其の十二


時間は少し遡る。

手紙で報せを受けたフジは、体じゅうから血の気が引く思いで聞いていた。

足の裏から根が生えたように動けなかった。

脳裏を巡る、故郷の村の情景が一気に駆け巡り、喉が異様に乾いていく。

歳月による風化のせいか、記憶にある父の顔はぼやけて、うまく思い出せない。それでも、故郷を想う心に変わりはなかった。

どうにかしなくては。何かしなくては。

遅れて追いついてきた、激しい心臓の鼓動がフジを突き動かした。


「──村に戻りましょう!」

「ええっ。しかし、ここから村まで八十里はあるぞ!しかも海を越えねばならん。

 そもそも殿下らが許しを下さるとも思えん!」

「行って帰ってくればいいのでしょう。止められるくらいなら一人でこの地を抜けます!」

「ああもう、一人で行かせられるわけがなかろうに!

して、どのようにあの海を渡るのだ。そもそも浜まで向かうまで何日かかることやら」

「心配ご無用です。私には仲間がついてます!」


フジは着替えると、紫月衆から手渡された土産を手に、十波と城を抜け出した。

しかし、城の者や城下町の人々は、フジの顔をすっかり覚えてしまっている。そこでフジは、高雄狐に持たされた変化の蓑をかぶった。

するとフジの姿は飄々とした飛脚に変じ、二人は港に向かうふりをして、町を離れることが出来た。

次に手にしたるは、ひとたび扇げば竜巻の出る天狗の扇。

しっかと二人で抱き合うと、フジは鞍馬天狗から教わった通りにまじないを唱える。


「扇よ扇、風を呼べ。足となり、翼となり、空を行け。豊前の浜まで飛んで行け!」


扇をあおいだ途端、二人の周りに竜巻が舞う。

空をも突くような風柱がフジたちを包む。そして目を開けると、瞬きの間に豊前の港、浜に二人は佇んでいた。

これには十波も目を剥いてあんぐり口を開けるばかり。

時は待ってくれない。フジは港に打ち捨てられた小さな小舟を持ってきて、海に浮かべた。

だが時刻は夜、それも冬の海はよく荒れる。

このままではまともな船ですら、動かせようもない。海の怖さをよく知る十波は「せめて朝まで待った方がいい」と止めた。

だがここで足踏みしているフジではない。


「海が阻むならば、海の民に力を借りるまで!いでよ、魚たちよ!」


うおの珠を天に翳し、フジは海へと呼びかける。

珠は澄んだ青に煌めいて、船を導く灯台が如く、魚や海の獣たちを浜へと呼び寄せた。

もし漁師たちがいたならば、空前絶後の豊漁だと喜んだだろう。

フジは海辺の魚たちに頭を下げ、頼み込んだ。


「私の願いを聞き入れてくださるならば、私は死ぬまで魚を口にせず、また海の生き物を殺生しないと誓います。

だからどうか、私たちを船にのせ、向こう岸まで運んでくれませぬか」


すると魚たちは、二人を小舟に乗せ、舟の下や脇について、魚の波となった。

荒れ狂う波の上を数万の魚たちが掻き分けて、猛然と向こう岸を目指す。生きた波の上を船が走るなど、二度とないことだろう。

おそろしい速度で突き進み、夜明けを迎える頃、二人を乗せた小舟は本土の土を踏んでいた。


「す、末恐ろしい船の旅だった。二度はごめんだ」

「帰りも同じ方法で行きますよ。肚を括ってください」

「ああ仏様、俺は少しこのお転婆娘についてきたことを後悔し始めてきたぞう」


二人は故郷の村を目指し、走る。だが浜から村までもかなりの距離がある。

そこでフジは、近隣の山の麓に住む庶民たちを尋ね、霊山や人を喰らう森などはないかと聞き込んだ。

突然現れたフジたちを訝るも、村人たちは、この村の北に向かった先に、山神崩れの人食い鬼の棲む山があると答えた。

ひとたび山に入ったが最後、出た者はいないので、命が惜しくば決してみだりに足を踏み入れてはならないと教えてくれた。

早速フジは嫌がる十波を連れ、わき目も振らず人食い鬼のもとに向かう。


「なんで鬼にわざわざ食われにいくんだ、頭がいかれたか!」

「十波殿は知らぬでしょうが、妖魔や神は、霊道という幽世の道を使うのです。

霊道は危険極まる道ですが、時の流れを気にすることなく歩き続けることができます。

出方さえ知っていれば、あっという間に目的の場所へたどり着くことが出来るのです」

「そんなに上手くいくかなあ!辿り着く先が鬼の胃袋だけは勘弁だぞ!」


果たして、霧深く朝も来ない山の奥に、人食い鬼の棲み処はあった。

かつては立派な本殿や祀るための祠があったのだろうが、風化して崩れ、誰も手直しする者はなく、参拝客もないために、只の洞窟と化していた。

