其の十六
戦乱の時代は、同時に「災害の時代」でもあった。
冷夏、地震、洪水、干魃、蝗害、疫病。
南蛮の国とも交流が始まるとなると、海を越えた病気も持ち込まれることとなる。
災厄は瞬く間に、時代の風に乗って日の本じゅうを駆け巡った。
この時代は外科や内科をはじめ、歯科や眼科、果ては産婦人科など、様々な医術が細分化されて発達し、それぞれの専門家たちが流派を開く時代であった。
しかし疫病ともなると話は別である。
既存に知られているものはともかく、未知の病ともなれば、医者たちは後手に回らざるを得ない。
その上、寒波によって稲や畑の野菜が育たず、よってまともな食事も摂れない農民たちは、ばたばたと飢えに倒れ、あるいは体が弱って病に罹る。
戦場に転がる骸や、鼠から病に罹る者も相当数いた。
感染速度が異常に早いとなると、罹患したが最後、治療法を確立できるより早く病人が死に至ることなど、よくある話であったのだ。
そして災いの手は、お殿様や紫月衆らの元にも着実に伸びていた。
一番の被害は、やはり田畑だ。幸いにして地震や洪水などの憂き目に遭うことは殆どなかったが、寒さと蝗たちが、貴重な稲や野菜たちを根こそぎ駄目にしてしまった。
幸いだったのは、紫月衆に、野草学に優れた童萬らがいたことだろう。
救いの一手となったのは、山人の廃村で見つけた、人手要らずの豊穣の術。
これを鞍馬天狗とミタマが主体となって研究したことで、土地こそ限られたが、同じように術を展開し、食糧不足をある程度補うことは出来た。
「ひとまず、当分はこの術で食糧問題はどうにかなりそうだ」
「でも、保って二、三年でしょうねえ。それまでにこの寒い時期をやりすごせたらよいのですが」
「忌々しい蝗が大人しくなってくれりゃあ、ちったあやりやすいんだがなあ……」
この術とて、万全ではない。どんなに便利そうでも、必ず致命的な落とし穴がある。
土や地下水の養分を一度にかき集める荒っぽい術であるために、過度に使用すれば却って田畑に悪影響が及ぶことが分かったのだ。
そのため、頻発すれば広範囲を死地に変えてしまう、恐ろしい業として、この術が後の世に伝わることはなかった。
不運はまだ続く。
未知の病が城下町で流行し、特に若い男女らが次々と倒れていった。
不気味な腫れ物めいた疱瘡が肌に浮かび、高熱や嘔吐に悩まされる者が続々と現れたのである。
病に罹った者らは、みるみる衰弱していき、最後にはまともに食べるものも喉を通らなくなって、枯れ木のように飢えて死んでいった。
またたくまに広がっていく病に、対抗する手段はなかった。城の者からも罹患者が次々現れ、やむなく城の付近に隔離施設が建ち、病人たちは全員隔離され、治療を受けることになった。
紫月衆や疫学に明るい医師たちは、童萬とミタマを中心として、疫病の特効薬を作るよう命じられた。
しかし成果はなく、空しくも時間だけが過ぎていった。病状を軽くすることは出来ても、それは一時的なもの。
根治に至る特効薬は中々開発されず、死者の数ばかりを数える日々。
民草の中には、どこぞの呪術師の呪いではないかとか、妖怪共の仕業だとか、以前の戦で死んだ大名の恨みだとか、様々な噂が飛び交っていた。
「殿、城下町の皆が不安に陥り、あらぬ噂まで立てているようです。
中には、信月様こそが、殿の失脚を狙い怪しげな部下達に命じて、疫病を流行らせているとか……」
「戯けた世迷い言を申すな!弟が斯様な搦め手を使うと思うてか!」
しかし程なくして、最も恐れていた事態が起きた。
頑健こそが自慢だったお殿様までもが、この病を前に倒れてしまったのだ。
政や度重なる出征により、心身共に疲弊しきり、医師らに休養を勧められた矢先のことであった。フジたちが地を追われて、一年半が経過していた。
