屋敷へ
「すごい……!」
この数ヶ月で背中にかかるくらいには伸びた蜜色の髪を押さえ、ルカは歓声を上げた。
みるみる都が小さくなり、その周囲の地形が一望できるところまで、オルシウスはあっという間に舞い上がった。
「これがこの大陸なんですね!」
地平線の彼方まで見渡すことができる。
オルシウスは気流に乗り、まるで滑るようにその二枚の翼で空気を斬り裂き、進んで行く。
「あ!」
鳥の群が、まるで寄り添うに飛んでいるのを見て、ルカは思わず声をあげてしまう。
手を伸ばせば届きそうな距離。
鳥の群は西に向かって進路を取って、徐々に離れていく。
「本当に、すごい……」
ルカは思わず口元を手で覆ってしまう。
瞬きをするたび、視界がぐにゃりと歪んでいく。
空の色もただの蒼ではない。
水平線ちかくは澄んだ色をして、空の色は太陽に近づけば近づくほど青黒くなった。
はじめて滝も見た。
水は澄み切った青や、柔らかな群青をして、高所より降り注いでいる。
水が白く泡立ち、虹がかかっていた。
地平の彼方まで続きそうなほどの草原は風を受けてそよぐたび、そのみずみずしい緑をさまざまな色に変化させ、まるで大地そのものが波打っているかのように見えた。
「あぁ……」
思わずため息がこぼれた。
‘世界はこんなにもたくさんの色で溢れているのね’
屋敷の中にいては知りようのなかったことだ。
「怖いか?」
ルカは首を大きく横に振った。
胸が支えてうまく話せない。
それでも未来の夫になる人の質問に早く答えなければと必死に口を開く。
「私、これまで街を出たことがないんですっ。だから、こんなにも世界は広いんだって思ったら感動して……。もちろん本では知っています。でも実際にこうして目にすると……。すいません。変ですよね……」
頬を赤らめ、恥ずかしさに思わず笑ってしまう。
「いや、変じゃない」
「そう、ですか?」
「ああ」
肯定してくれる。
ただそれだけのことが嬉しい。
‘さすがにこんなことで泣くなんておかしいって、思われたわよね……’
目尻に溜まる涙をそっと指先で拭いさる。
「オルシウス様、あとどれくらいで到着するのですか?」
「この速度なら太陽が中天にさしかかるくらいには到着する。――引き返すのなら、今のうちだぞ」
「いいえ、引き返しません」
引き返したとして待っているのは死だけ。
ルカには前に進むことしか許されない。
「そうか」
オルシウスの声には、面白がるような響きがあった。
お手並み拝見、とでも言わんばかりに。
そしてオルシウスの予告した太陽が中天にさしかかる時刻。
徐々にオルシウスは高度を下げていく。
「東に見える、あの森だ」
「はい、見えます!」
これまで見たことがないくらい深い森が、眼下に広がる。
「あれが、あなたの領地、ですか?」
「俺のじゃない。黒き竜の領地だ」
そうして森の一画に、オルシウスは着地すると、ルカを乗せた手をゆっくり地面に置く。
ルカはバランスを取りながら、大地に降り立った。
「オルシウス様、私は……」
「黙って待て」
威圧感のある声に、ルカは口をつぐんだ。
やがて森の奥から馬にまたがった平服の男が、兵士を三人従え、ルカの目の前までやってくる。
「陛下!」
「ギルヴァ、そいつを頼んだぞ。城まで案内してやれっ!」
大きく羽ばたき、オルシウスは飛び去る。
しばし呆然とその行方を目で追いかけていたルカは、神経質そうな平服の男の眼差しに気付き、頭を下げた。
「ルカ・キウス・アリウスと申します。このたび、オルシウス様に嫁ぐことに……」
「ルカ? 嫁いでくるのは、シェリル・ルーダ・アリウス嬢のはずですが」
「……妹は大病をわずらい、来られません。代わりに姉の私が参りました」
「何と。陛下は別人と間違われて連れてきたのですか……」
「いえ、オルシウス様にはしっかりと名乗り、事情もお話しました」
「では、陛下は承知の上で?」
「はい」
ギルヴァと呼ばれた男の視線は刺すように鋭い。
竜ではなく人の姿にもかかわらず、その眼光の鋭さにひるんでしまう。
‘もしかして私が聖女でないことを、この人、気付いた!?’
あの地獄のような屋敷に送り返されてしまうかもしれない。
緊張のあまり、両手をきつく握り締めた。
「陛下が承知だというのなら……。まったく困った方だ。自己紹介をさせていただきます。私はギルヴァ。陛下の秘書を務めさせたいただいております。お見知りおきを」
「こちらこそ、よ、よろしくお願いいたします……!」
「ところでお荷物は?」
「……陛下が突然お迎えになられたので」
「なるほど。分かりました。では別の者に命じて取りに行かせます」
「すみません」
「あなたが謝ることではありません。悪いのは突然、竜の姿で押しかけた陛下なのですから」
ギルヴァは兵士の一人に向かって顎をしゃくる。
兵士は下馬すると、ルカに馬を近づける。
「あの、申し訳ありません。馬にはのれません……」
乗馬は上流階級のたしなみではあるが、奴隷同然の暮らしを送ってきたルカはそんな初等教育すら受けさせてもらえていなかった。
「分かりました。では僭越ながら、手をお貸しします。構いませんか?」
「は、はい……」
というわけで、兵士の手を借り、どうにかこうにか馬に跨がらてもらう。
鞍にしがみつき、バランスを取った。
「馬をゆっくり進めますので」
「……ご迷惑をおかして申し訳ございません」
「では参りましょう」
先頭を行くギルヴァの言葉を合図に、馬は沼を避けつつ進んでいく。
ルカの跨がる馬は兵士が轡を取って、優しく引いてくれる。
いつルカがバランスを崩してもいいように、二人の兵士が左右を守ってくれていた。
‘……ここが、黒き竜の土地……’
竜の棲まう場所は聖なる場所と、本にはたしか書かれていた。
四季を通して花々が咲き乱れ、空気は澄み渡り、命が溢れる。
しかしこの沼地はまるで死を凝縮したような不気味さに満ちていた。
肌に絡みつくようなねっとりとした風が吹き抜けると、卵が腐敗したような臭気を一緒に運んでくる。
樹木はどれも痩せ細り、木漏れ日は辛うじて差し込んでいるが、薄気味の悪さはぬぐえるものではなかった。
「申し訳ありません、ルカ様」
ギルヴァが馬を進めながらこちらを振り返る。
「は、はい?」
「都の方からすると、ここは決して愉快な場所ではないでしょう」
「本で読んだものとはだいぶ、趣が異なるようですね……。竜が棲まうのはユートピアのような場所だと書かれていたもので」
「かつては、そうでした……」
「かつて?」
「この沼は毒です。どうか決して足を踏み入れないよう、お気を付けを。触れればすぐに命にかかわるわけではありませんが、危険です」
「わ、分かりました」
殺されそうになったり、奴隷同然の扱いを受けることにくらえればこれくらい何てことはない。
そもそも寝起きしていた場所だってこの森と大差なかったことを考えれば、毒沼くらいどうということはない。
しばらく進むと、木々が開け、ぐるりと周囲を高い塀と門で囲った屋敷が見えてくる。
「あれは……」
「オルシウス様の屋敷です」
‘あそこが、私の次の戦場、ね……’
聖女ではないとばれれば、一巻の終わり。
門を抜けたところで兵士の手を借り、ルカは地面に降り立った。
「こちらです」
兵士たちと別れ、引き続きギルヴァの先導で屋敷に入った。
「いらっしゃいませ、奥方様」
一階の大広間にはこの屋敷で働いているであろう大勢の使用人たちが並ぶ。
そしてルカを前に深々と頭を下げる。
頭を下げられ馴れていないルカは申し訳なくなって、「よろしくお願いします……」と蚊の鳴くような声でぺこぺこと頭を下げてしまう。
「ルカ様、使用人や私にいちいち頭を下げる必要はありません」
「いえ、そういうわけには……。これからお世話になるんですから」
「気遣いは無用でございます。こちらです。――それから、アニー、お前もきなさい」
「はい、ギルヴァ様」
ルカとそう年の変わらないメイドが呼ばれる。
アニーは栗色の髪をツーサイドアップにして、そばかすの浮いた頬がふっくらとして可愛らしい少女だ。
「ルカ様、部屋にご案内いたします」
「お、お願いします」
使用人たちの値踏みをするような視線を受け、ルカは居たたまれない気持ちでいっぱいになってしまう。
階段を上がり、二階へ。
厚みのある絨毯の感触を意識しつつ向かったのは、とある扉の前。
「こちらです」
アニーが扉を開けてくれた。
部屋の中はベッドとワードローブ、書棚に飾り棚などの家具が置かれている。
「ここが、私の部屋……」
ギルヴァが頷く。
「そちらが浴室になっております。それから、このアニーが今日より、あなたの身の回りの世話を担当いたします。要望があれば彼女にお伝えください」
「よろしくお願いします、アニーさん」
「アニーと呼び捨てで。それから丁寧な言葉遣いも無用に願います、奥方様」
「……では、その奥方様という言葉はやめて。私はまだオルシウス様と結婚していないのだから、ルカ、と」
アニーは確認を取るように、ギルヴァを見る。
ギルヴァが頷くと、アニーは「かしこまりました、ルカ様」と言った。
‘本当は様漬けもやめてほしいけど……’
これ以上は困らせてしまうかもしれないと、ルカは妥協することにする。
「ルカ様、お疲れでしょう。しばらくお休みください。何かあれば枕元のベルを鳴らしてください。では」
ギルヴァとアニーが深々とお辞儀をし、部屋から出て行った。
「ふぅ……」
小さく息を吐き出し、部屋をぐるりと見回す。
‘こんなに広い部屋、申し訳ないくらいだわ’
用意されている家具はこれまで大切に使われてきたのだろう、かなり年季が入っている。
‘大切に使わないと……’
ルカが使い始めた途端、壊れてしまったなんてことになれば申し訳がたたないし、印象も最悪になってしまう。
ルカは部屋に置かれた椅子に座り、書き物机の上で宝箱を開き、母の形見を取り出すと、手で包み込む。
‘どうか私が偽物の聖女だとバレませんように。それからオルシウス様、ギルヴァ様、アニー、それから屋敷の人たちとうまくやれますように。お母様、どうか見守っていてください’
「よしっ」
形見を箱に戻そうとして、机がぐらつくことに気付く。
しゃがんでチェックすると、四本ある足に問題はなさそう。
机の天板を裏から覗くと、横木が一本足りなかった。
元々の欠陥なのか、使っているうちに取れてしまったのかは分からないけれど。
‘直したほうが良さそう’
折を見て、アニーに相談しよう。
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