終わりのない日々
冬の朝。
ルカ・キウス・アリウスは手の感覚がなくなるほどに冷たい水で雑巾を絞り、這いつくばるような格好で床掃除を行っていた。
絶え間ない水仕事で潤いをなくしたその手はまるで老人のよう。
後ろで乱暴に縛っただけの髪はくしゃくしゃで、ひどく痛んでいる。
かつてはその髪は蜜色に輝き、腰まで長かったが、使用人生活では邪魔でしかなかったから、数年前に肩のあたりでばっさりと切ってしまった。
十八歳という身空でありながら、世間の少女たちのようにオシャレを楽しむ余裕はルカにはない。
朝は雄鳥が鳴くより早く目覚め、使用人たちに混ざって家事を行う。
眠るのはいつも日付が変わってから。
湯浴みなんて許されないから、水で濡らしたタオルで身体を拭き、ねずみの出る屋根裏部屋で粗末な布にくるまって眠る。
このルカが、優れた聖女を幾人も輩出してきたアリウス侯爵家の令嬢だと誰に分かるだろう。
「あんた!」
背後から響きわたるキンキンと尖った声に、ルカはびくっと両肩を震えさせ、恐る恐る振り返る。
「……お嬢様」
ルカは拭き掃除の手を止め、深々と頭を垂れる。
少女はキメの細やかな肌に赤毛の髪、明るい緑の瞳はまるで宝石のように澄んでいる。
シェリル・アーダ・アリウス。
ルカの腹違いの妹である。
「このドレス、あんたが昨日、洗濯したのよね」
「はい……そうですが、何か問題が?」
「この裾のところに穴が空いてるでしょ!」
シェリルはドレスを、ルカの顔に押しつけるように突きだしてくる。
しかしルカには穴が空いているようには見えなかった。
「お嬢様、申し訳ございません。どちらに……」
「目も見えないの、このグズ!」
平手が容赦なくとんできて、思わずよろけてしまう。
シェリルの力は大したことないが、普段からまともに栄養のあたえられてないルカは平手一発でよろけてしまうほど衰弱していた。
「よく見なさいよ!」
シェリルは残忍な笑みを浮かべたかと思うと、隠し持っていた裁ちばさみで、美しいドレスを切り裂く。
「ほらぁ、穴が空いてるじゃない!」
唖然とするルカを蔑むシェリルの眼差しには、アリを無邪気に踏みつけて殺すような酷薄さがありありと浮かぶ。
「シェリル、何を騒いでいるのですか」
「あ! お母様!」
シェリルはお得意の猫なで声を出しながら母親に抱きつく。
シェリルの母であり、ルカにとっては義理の母にあたる、ローザン。
娘と同じ赤毛をゆるく巻き、神経質そうな眼差しを愛娘へ向ける。
「聞いてください、お母様。ルカがひどいんです! 私のお気に入りのドレスをまた破ってしまったのぉ!」
おきまりの嘘泣き。
しかしローザンは娘が嘘をつくなど考えもせず、ルカを睨み付ける。
「あなたという子は! 能無しでも、この子の姉だからとお情けで屋敷においてあげている恩を忘れて……!」
「ち、違います、奥方様! 私では……」
必死に弁明するが、聞くはずもない。
ローザンは二人の男の使用人を呼びつける。
「この子を裏庭へ!」
「嫌です! やめてください、奥方様……!」
男たちに両腕を掴まれ、裏庭へ放り出された。
「っ!」
「そこで反省し、身の程を知りなさいっ!」
扉が勢い良く閉められ、ローザンたちの足音が遠ざかっていく。
その場でルカは大の字に寝転がる。
鉛色の空から、ぽつ、ぽつと雨粒が落ち、土埃の汚れと涙とを一緒に洗い流していく。
「……っ!」
ルカはしゃくりあげ、声をあげて泣いた。
‘どうして私がこんな目に……!'
