其の十四
雪の降る村に、遠吠えが響いた。
喧噪に紛れたその声に気付いた者は、幾何もいまい。
だが一人。逃げ惑う村人達の波を避けて、骸骨たちを念力で動かすさなかに、高雄狐はその遠吠えに身を震わせる。
がばりと身を伏せ、咄嗟に紫月の股ぐらの下に隠れて尻尾を丸めた。
「うわァッ狼!ど、どこ、どこだ!?」
「これ高雄、集中力を切らすな!なにをそんなに怯えておる!」
「だって狼の遠吠えだよ!それも仲間を呼んでる、狼たちがこっちに来るよぅ!」
「そんなわけ……うわッ!?」
突如、雪を蹴散らし、頭上を大きな影が、疾風の如く紫月達の頭上を飛び越えた。
銀色の狼たちだ。しかも虎ほどもある大柄な体躯である。
狼たちはまっすぐ、大きな屋敷を目指し、屋根の上に飛び移り駆けていく。
その背に、人を乗せて。その異様なありさまに訝しみ、紫月は目を細めて睨めつけ、はっと息を飲んだ。
「莫迦な。あれは夏藤か!?」
「そんなわけないよ、夏藤は豊前にいるはずでしょ!ここから何日かかると思ってるのさ!」
「それもそうだが、狼を繰る者はそうおるまい。
あの狼たちは私が追うから、鞍馬たちを連れてきてくれ」
「エエーッ!置いていかないで紫月さまあ。んもう、鞍馬ぁ、ミタマ、イノメ-!」
果たして、二頭の狼はフジと十波を乗せ、雪風に乗り村を走る。
目もまともに開けていられない速さだ。振り落とされそうになりながらも、分厚い毛皮にしっかと指を絡め、「早く、早く」と狼たちを急かす。
十波はあらん限りの声をあげ「逃げろ、逃げろ!山から下りて二度と戻るな!」と叫ぶ。
突然、村に現れた巨きな狼を見るなり、村人たちの混乱は更に増す。
やおら現れた狼を前にすれば、丸腰の自分たちは餌として見られている、と恐怖するのは当然のことだろう。
人の波を割って進む。村の景観を懐かしむ暇もない。もとより、幼い頃の記憶と、今の村はあまりにも剥離していて、戻ってきた実感すらもない。
「して丹藤姫、何処へ向かう?」
「私の……いえ、お父様の屋敷へ!」
毛皮を掴み、しっかと両足で狼の胴体を挟み込んだ。
フジの言葉を理解してか、それとも臭いで何かを嗅ぎつけたか、二人を乗せた狼はあっという間に、かつての我が家の屋根の上にいた。
修繕すらされてない屋根の穴から、何者かの姿が見える。
ミタケと老人だ。ミタケは四方八方から銀色の鎖に絡み取られ、その場で無理やり組み伏せられている。
老人は身なりこそ立派だが、痩せこけて白髪まみれ。おまけにミタケを見下ろして刀を振り下ろそうとしていた。
その老人が何者かを考える暇もない。このままではミタケの首が落とされる。
「やめて、その人に手を出さないで!」
フジは己でも驚く程の声量で叫び、狼は屋根を突き破って二人の元に落ちた。
「何奴」と老人は驚き、持っていた鎖から手をつい離して飛び退く。
瓦礫と木屑の雪崩と共に、フジと狼は屋敷の回廊にずしんと着地する。十波を乗せたもう一頭もそれに続き、ミタケを挟んで守るようにして身構える。
老人は目を皿のように見開き、何が起きたか分からずにいるようだった。
「そ、空から狼に乗った天女が降ってきた」
「ミタケ、無事か!」
ミタケも、狼に乗った
鮮やかな着物が翻り、白檀の香りが辺りに散る。
一方で十波は、鎖を引っ張る数人の少年達に向き直ると、刀を抜いてその場で銀の鎖を切り落とした。
少年らは、天井から落ちてきた二人と狼を敵とみなし、鎖を手放すと刀を抜いて遮二無二襲ってくる。
子供らに考える頭はない。眼前に存在するものは全て敵である、そう判断した迷いのなさ。
十波は刀を翻らせ、実に八人の少年達を相手に、打刀一本で立ち回る。
風に舞う炎が屋敷にも燃え移り、屋根や柱をみるみる飲み込み、回廊を不気味なほど明るく照らした。
少年たちの一人が、丸い瞳を更に丸くして、十波を凝視する。
