其の九
「なにい、紫月様が夏藤を嫁に!?それは真か!」
大変困ったことになった。誰にとっても想定外の事である。
紫月に気に入られる事は良いことだ。兄妹揃って重用されるだけ、良い暮らしが出来るし、信頼を得られるだけ自由に動きやすくなる。
だがまさか、紫月がフジに惚れこむと、誰が思っただろう。
この時世では、血の繋がりこそが力の強さに繋がる。大名同士で、血縁の繋がりを持つことが当たり前で、生まれた時から婚姻相手が決まっていることもままある。
曲がりなりにも紫月とて戦国大名の一人。紫月衆どころか、城の誰もが、信月も近隣から姫を娶り、武将同士の繋がりを強めるとばかり思っていたのだ。
「だぁはははは、ぎゃはははは!
これは痛快愉快!まさか夏藤に惚れ込むとはなあ!明日は城に火矢の雨が降るぞッ!」
「これ鞍馬天狗、笑うでないよ!」
「しかしなあ、うぷぷ。これが笑わずにいられるかってんだ。お頭様も良い趣味してやがるぜ、まさか夏藤がお相手とは!」
「痩せぎすの出涸らしみたいな女が好みとは、お殿様の好みとは分からんもんだわい」
「お前たちなあっ、揃いも揃って言って良いことと悪いことがあろうがっ!」
紫月衆の面々も、これを知るや大騒ぎ。
イノメはあんぐり口を開くし、鞍馬天狗は酒の肴に大笑い。
高雄狐は「紫月様をからかう新しいネタだ」と新たな悪戯を企む始末。
確かにフジは、小柄だし髪は長く艶やかで、細身であるために、化粧と服装さえ気を遣えば、やや筋肉質な女ということで通すことも出来た。
ミタケが念入りに、男とは見えぬようまじないをかけていたとはいえ、まさか夏藤に惚れる男が現れるなどと思っても見なかったのだ。
「どうしよう、皆……」
「どうしようもこうしようも、お受けするほかあるまいよ」
「だって!その……色々駄目なんだってば!
お嫁に行けないよ、紫月様に恥をかかせるどころじゃない!」
「嫌だ、ではなく駄目、というあたり、満更でもないのでしょう?夏藤も」
「ぐぅっ……そ、それは…………」
「しかし信じられんわい。退屈凌ぎの法螺ではあるまいな?」
「ほら、ミタケをご覧よ。錯乱して、日がなああして我を忘れ素振りするか、毒草を呪詛でも唱えながら煎じておる。
あの狼狽えようは真じゃろうて。当人らの話を聞いたんであろうからなあ」
「大丈夫かねぇ」とイノメは、尋常でない様子のミタケを盗み見ながらぼやいた。
「元々フジをいたく構う節はあったが、あの様子はまともではない。そのうち一波乱起きなければいいが」
「起きますよ、多分」 童萬は半諦めて受け入れるように、ぽつりと呟いた。
夏が尾を引きながら去る頃。
お殿様は隣国の姫を妻に迎えており、かれこれ一年が経っていた。
夫婦仲も悪くなく、仲睦まじく城内で過ごす姿も見受けられた。微笑ましいことだ。
だが、ミタケにとって、更に胃が重たくなるような言葉が、お殿様の口から飛び出してきたのだ。
「妻が子を産めぬ身だったと分かった。
どうやら幼い頃に父親から腹を蹴られたせいらしい。大変に哀れなことだ。
そして妻と何度も話し合った結果、側女を一人置くことに決めたのだ。そなたくらいにしか、こんな事は話せぬ」
「然様ですか」
「うむ。そこでものは相談だ、ミタケよ。
そなたから夏藤に側女に来るよう、説得はしてくれぬか」
「…………………………は?」
とても、とても大変なことになった。
まさかお殿様の妻が子を産めぬどころか、夏藤を側女として指名するとは。
兄弟揃って女の趣味が合う所は、親の代から似たということか。
あまりの事に頭を抱え、ミタケは胃がきりきりと痛んだ。
もしこの事を知れば、紫月の心は荒れる事だろう。だがお殿様の心を裏切るわけにもいくまい。
なにより、ミタケとしては、フジにかけた秘密を知られるわけにはいかなかった。
あちらを立てればこちらが立たず、どちらの嫁にいかせるわけにもいかない。
頭を悩ませている暇もなく、紫月衆は更なる「厄物」を知ることとなる。