鬼は朝からむしゃむしゃと大猿を喰らい、棲み処の周りは血と臓腑の臭いに満ちていた。

フジは身震いする体を抑え込んで、鬼神のもとに声をかけた。


「かけまくもかしこき荒ぶる山の神よ、今一度我が願いを聞き入れていただきたく」

「む。なんじゃそちは、村の者ではないな。とって食うてやろうか」

「ええ、全てが終わった後に、この身を腹に収めていただいても構いませぬ。

ですがその前にひとつ、あなた様に捧げものが御座います。

こちらを口にしていただいてからでも遅くはないかと」


そう告げて、フジはうわばみ瓢箪を差し出した。

酒に目がない鬼神はこれを大変喜んで、さっそくがぶがぶと飲み始める。

妖魔のために造られた酒なので、鬼神はあっという間に酒気が体を巡り、機嫌よくなった。


「この味には覚えがあるぞ、東の山の摩利支天の酒だ。道理で酒気が強いわけじゃ。

 うむ、気に入った。気が変わった、何ぞ困っていることがあれば力を貸そう」

「では鬼神様、どうか霊道を通ることをお許しください。火急の用なのです」

「良い、良い。望んだ場所に出る時は、その地の名を逆さにして、三度唱えねばならんぞ」


フジと十波は深く礼を言うと、鬼神の気が変わらぬうちに、さっさと霊道を駆けて行った。

霊道はどこまでも薄気味悪く、冷え冷えとして、死臭と糞と尿を混ぜ合わせたような酷い臭いがした。

道中、小鬼や黄泉の住民たちが、何度かフジ達を襲おうとして食べようとした。

その度にフジは、童萬が煎じた煎じ薬を撒いて、魍魎たちが煎じ薬の良い香りを巡って奪い合う間に場を切り抜けた。


「はあ、はあ、殿下にしこたま叱られて国を追い出されることになってもいい。

 この道を二度通るのは、本当に本当にごめんだ!」

「巻き込んで申し訳ありません、十波殿。いざとなれば責任は取ります故」

「まったくだ。奉公先を失くすのはこれが最後だと思っていたのになあ!」


そうして苦難の旅の果てに、たったの三日で、二人は故郷の村の近くまで戻ってきたのである。

村の名を逆さにして三度叫ぶと、二人は村に一番近い山の中に、ぽつねんと立ちすくんでいた。

季節は如月、春といえどまだまだ雪の降る頃。

辺り一面が雪に覆われ、山の懐かしい寒さに二人は震えあがった。


「もう何年も経ったからか、山の地形がすっかり変わってしまったな。どのあたりだ、ここは」

「十波殿、気を付けて。ここは戦場のただなかです。敵と間違われ、刃を向けられるやも。早くムラに向かい、危険を知らせなくては」


しかし、山を少し歩いてすぐ、驚くべきものを見つけた。

お殿様の旗を掲げた軍勢が、故郷の村に向けて山を登っているのである。

このままでは村が襲われ、略奪の憂き目に遭うことは目に見えていた。村はお殿様の敵国に属している。皆殺しすらあり得た。


「急がねば!でも、どの道を進もうにも、並みの人間じゃ登れないし……」


そんな時、持ってきた荷物の中で唯一、使っていなかったものの使い道を閃いた。

ミタケが寄越してきた、何の変哲もない笛だ。

これまでミタケがこの笛を使った回数は、数えるほどしかない。

だがフジは知っている。この笛は音色こそ奏でることはないが、狼たちを呼び寄せ、従えることが出来るということを。


「お山の千疋狼たちは 草場にまぎれて かくれんぼ

 馬とって食おか 人とって食おか 舌なめずっこして見ているぞ

 いきはよいよい かえりはないさ 肉食って骨ばみ 腹のなか」


笛を鳴らし、歌を口ずさむと、雪の白煙を放ちながら、たちまち数頭の狼たちが現れた。

毛皮は雪に馴染み、その足は馬よりも速い。

一番大きな銀色の狼をはじめとして、彼らは笛の主であるフジに頭を垂れ、命を待っていた。


「狼よ、私たちを乗せてムラまで走って!

残る狼たちは、どうにかあの行軍を食い止めて。人を食い殺してはなりませんよ」


狼たちは吼えると、大きな狼二頭がフジと十波を乗せ、残る狼たちはお殿様の軍めがけて走り出した。

突然襲ってきた狼の群れに、足軽たちは大騒ぎ。

狼たちが馬に飛び掛かり、鎧や槍に噛みついて引き剥そうとしたり、お尻を噛もうとするので、右往左往の大混乱。

混沌と化したお殿様の軍を横目に、フジと十波は狼の背にしがみつき、山を駆ける。

今は懐かしい、あの故郷の村を目指して。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る