童萬らが煎じた薬は、症状を緩和させ、延命させる処置でしかない。お殿様は日に日に弱っていき、痩せ細って死人のような肌に変わってしまったのである。
おつきの医師も匙を投げるなか、流行病であるにも関わらず、弟の紫月その人が、足げく兄の元に通い、手ずから看病し続けた。
「よせ、信月。迂闊に触れれば、そなたにまで感染ってしまう」
「今更何を恐れることがありましょう。
兄上、必ずや童萬たちが、薬を造りだしてくれるはずです。
ですから兄上も諦めないでください。流行病なぞに負けてはなりませぬ」
そして暫く経ち、童萬たちの苦労の甲斐あって、やっと特効薬が開発された。
薬が量産されるようになると、病によって死ぬ若者達の数は激減していき、やがて不治の病ではなくなっていった。
お殿様もこの薬のお陰で、命を取り留めたのである。
だが、喜ぶのも束の間。容態が安泰する頃、悲しい現実が待っていた。
病の後遺症により、お殿様の目は、殆ど見えなくなり、片足も動かなくなってしまったのである。これを知った紫月や妻はたいそう悲しみ、兄の動かない足に顔をつけて、声をあげて泣いた。
「おお、兄上。おいたわしや……!兄上をこんな風にたらしめた病めが、恨めしゅう御座います。
盲いた目も、動かぬ足も、私のものと取り替えることが出来たらどんなにいいか……!」
「もうよい。命があるだけ、まだお天道様に見捨てられたものでもないさ。
だが、もう政も戦にも出ることは叶わぬなあ。
紫月、今後はそなたが目となり、足となってくれ。この分だと、子供を作ることも、もうかなうまいて……」
「諦めなさるな、兄上。必ず、この目や足を治す術を探してまいりますから」
一方で、豊前の国でも、この流行病は猛威を振るっていた。
幸い、老夫婦がこの病に罹ることはなかったが、城下町や周辺の村々では、次々に病が若者達の命を貪り食らっていた。
中には、病から逃れるため、次々と故郷を捨て、遠く離れた地に助けを求める民草たちが続出し、国内は混乱に陥っていた。
病や飢えは、人を修羅に変える。病が流行り始めて三月も経つ頃には、ごろごろと死体があちこちに転がり、武士は山賊に鞍替えし、治安は悪化していった。
「やれやれ、右を見ても左を見ても、仏のほの字もありゃあしない。
殿下に報告して、この豊前を見限ったほうが身のためだと報せを送るべきか」
ミタケは憂鬱な気持ちで、豊前の辺境を調査し終え、フジの住む城へと久方ぶりに戻っていた。
最後から数えて、五月も顔を合わせていない。あちこちを探り回っていたのだから、いち下忍がむざむざ姫の元に顔を出す理由もない。
けれどそんな建前を抜きにしても、どうにも顔を合わせ辛かったのもある。
「──久方ぶりに、何か土産でも持っていくか」
その日は、何の気なしにそう閃いた。
何か話をしたかったが、その口実には土産が持ってこいだ。我ながら名案を思いついたものである。
早速市場へ向かったが、どの市場も閑古鳥であった。
やれ、病が流行ると市場も人が減る。せいぜいたかるのは、小蠅や屍肉をついばむ鳥ども程度。
三つほど市場を巡ったが、女に買う良い土産物はなかった。
仕方ないから花でも毟っていくか。そう考え、とぼとぼと帰路につくさなかのこと。
「もしや、そこの若人。何かご入り用ではないかね」
「うん?」
城の裏手に続く辻道で、奇妙な物売りに巡り会った。
鮮やかな赤髪に、猩々の能面を被っている女だ。見てくれは若いのに、声はまるで老婆のように嗄れていた。
辺りに人はいないというのに、女の物売りはぽつねん、と辻の分かれ道に立ち尽くし、ミタケに手招きしてくる。
普通なら不気味がって敬遠するだろうが、その時のミタケは、ふらりと手繰られるように近寄った。
気味悪さより、好奇心が勝ったからかもしれない。
「その人相、若い女に土産を探している。そうでしょうや?」
「よく分かったな。まるでさとりみたいだ」
