずつって言ったろ」
「だって、あまりにも美味しくて、つい。これまで梅干しくらいしか口に出来なかったもんだから、久方ぶりに別のものが口に出来て、嬉しくて」
「まったく、幾つになっても卑しいやつ」
新月までもつだろうか、不安になって瓢箪を覗き込む。
だが不思議なことに、酒は飲む前と同じ量に戻っていた。酒も不思議なら、瓢箪も不思議だ。
もっと、もっと飲みたいとフジがせがむので、しまいには「早く寝ろ」と罵りながら寝かしつけた。不安になる食いつきぶりだが、これを飲ませるしか道はない。
そんな不安など知らぬげに、穏やかな顔を浮かべ、フジはミタケの手を握った。
「ありがとう、ミタケ。久しぶりに、よく眠れそう」
そう言って、フジはすぐ寝入ってしまった。
手を振り払ってもよかったが、ミタケは満月が山の向こうに逃げていくまで、ずっと手を握っていた。
◆
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