其の四
視線で出来た針の筵とは、まさにこのことか。
イノメ姫の先導の元、一行は刺すような視線を全身に受け、山奥を進む。
生きた心地などするわけもなく、馬たちに至っては、妖魔たちの気配に感づいてかしきりに逃げようと試みる。
垂直と表現するに相応しい、険しい獣道を進む。
鹿がどうにか移動できるか瀬戸際の道のりを、イノメ姫は猿の如く身軽にわたり、あまつさえ雑談に興じるほどの余裕を見せていた。
「お侍さんらの城からここまで、遠かっただろうに。
途中、山賊に襲われなかったかい。わたしは一度も山賊って妖怪を見たことがないんだ。一度でいいから相撲を取ってみたいな。
そうだ、腹は減ってるか。ここじゃ食うものには困らないけど、ヒトが何を食べるかわたしは知らなくてね。味噌漬けの兎肉でも食うかい」
「あー、イノメ姫。お心遣いは感謝するが、私は肉を食べないんだ。
ミタケ、フジ、二人で食べなさい」
「そんな、紫々丸様を置いて何か食すわけにもまいりません」
「なんだ肉は駄目か。干し柿なら食えるか?」
イノメは外の世界のことを何も知らないようだった。
せいぜい麓の村の者たちの生活を眺めるくらいで、よく見れば服も鎌倉のころを思い出すような、派手だが古臭い恰好をしていた。
険しい道がなだらかな道に変わると、さらにイノメはあれこれと聞きたがった。
「外の世界は、相変わらずお侍同士で殺し合ってんのかい。
それともチョウテイだとかいうえらい王様が天下を取ったとか?なんでもよいのだ、外の世界について教えてくれ」
「ええ、勿論ですイノメ姫。外の世界は小さな戦がそこかしこで起きております。
その戦の殆どは、食糧の奪い合いが原因です。今、日の本はあらゆる意味で、大変冷えているのです」
「冷えている?」
「はい。夏であろうと寒く、農作が大打撃を受けています。
米はおろか麦や野菜の類もまるで育たず、なんとか収穫にこぎつけても蝗に食われ……、税をおさめるどころか、明日食うものもない民草が大半なのです。故に農民たちが一揆を起こしたり、略奪に明け暮れ、統治などあってないようなものでして」
「ははァ、外の世界はわたしの知っている以上に生き辛い世界なのだな」
「ええ。幸い、我々の領土は海に近いゆえ、魚をとって暮らしているために、まだ領民は食うに困っていないのですが……ああ、暗い話をしてしまいましたね。
楽しい話をしましょうか。海をごらんになったことは?」
「あるぞ、小さい頃にな!浜辺で遊んでいたら、海坊主にさらわれそうになったっけ。以来、海の話を出すと皆が嫌がってのお。
御嶽に、夏藤といったか。お前たちも海を見たことはあるか?」
フジは思わず、言葉に詰まった。
故郷の山の頂から、一度だけ、海を見たことがある。
忘れもしない、故郷の山から逃げ出したあの日。川の神に生贄として運ばれる、輿の中でちらりと見た景色だ。
山々のなだらかな斜面から吹き下ろす風が、水面を穏やかに撫でて、斜陽が渺々たる藍をどこまでも鮮やかに照らしていたさまを、不意に思い出していた。
押し黙ったフジにイノメが首をかしげていると、ミタケがするり、と二人の間に割って入った。
「すみません、妹は海など見たことがないので、イノメ姫さまに気の利いた返しが出来ずに恥じているのです。
私も海は遠目にしか見たことなどございませんが、山の外に出た暁には、帰るすがらに海沿いを行くのもよいかもしれません。どうでしょう、紫々丸さま」
「ああ、良い考えだな。海の近くでは戦もない、安全に兄上の元まで帰ることが出来よう」
紫々丸もそう返すと、今度は二人に問いを投げかける。
「そうだ。二人に聞きたいことがあったのだ。
「はい、紫々丸さま。お殿様がたの住まう地から、山を四つほどこえた先にある小さなムラにございます」 すぐにミタケが答えた。
「ほお、山の四つ先か。そんな所にムラなどあったろうか」
「もう何年も前に、川の氾濫に巻き込まれ、滅んだのでございます。なにせ小さなムラでございましたから」
ミタケはすらすらと、この時のためとばかりに考えていた偽の話をでっち上げた。
全てが嘘ばかりというわけでもない。予め、既に滅んだムラについて調べておき、そこを偽の故郷ということにしたのだ。
しかし、フジはミタケの嘘の話で、更に故郷の事が連鎖的に思い出された。
川の氾濫。自分たちのムラは、今どうなっているのだろう。