「あたし程の物売りであればね、お客の顔を見りゃあ、何が欲しいのかくらい、まるで手に取るように分かるのさ。
そんなあんたに、丁度良い土産ものがあるよ。ほれ、どうだい」
そう言って物売りが差し出したのは、よく磨かれた鏡の飾りであった。
金の装飾がきらびやかに飾られた、小さな鏡だ。胸元や髪を飾るには、丁度良いほどの大きさである。
物売りは鏡を丁寧に錦の布で包むと、ミタケの物欲しそうな目を見抜くかのように、ひっひと笑った。
「お買い求めるなら、相応の対価を戴こうね」
「いかほどだ。金ならそれなりにある」
「いいや、銭が欲しいってわけじゃないのさ。あんたの小刀をおくれ」
「俺の小刀を?」
思わず、手元の刀に手をやった。
この刀は、初めて殿様と出会い、紫月に憑いた犬神を退治した時のものであった。
長年使い込んですっかり傷み、手入れをする暇もなく刃こぼれしていたが、お守り代わりにずっと持ち歩いていたものだ。
少し渋っていると、再び物売りが言葉をかけた。
「小刀が嫌なら、そうさな、こいつをおくれ」
物売りが指さしたのは、いつもミタケが持ち歩いている古い笛。
狼たちを呼び寄せる、音無き笛だ。しめた、とミタケは心中ほくそ笑んだ。
笛くらいならば惜しくない。狼たちを呼びつける用事もないし、新しい笛など当分は不要だ。
なぜこんな物を欲しがるかは不思議だが、くれてやっても痛手にはならない。
ミタケは古びた笛を物売りに差し出して、鏡の飾りを受け取った。
「良いだろう。風変わりな取引だが、笛で買えるなら安いもんだ」
「おや、あたしは笛を買ったんじゃないよ。あんたの運命を買ったんだ。
人間はね、最善を尽くすなら、迷う暇なく、ひたすらに選び続けるしかないんだよ」
「え?」
思わず聞き返したとき、目の前から、物売りの姿は消えていた。
ほんの少し鏡の飾りに意識を向けている、まばたきほどの出来事。
まるで狐につままれた気分だったが、ミタケは首を傾げながらも城に向かった。
裏門からこっそり忍び込んで、庭からフジの部屋に忍び込む算段だったのだ。しかし、聞こえてきた荒々しい声に、ミタケは顔をしかめた。
「おひいさま、しっかり!」
「今お医者様を呼んでおりますからね、どうかお気を確かに!」
女中達だ。やけに慌ただしいというか、切羽詰まった声だ。
一体何事だろう、と覗き込もうとした矢先、「こら!」と背後からたしなめられた。
腕を引かれ、そちらを見ると、やけに肌を隠した十波が、焦った顔で「何をしている」とミタケを叱り飛ばした。
「十波、やけに騒がしいが、何があった?」
「なに暢気なこと言ってるんだ。一大事だぞ、丹藤姫様が流行病にかかったんだ!
お前も絶対近寄るな。病を貰ったら、すぐにあの世行きだぞ!」
その言葉を聞いた刹那、ミタケは頭が真っ白になっていくのを感じた。
若者が罹り、間をおかず死に誘われる流行病。
フジがそれに罹った。
フジが、死ぬ。病で死ぬ。
童萬なら救ってくれるだろうか。彼女が特効薬を開発した知らせは、豊前にも届いている。
否、自分たちはまだ、あの城に戻ることは許されていない。
……狼たちを呼び寄せれば、或いは。
否、手元に笛がない。あの物売りに売ってしまった。
こうなると分かっていれば、笛を交換したりなどしなかったのに。
なんであの時、小刀を素直に渡してしまわなかったのだろう。最速で病のフジを連れて行く手段を、自ら手放してしまうなんて!
叩きつけられた現実が、じんわりとミタケの理性を蝕み始める。
不意に、あの不気味な物売りの言葉が何度も、頭の中に反響し続けた。
──人間はね、最善を尽くすなら、迷う暇なく、ひたすらに選び続けるしかないんだよ。
◆
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