「そこに御座すは、よもや十波殿か。西へ去ったと聞いたが、何故ここに?」
「ああ。訳あってこの姫に助太刀致す。命までは取りたくない。頼むから村を捨てて逃げてくれまいか」
「ならぬ。村を放逐され、どこぞの馬の骨とも知れぬ女と敵軍の兵士に与する男の言葉など、耳を持つ価値もなし!覚悟せよ!」
少年達は再び、一斉に斬りかかる。
やむなく十波も刀を構え、四方八方から襲い来る少年らの剣戟を次々いなしていく。
刃が交える度に激しく火花が散り、双方の怒声が響く。
激闘を背後に、フジは今一度,父親と向き直った。
数年ぶりに見る父を見て、胸がざわつく。目が落ち窪んで淀み、肌色もすっかり褪せて頬骨が浮かんでいた。
黄泉の妖魔たちですら、もう少し生気ある顔立ちをしているやもしれない。それほどまでに様変わりしていたことに、寂しさが胸に染み入る。
それでも今は、やらねばならむことがある。
此処にはけじめをつけにきたのだ。
最初で最後の親孝行をせねばならぬと、ここまできた。十つの時、生贄の役目を捨て、村から逃げ出したあの日から、悔いていない日はなかった。
生きて儲けものと人はいう。それでも父と故郷のことがずっと、気に掛かっていた。
父と家族を死なせることだけは、どうしても忍びなかった。
だからこそ、この体は、遠く海を越え山を越え、ここまで来れたのだ。
「どうかお退きを。この村は敵軍に囲まれております。
武士でもない貴方が、一所懸命になった所で何になります。村人たちを率いて、今すぐ立ち去りなさい!さすれば殿下も、村人の命まではとらぬ!」
「どこの娘か知らぬが、此処で退いたところで帰る場所がなくば意味がない。
村を守るが乙名のつとめ、俺の生きる意味だ。お前こそ命が惜しく場去るがいい、名前も知らん小娘よ!俺はそこの薄汚い犬に用があるのだ、退かぬなら斬って捨てるぞ!」
気迫が一進一退する。数瞬の睨み合いの末、先に斬りかかったのは父親であった。
フジは咄嗟に、懐の脇差を引き抜き、受け止める。またも斬り圧しにかかる一撃を、二振目の脇差で受けていなす。
小癪な、と唸り、老人の一撃が今度は首を狙う。
背中で蹲るミタケを庇いながら、その切っ先が身を貫くことがないよう、フジは防戦に徹するのみ。
「どうした、口先だけか。少しは腕が立つようだが、いつまで耐えられようか!」
「ミタケ、早く逃げてくれ。これ以上は保たん!」
「ぎ、銀が……俺から、力を奪うせいで、体が動かん……」
掠れた声でミタケが苦しそうに呻き、どうにか立ち上がろうとする。
刹那、突きの一撃がミタケを狙う。寸での所でそらしたが、フジの頬を切っ先が僅かに掠め、熱と痛みが奔る。
父を斬ることなど、出来ない。一刻も早く、弱ったミタケが銀の鎖をほどき、逃げるまでの時間稼ぎをするしか、フジに手立てはない。
「どうしたどうした、後ろの犬を庇うばかりでは、この俺を斬ることはできんぞ!」
老人は濁った目を爛々と輝かせ、むしろ楽しむように、剣戟でフジを甚振る。
わざと急所を外し、フジを斬ると見せかけ、足で腹を蹴飛ばした。
転がって腹を庇い、噎せるフジに目もくれず、動けないミタケの手の甲を貫く。
「ぐぅあああ!っく、う……あ、熱いッ……!」
「痛かろう、痛かろう。楽になどしてやらんぞ、じわじわ痛めつけてやる。
ほれ、足を出せ。腱を切って引きずり回してやらねばな」
痛みに吼えるミタケを見下ろし、にたにたと笑う村長。
フジは刀を握る腕へ不意をつき飛びつくと、刀を毟り取ろうとする。
村長はぎゃっと声を漏らすと、喚きながらフジを鼻血が出るまで何度も殴りつけ、刀を取り返した。
「生意気な小娘め。村の失態はお前達に償わせてやる。
二人とも、合戦中の慰みものにしてやる。息子たちよ、早くその侍も始末しろ!」
「はい,父上。今すぐにでも!」