秋の知らせを告げる鈴虫が、夜の城下町に響く夜のこと。
あろうことか、城に間者が忍び込み、開けてはならぬとされた密書の幾つかを盗み出そうとしたのである。
紫月衆はどうにかこの間者を捕えることに成功した。
だがその盗まれた密書というものが厄介であったのだ。
何も知らない高雄狐が、好奇心でつい開けて、中を見てしまった。そして読んだ途端、さあっと顔色を変えた。
「俺、これを読むべきじゃなかった。なんてことしてしまったんだろう……!」
その密書は、紫月の祖父が、お殿様の父に宛てた手紙。
その内容、紫月の父が、お殿様の父と腹違いの兄弟であり、その母はお殿様の一族の敵勢にあたる人物であるという告白文であった。
文書の内容が正しければ、お殿様と紫月は、従兄弟という関係に当たるのである。
これは城の勢力図を大いに変えてしまう、恐ろしい事実でもあった。
紫月衆の面々は、これを見なかったこととし、今度こそ城の奥深くに隠して闇に葬った。
そんなことを知らぬ兄弟たちは、一連の騒ぎも知らず、夕餉を共にしていた。
酒を飲み交わしていたこともあり、口が大きくなった紫月は、兄に向けて、溌剌と言い放ったのである。
「兄上。実を言うと、お許しを一つ頂きたいのです」
「ほう、許しとな。そなたはよく働いておる、先の合戦の報告でも大いに役立ってくれた。
兄として、何でもそなたの願いを聞いてやろう」
「有り難き幸せ。実は、ある女性を妻に娶りたいのです」
「ほう!ついにそなたも所帯を持つことを考え始めた頃か、良いことだ。
で、どこの姫君を見初めたのだ。出雲か、丹波、あるいは京の美女か?」
「いえ、兄上。我が配下の夏藤を、妻に迎えたいのです」
その言葉を耳にした時の、お殿様の心境はいかばかりか!
血の繋がりはなくとも兄弟。父達と同様の宿命を辿る事となるのか。
お殿様は気を落ち着かせるため、盃をあおった。
その盃を飲み干す直前、酒の中に鬼が紛れていた事に、お殿様は気づかなかった。
「……我が弟よ、分かっているだろうが、そなたは忍びを従える頭であり、この乱世で幾たびと刀を振るう武将となる男。
そんな男が、どこの生まれとも分からぬ、姫ですらない女と所帯を持つなど、前代未聞である」
「……ええ、承知の上です。
かくなる上は、地位を、いえ世で生きるための全てを捨て、ただ兄上にお仕えする影そのものとなる覚悟です」
「うむ……うむ。そなたの覚悟はよく分かった。頑固な所は父譲りだな。
では一計を案じよう。そなたには、我が妻の父君や親族らのため、東で起きている戦場へと駆け、これを援けるのだ。
その間、夏藤を、子のない南の、弱小の大名に養子にやって、姫として育て、嫁授業をさせる。
そしてそなたが戦場より戻ってきたその時、姫となった夏藤を妻として迎えればよい」
「おお、なんと素晴らしき案でしょう!ではそのように。夏藤にも伝えて参ります!」
紫月は破顔して、勇んでその場を後にした。
一方でお殿様はミタケを呼びつけると、恐ろしいほど冷たい声でこう告げた。
「御嶽よ、夏藤を連れ、南のさる大名の元に参れ。その者達には子がなく、また寄るべく親族もない。
彼らにはこう告げるのだ。
「ここにいる夏藤なる娘を我が子として育て、姫として教育せよ。
そして育てた姫を我が妻に差し出すのであれば、血縁として迎え入れ、多大な援助も惜しまぬ」と」
「はっ、仰せのままに」
「そして弟は、なるべく遠くの地の戦場にやれ。
東の戦をとにかく掻き乱し、疲弊させ、終わらせぬようにするのだ。皆にもそう伝えろ、よいな」
「お任せくだされ、このミタケが、殿下の命を一切合切、すべてこなしてみせましょう」
ミタケは目に昏い色をたたえたまま、貼り付けた笑みをお殿様へと向けた。
それを見て、お殿様は「やはり、お前はいつでも頼りになる男よの」と言い、乾いた喉を寝酒で潤すのだった。
◆
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