目覚め

黒い手が這い寄る。


 ケガレの手。


 それは薄気味のわるい虫のようにうねり、蠢き、ルカの身体に絡みつく。


 四肢を押さえつけられる。


「……っ!」


 やめて、離れて――ルカは叫ぶが、ぱくぱくと口を開いたり閉じたりするだけで、声は出てくれない。


 何かが口の中に注ぎ込まれる。


 黒い液体。


 苦しいのに、飲みたくないのに、顔を背けることが許されない。


 蝕まれる。


 穢されていく。


 腐っていく。


‘やめて、も、もう……飲みたくない……私の身体から消えて……!’


「いや、いや、いや……!」


 ルカは暴れ、手足をめちゃくちゃに振り回す。


「落ち着け!」


 誰かの声。


 しかし半狂乱になったルカには届かない。


 子どものように「いやあっ!」と声が嗄れそうなほどの大声を張り上げた。


 激しく動かす腕を誰かに掴まれる。


 それが自分を押さえつけていたケガレの手と重なる。


 しかし違う点があった。


 その手からはルカをねじ伏せ、自由を奪おうという意思を感じなかった。


 まるで壊れ物でも扱うように優しく包まれる。


 それが半狂乱だったルカを落ち着かせてくれた。


「う、ぁ……あ……?」


「ルカ」


「……お、オルシウス、様……?」


 ルカは自分を見つめる、柔らかな光をたたえる暗紫色の眼差しを前に、全身から力を抜く。


「もう大丈夫だ。ケガレは殺した。お前が恐れるものは何もない」


‘オルシウス様のこんなにも柔らかな声、はじめて聞いた……’


 そんなことを言ったら、怒られてしまうかもしれないけど。


「ここ、は……?」


「お前の部屋だ。痛む場所はないか?」


「……大丈夫だと、思います。私、どれくらい眠って……?」


「二日くらいだ」


「そんなに!?」


「お前は全身を毒の沼に浸からせながら、身体が蝕まれることがなかった。その奇跡に感謝しろ。薬湯で応急処置をしたとはいえ、普通なら腕や足の一本、失っていてもおかしくないんだ」


 ルカは自分の手足を見たが、異常はなさそうだった。


 と、ベッドのかたわらに置かれた椅子に気付く。


「オルシウス様、ずっとおそばにいてくださったんですか!? ご迷惑をおかけして、私……」


「迷惑じゃない。そもそも今回のことは俺に落ち度がある」


「そんな! オルシウス様に落ち度なんて……。だって、オルシウス様が助けてくださったんですよね!?」


「ケガレが襲来する可能性を考えなかった。それは俺の手抜かりだ。お前を試すことばかに意識がいってしまったんだからな」


「私を、試す……?」


「俺の妻として相応しいか。領民を前にしても恐れたり、怯えたりすることがないか」


「それで、私は……?」


 結果はどうなのだろう、とルカは気になってしまう。


 オルシウスの期待に応えることができただろうか。


 オルシウスは今回のことは自分に非があると言っていたが、ケガレに襲われ、大勢の人たちに迷惑をかけたことで、他の聖女たちのように失格の烙印を押されてしまったのではないか。


「お前は他の聖女たちとは違う。それだけは言える。それに、お前は集落の子どもを助けるために自分から囮になったらしいな」


 ルカは、タリムという少年のことを思い出す。


「タリムはどうなりましたかっ。無事ですか!?」


「安心しろ。無事だ。お前が眠っている間に、母親ともども礼を言いに来た」


「良かった……」


 ルカは自分の胸に手を当て、柔らかく微笑んだ。


「いいものか」


 オルシウスの声が鋭くなる。


「……っ」


 静かだが、怒りを含んだ声の響きに、ルカはびくっと震えてしまう。


「無茶をするにもほどがある。今度からはもっと考えて行動しろ。いくら子どもの命を救っても、お前自身が死んでしまえば何の意味もない」


「……も、申し訳ございません」


 ルカは恥じるように目を伏せた。


 その反応に、オルシウスは小さく舌打ちをする。


「アニーを呼んでくる」


「オルシウス様、お待ち下さい」


「何だ?」


「私はまだこちらの屋敷にいても構わないのでしょうか……」


「お前が望むならな」


「もちろんです! 望みますっ!」


「なら、好きにしろ」


「ありがとうございます」


「礼など言うな。礼を言われることなど、俺はなにもしていない」


 オルシウスは部屋を出ていく。


 オルシウスがいなくなって一人になると、部屋が急に広くなったように感じられた。


‘もっと、オルシウス様と一緒にいたかった……’

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