十波が下手に子供らを斬り捨てられぬと見るや、次々に手やら足やらにしがみつき、噛みついたり殴りつけたりして、数の暴力で組み伏せていく。
それを満足そうに見つめ、フジが立ち上がろうとすると、今度は鞘で顔を殴りつけ、よろけたところを蹴り、嬲る。
ミタケは怒りに震え、「やめろ、相手は女だろうが!なぜ気付かない!」と咄嗟にフジを庇い、頭をもろに蹴られ、倒れ伏す。
「はあ、多少はせいせいした。俺に楯突いたことを後悔させてやる。
残りの人生を生き地獄で味わわせてやるからな。覚悟するがいい」
フジの意識は朦朧とし始めていた。今度こそ絶体絶命と思った、その時。
屋敷の裏手から、猿叫が聞こえてきた。
全員がその声の大きさに驚いた矢先、直後に屋敷全体を揺らす地響きに体勢を崩す。
その叫び声はイノメのものだ。揺れが収まった束の間、老人の背後に何者かが立っていた。
紫月さま、とフジの唇が名を呼んだ矢先、紫月の瞳が星のようにまたたく。
「その娘に手を、出すな」
紫月の刀が、老人の右肩を斬った。村長は悲鳴を上げて肩を庇い、その場によろける。
紫月はすかさず、切り裂かれた肩へともう一度刀を振り下ろし、老人の右腕を切り捨てた。絶叫の後、夥しい血が溢れ出し、ごろんと切断された腕が、刀ごと床を転がっていく。
斬られた父親を見るや、息子達が次々「父上!」と驚き、力が緩んだところを、十波が次々殴り飛ばして沈黙させていく。
「うでが、俺のうでが」と喚く老人を捨て置いて、紫月はフジへと駆け寄った。
「やはり夏藤だったか!なぜそなたが此処に居るかなど、今は聞かぬ。
ここは危うい、早く逃げよ。もうすぐ本軍が来てここを占拠する手筈だ」
「ま、待って……紫月様……」
だんだん意識が遠のいていく。
紫月はフジの言葉を待たず、老人など意識の外側において、その体を抱き上げる。
しかし老人は、まだ戦意を喪失させてなどいなかった。ゆらりと立ち上がり、切り落とされた己の腕から刀を剥いで、今度こそ紫月のうなじを狙い、斬りかからんとする。
だが、それが叶うことはなかった。
「往生際の悪い男だな。地獄へ征け、たった一人で」
「やめて……もう、奪わないで……ミタケ、その人だけは……!」
高橋長老の背後に立つは、復讐者となったミタケ。
紫月に抱かれ、肩越しにそれを見ていたフジは、最後の力を振り絞り、「もうやめて」と叫ぼうとした。だが、もう遅い。
怨恨と宿業はここに収束する。
待ち侘びたこの一瞬を、ミタケは永遠のようにも感じていた。
手にしていた己の刀を握りしめ、ミタケは背後から、仇の首を一閃。
横に振り払われた銀の煌めきが、己の魂の焔にも思えた。
枯れ木のような首を斬るなど、今の少年には、あまりにも容易いことであった。
断面から血を迸らせて、「仇/父」の首は、ごろん、と床に転がり落ちていく。
幸か不幸か。フジは疲労と緊張が頂点に達し、ふっと意識が奪われていく。
父の最期を看ることもなく、フジは紫月に抱えられ、屋敷を出た。
振り返ると、屋敷は崩れはじめていき、紫月衆の面々は屋敷から離れ脱出を図っていた。
逃げ出した面々の中には、昏倒した少年達を全員抱えた、十波の姿もある。
「そなたは何者だ」
「はっ、丹藤姫様の従者にして、豊前の武士、名を十波と申します。
お許しがあれば、お伴させていただきたく。姫を危険に晒した手前、どのような罰も受けます」
「良いだろう。共に来るがいい。殿下に説明せねばならぬことが、山とある」
ちら、と紫月は、燃え落ち行く屋敷と、それをじっと見つめるミタケを一瞥した。
先に見た、歪んだ笑顔はどこかに失せて、ミタケの瞳からは、感情の炎は吹き消し飛ばされたかのよう。
杞憂だったか。一抹の不安は拭えぬまま、一行はがらんどうになった村の中に佇むのだった。
◆
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