やはり山に居座る川の神に滅ぼされたのだろうか。
ミタケの背に憂鬱な顔を隠したまま、フジは口をきゅっと結ぶのみ。
その様子を見かねてか、足元をしきりにころころ転がる毛玉を拾い上げて、紫々丸はフジに毛玉の塊を手渡した。
「夏藤、ごらんよ。どうやらこの山には、こんな愛嬌もある妖が生きているらしい。フジの故郷にはいなかったのか?」
ひっと恐怖を喉に押し込んで、フジはおそるおそる毛玉を受け取った。
丸い目玉が三つ、ぽっこり浮き出た、猫みたいな妖怪が、じっとフジを見上げていた。
「は、初めて見ます。紫々丸様はあやかしが恐ろしゅうないのですか」
「うむ、最初こそ肝が冷えたが、一度は犬神に憑き殺されかけた身を、ミタケに救ってもらった。彼が傍にいるならば、安心だろう」
紫々丸は歯を見せて笑うと、「それに、お前が怖がるものだから、かえって気が落ち着いたしな」と付け加える。
顔がざくろのように赤くなったフジを見て、三人はからからと笑った。
しばらく歩き、二度目の休憩を終えた後、紫々丸はイノメ姫に問いかける。
「なぜ我々の居場所が分かったのだ。しかも、初めからくることが分かっていたかのようだったではないか」
「山のふもとまでお前たちが来たとき、千里眼って鬼が教えてくれてね。
天眼通といってな、少し先のことが視えたりするんだと。
それに、お侍さんたちのことは、天女様に出会って聞いたんだ」
「成程、お見逸れした。天女様は、姫に何かお伝えしたのでしょうか」
「ああ。ちょいと前に、雷に打たれてさ。その時、天女様に雷の中で出会ったんだ」
「ええっ、雷に?」
フジが驚きで大きな声をあげたばかりに、鳥たちが慌ただしく飛び去っていく。
しぃ、んと森が静まり返ると、フジは恥じらって顔を隠した。
イノメは苦笑し、言葉を続ける。
「──もうじきこの山へ、お前の力を必要とする若者たちが現れるはず。
お前は若者たちに着いていき、己が宿命と向き合うがよい。ってさ」
「己が宿命?」
「ああ。きっと、人里へ下り、人のために戦に出て戦うことが、天に定められしわたしの役目なのだろう」
「なれば、我々と共に城へ?」
「ああ。わたしはそのつもりだ。皆は怒るだろうがな」
イノメは寂しそうに笑って、足元を見つめた。
皆、というのはきっと、山のあやかしたちのことなのだろう。
気まずい時間が流れ、フジが咄嗟に話題をそらした。
「時に、山のあやかし達は人を喰らうと聞いたのですが」
「ああ喰うぞ」 あっさりとイノメ姫は認めた。
ぎょっとするフジの目を見て、慌てて言葉を正す。
「でも、お前たちは上流のあかやしたちと似たような匂いがする。
どこで付けてきた匂いか知らないけどさ、その匂いがある限り、彼等もむやみに取って食ったりはしないさ。
……さあ、着いた。此処より先が、神とあやかしの領分。わたしたちの里だ!」
心の支度をする間もなく、イノメ姫がぱちんと手を鳴らす。
途端、ただ森が茂っているだけの景色が、色彩が水に溶けるようにふやけて消えていく。
草木の茂みや樹木の群れが、視えざる波に押し開かれるように失せていく。
数度のまばたきの後には、一行の視界に、広々とした、さながら京の都を思わせる賑やかな町並みが広がっていた。
多くの長屋は派手な提灯や蝋燭が掲げられ、空には極楽の花が舞い、縦に長いお屋敷がでんと並ぶ。
何より、町並みを行き来する、あやかしたちの数といったら!
河童、唐傘、化け狐、土蜘蛛、蛇女、牛鬼、大蝦蟇、天狗、一つ目、……数えていけばきりがない!
名前も分からないような奇妙な出で立ちの者どもも、皆甘ったるい酒のような匂いを漂わせ、けらから笑いながら暮らしているではないか。
「お、おお……とても山の中と思えぬ景観!」
「京より派手じゃあないですか。ただの山奥に獣たちがすし詰めの如く暮らしているとばかり……」
「そりゃあ、此岸とまったく理が違うンからね。
皆で暮らすためには、人の世をちくとばかし真似することもあるさ。それを嫌がるあやかしも多いがね……ささ、母様の元へ案内するよ」
イノメ姫は人目を気にするような素振りをすると、つったかと歩き始める。
狼たちはふらりとどこかへ姿を消し、馬たちを引いて、一行はイノメ姫の鮮やかな牡丹髪を追いかけるのだった。
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