夫が迎えにきた

 当日を迎え、その日は朝から大忙しだ。


 目覚めてからすぐに風呂へ入り、身体のすみずみまで綺麗に磨く。


 お風呂から上がると、次にお化粧。


 同時進行でヘアメイク。


 ドレスに袖を通して、ようやく怒濤のような準備が終わる。


 支度が終わった頃、ローザンとシェリルの二人が、ルカの元へやってきた。


「あぁ! とても綺麗よ、ルカ!」


「お姉様、ほれぼれしてしまいます!」


 歯の浮くような媚びるような賞賛。


 空虚な褒め言葉だけど、こんな二人ともこれでお別れだからと思えばこそ我慢して聞いていられる。


「ありがとう、二人とも」


 ルカはにこりと微笑みかけ、侍女が淹れてくれた紅茶に口をつける。


「それで、シェリル。迎えはいつ来るの?」


「お昼の予定よ。ね、お母様」


「ええ、もう間もなく」


 その時、窓ガラスがピリピリと音をたてて震える。


‘地震?’


「お母様、地震だわ!」


「そんな! ルカが嫁ぐ日に地震だなんて、なんて不吉な!」


 馬鹿な母子が抱き合って震えるのを冷めた眼差しで一瞥したルカは窓を開け、外をうかがう。


 地震ではない。


 外で掃き掃除をしている使用人は特別、慌てていない。


 しかし窓ガラスは震え続けている。


 その震えは収まるどころか、どんどん大きくなっていた。


 瞬間、何かが空から近づいてくることに、ルカは気付いた。


「な、何……?」


 思わず後ろへ数歩、後ずさった。


 こちらにやってきたのは、闇よりもなお深い漆黒の竜。


 晴れ渡った空から舞い降りた黒き竜の姿に、使用人たちは慌てふためき、逃げ惑う。


 黒き竜は翼を大きくはばたかせ、屋敷の前庭に悠然と着地した。


 翼の起こす突風で、屋敷の窓ガラスが粉々に砕けていく。


「りゅ、竜だ! 黒き竜だ!」


「だ、誰か! 助けて!」


「殺されるうぅぅぅぅぅ!」


 家中が大騒ぎになる中、ルカは無言でバルコニーへと歩み出る。


 黒き竜の鋭い眼差しが、ルカをしっかりと見すえた。


「あなたが……黒き、竜?」


「そうだ。この屋敷の娘が俺の婚約者になると聞いた」


 黒き竜が喋るたび、紫の炎がその口元からかすかに漏れ出た。


「……それは、私です」


「貴様か。俺がお前の夫になる、黒き竜のオルシウスだ」


「私は、ルカ・キウス・アリウスと申します。オルシウス様」


 はじめて目の当たりにする黒き竜の姿を前にして、ルカの全身の鳥肌が立った。


‘格好いい……っ!’


 そのしなやかさと逞しさが同居するフォルムはもちろん、その汚れひとつない黒曜石のごとき漆黒の見事さはどう言い表せばいいのだろう。


 こんなにも美しいのに、穢れているなんてありえない。


 澄んだ瞳にも、すっかり魅せられた。


「ルカ? 俺の相手は、シェリルのはずだ。俺が半殺しにしたアルズールの許嫁」


「私はシェリルの姉です。妹は大病をわずらい、嫁ぐことが叶いません。ですから代わりに私があなたのもとへ嫁ぐことになったのです。オルシウス様」


 竜の刺すような眼孔はさすがに迫力があった。


「聖女が大病、だと? 癒やし手のくせに、己の病も治せないのか?」


「う……。そ、それは……」


「ま、どうでもいい」


‘どうでも……?’


 自分のつがいになる相手なのに、どうしてそんな投げやりなことを口にするのだろう。


 迎えにまで来てくれたというのに。


 ルカは振り返り、腰を抜かしたまま「助けて……」「あぁ、死にたくない……」と虚ろな呻き声をこぼすローザンとシェリルを一瞥して、呆れる。


‘オルシウス様からは、敵意なんて感じないのに大袈裟すぎるわ’


「オルシウス様、ところで私はどうすれば?」


「俺の手の平にのれ」


「はい」


「待て。荷物は?」


「荷物……。これだけで構いません」


 ルカは母の形見の入った宝箱を大事に抱えたまま、バルコニーの手すりによじのぼり、差し出されたオルシウスの両手に飛び乗った。


「これでいいですか?」


「念の為に俺の指にしがみつけ」


 気を遣ってくれる優しさが嬉しく、ルカは頬を緩めて言われた通りにする。


 黒き竜はその手にルカを乗せ、大きく翼をはばたかせて飛翔した。


 みるみる遠ざかっていく屋敷を見下ろし、ルカは笑顔になる。


‘生き地獄よ、さようなら! もう戻って来ることはないわ!’

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