下唇を噛みしめると、口にかすかに血の味が広がった。
聖女を輩出する名門、アリウス侯爵家。
ルカはこの家に生まれ、次の代の優れた聖女としての才覚を期待されながら、どれだけ経っても聖女の力が発現することはなかった。
生みの母はルカを出産後間もなく亡くなっていたことから、ルカの父ウスタフは後妻をもらい受けた。
名門は優れた聖女を輩出すればこそ特権を享受し、民から敬われる。
聖女が生まれなければ、その家は没落してしまう。
ウスタフの判断は当主として当然のことだった。
新しい母ローザンは、義理の娘のルカに優しかった。
やがて妹が生まれ、聖女の力を発現した。
ルカは自分が聖女としての力がないのなら全身全霊で妹を守っていこう、そう心に固く誓った。
しかしウスタフが病で亡くなり、事態は急変した。
それまで優しかったはずのローザンは何もしていないルカをきつく叱りつけ、「聖女でもないくせに!」と罵り、父から与えられたものを次々と奪っていった。
抗議してくれる使用人もいたが、次々とクビにされた。
新しく雇用されたのは、ローザンに忠誠を尽くす者たちばかり。
彼らはローザンと一緒になって、躾けと称し、ルカを痛めつけた。
ルカはこの家の人間でありながら、使用人にすら劣る扱いを受ける羽目になったのだ。
そんな日々が続いたある日、いつものようにルカが庭掃除をしていると、早馬が駆けこんできた。
使者は一目散に屋敷に飛び込んでいった。
‘何かあったのかな……’
使者の横顔を見る限り、緊急事態なのは分かった。
何か異変が起きたのだろう、どんな異変なのだろう――。
そこまで考えて、ルカは自嘲する。
‘何が起ころうが私には関係ないじゃない。使用人にすぎない私には……’
アリウスという名字は、ルカにとってはただの飾りだ。
しかし使者がやってきた翌日から、異変はすぐに起こった。
まず毎日のようにルカをいびりにきていたシェリルがぱったりと来なくなった。
それどころか姿を見かけることもなくなったのだ。
異変はそれで終わらない。
普段ならばローザンと擦れ違うだけで睨み付けられ、罵倒され、叩かれるというのに、彼女は心ここにあらずという雰囲気で、ルカのことをちらりとも見ない。
ルカからすれば、理不尽な暴力に遭わずに済んで幸せな日々だった。
さらに日数が経つと、噂好きな使用人の会話がルカの耳にも届くようになった。
「シェリル様、白き竜様とのご婚約が決まっていたでしょう」
「ええ。たしか次の竜帝候補なのよねえ。うらやましいわ!」
竜帝とは竜世界を統べる王のことで、類い稀な力を持つ竜族――白き竜、赤き竜、青き竜、それぞれの竜帝候補の中から選ばれるのが慣例になっていた。
いつかシェリルの許嫁である白き竜アルズールが屋敷を訪れる機会があった際、「お前のような穢れた者がアルズール様の目に触れるなどもってのほか!」そうローザンから言われて屋根裏部屋に押し込められたルカは、部屋の窓からその姿を一瞬だが、見たことがあった。
白銀の髪にアイスブルーの瞳、白き竜特有の透き通るような白い肌。
背丈はすらりと高く、均整の取れた身体つきをしている。
まるで童話の世界から出てきた王子様のような御方。
竜は普段、その強大すぎる力を抑えるため、人の姿をしている。
あれほど人の姿が美しいのだから、竜になればどれほどの神々しさなのだろう、とルカはこっそり妄想を膨らませた。
幼い頃から、竜はルカの憧れだった。
聖女ではない自分には望むべくもない存在だからこそ、竜の出てくる童話を読んではウットリした。
もし自分が聖女であれば、どんな御方と結ばれていただろう。
そんな妄想の時間だけが、辛い現実に疲弊した心身を癒やすよすがだった。
ルカは使用人の噂話に耳を傾ける。
「なんでも黒き竜が、白き竜様をはじめとした他の竜帝候補者たちを倒してしまったらしいわ! 他の竜たちはみんな、黒き竜に忠誠を誓わせられ、竜帝と認めたらしいの……」
黒き竜。
それは竜族の中で最も忌まわしく、穢れた存在と呼ばれる。
竜と聖女はつがいになる。
それは聖女と生まれたものならば、誰もが栄誉とするべきこと。
しかし黒き竜だけは例外だった。
その存在自体が忌まわしいとされ、社交の場にも姿を見せるということがない。
それでも慣例に従い、聖女は嫁がなければいけない。
黒き竜に嫁がされる聖女は嘆きのあまり憤死したり、黒き竜の子を身籠もるくらいならと自ら命を断った者まで過去にはいたらしい。
「待って。そうなったらシェリル様と白き竜様とのご結婚はどうなるの?」
「分からない……。一応亡くなってはいないらしいんだけど」
「あぁ、なんて可愛そうなシェリル様。白き竜様とのご結婚を心待ちにしていらっしゃったのに!」
‘黒き竜、一体どんな姿をされているのだろう。本当に噂で聞くほどおぞましく、穢れた存在なのかしら……’
使用人たちが仕事に戻るのを尻目に、ルカはそれが気になってしまう。
「――ルカ!」
「は、はいっ」
廊下の向こうから駆けてくるのは、ローザンの雇った執事長。
父親の代から勤めてくれていた執事長はルカをかばったために、屋敷から追い出されていた。
「奥方様がお呼びだ。すぐにお部屋へうかがうように!」
「……分かりました」
嫌な予感しかしなかった。
今度はどんな無理難題をふっかけられ、どんな罰を下されるのだろう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます