第3話 犬を好きになるための猛特訓
九条君の事を意識しだしたのは、いつだったかな。
運動部のエースと言うわけでも、学校一のイケメンと言うわけでもなく、最初はただのクラスメイトだったはずの男の子。
そんな彼を特別だと思うようになったのは、席が隣になった事がきっかけだった。
毎朝「おはようって」挨拶したら、「おはよう」って返してくれて。教科書を忘れた時、嫌な顔をせずに見せてくれた。
消しゴムやシャーペンを落とし時は、私よりも先に動いて拾ってくれた九条君。一つ一つは些細な事だけど、隣にいると自然と彼の良い所が目について、良いなって気がしてたの。
そして極めつけは、なんと言ってもアレかな。
あの日の授業中、私は突然お腹が痛くなって苦しんでいたの。
キツくて、嫌な汗が出て、呼吸が乱れる。先生が何か喋っているのは分かるけど、内容なんて頭に入ってこない。
時計を見るたけど、授業が終わるまでまだ30分もあった。
たかが30分。だけど私にはそれが、絶望的な時間に思えた。
手を上げて体調が悪いことを言おうかとも思ったけど、皆がいる中それをやるのは恥ずかしすぎた。
ダラダラと汗を流しながら、お願いだから早く終わってと願っていたけど、その時不意に、隣の席から物音がした。
「先生、俺気分悪いんで、保健室に行っても良いですか?」
言ったのは、九条君だった。
私もキツかったけど、九条君も大変なのかな?
先生は、少しくらいどうにかならないかって言ったけど。九条君は手で口を抑えながら「我慢できない」と言って、退出を許可してもらった。
変な話だけど、こういう時ちゃんと言える九条君が羨ましい。
できることなら私も今すぐ出て行きたかったけど、こんな状況で「私も」なんて言うことができずに、痛みをこらえる事しかできない。
って、思っていたんだけど。
「羽柴、悪いけど付き添ってくれないか。一人じゃキツい」
「えっ?」
思わぬ指名を受けて、目を丸くした。
そうして混乱しているうちに手を引っ張られて、先生が何か言う間もなく、教室の外に連れて行かれちゃった。
そして。
「羽柴、大丈夫か? 保健室まで歩けるか?」
九条君は気持ち悪いと言っていたのが嘘のような血色のよい顔で、私のことを心配してきたの。
「く、九条君こそ平気なの? さっき、気分悪いって」
「あんなの嘘だよ。羽柴が大変そうにしてるって思ったんだけど……俺の勘違いじゃないよな?」
心配そうに顔を覗き込んでくる九条君を見て、ようやく理解できた。
そっか。私が体調悪いって気づいて、連れ出してくれたんだ。
私が変に注目を浴びないように、自分が調子の悪いフリまでして。
「ひょっとして、余計なことした?」
「う、ううん。ありがとう、助かっ……」
「おい、本当に大丈夫か?」
よろめく私を九条君が受け止めてくれて、肩にもたれ掛かる。
あわわ、私ったら、なんてことを。
だけど九条君は気にする様子もなく、優しく支えてくれた。
「おっと……本当に大丈夫か?」
「へ、平気。それよりごめんね、付き合わせちゃって。授業も抜けさせちゃった」
「良いって。それより、歩けるか。キツいなら、ゆっくりで良いから」
「うん……ありがとう」
それから九条君に支えられながら保健室へと向かう。
肩に回された手がとても暖かくて、ドキドキ。
お腹は相変わらず痛むけど、今度は胸の奥がポワポワしてくる。
きっとこれが、『いいな』から『好き』に変わった瞬間。
本当はもっと前から好きだったのかもしれないけど、ハッキリ意識したのは間違いなくこの時。
九条君の優しさが、心に染みたの。
まあ、好きになったからと言って、私達の関係が劇的に変わるってことはなかったんだけどね。
相変わらず毎朝挨拶を交わして、お喋りをすることもある。ただそれだけの関係。
だけどそれでも好きで、いつか振り向いてくれたら良いななんて思っていたけど。
待ってばかりじゃダメだよね。九条君のことが好きなら、ちゃんと彼に見合う女の子にならないと。
本来ならここで、可愛く、上品に、エレガントになるよう、自分磨きをするところなんだろうけど。
私が選んだ道は、そんな普通のものじゃなかった。
犬嫌いを治して犬好きになるって決めた後、さっそく弓香ちゃんの部屋で特訓を始めたのだけど……。
「ほらほらー、ゴールデンレトリバーの写真だぞー」
「ぎゃああああああああっ!」
スマホの画面いっぱいに映った、ゴールデンレトリバーの写真。
弓香ちゃんはそれを見せてきて、私は可愛いとも上品ともエレガントともかけ離れた、品のない悲鳴をあげていた。
「どうしたどうした。愛しの九条君の愛犬と同じ犬種なのに、悲鳴なんてあげちゃって。羽柴亜子、アンタの愛はその程度か!」
「くっ、まだまだ。これくらい、気をしっかり持てば、我慢できる!」
「お、やるねー。それじゃあもう一度ゴールデンレトリバーを見せて……と思ったでしょ。残念、今度はブルドックの写真でしたー」
「ぬわおぉぉぉぉぉぉっ!?」
ゴールデンレトリバーが来ると思って身構えていたのにブルドックを見せられて、またも悲鳴をあげる。
いったい何をやっているのかって? 特訓だよ特訓。
犬嫌いを治すため、まずは犬の写真からならしていこうってことになったの。
だから弓香ちゃんにお願いして、スマホで色んな犬の写真を見せてもらっていたんだけど……。
次々と見せられる犬の写真に、悲鳴を上げまくる。まるで悲鳴のバーゲンセールみたいな状況だよ。
一方弓香ちゃんはと言うと、そんな私を見ながらまるでオモチャをもらった子供のような笑みを浮かべている。
「次は柴犬だぞ柴犬ー!」
「きゃーっ!」
「お次はチワワだー!」
「いやぁぁぁぁっ!」
「次はいよいよお待ちかね。亜子にトラウマを植え付けた張本人ならぬ張本犬。トイプードルの登場です!」
「ひっ! そ、それだけは本当に止めてー!」
ガタガタと体が震え、目に涙が浮かんでくる。
「ひ、ひどいよ弓香ちゃん」
「ひどい? アンタが犬嫌いを治したいって言うから、協力してるんじゃない。親友が怯える姿を見るのは、アタシだって胸が痛むんだよよ。けど、アンタの決意は本物だって知ってるから、アタシは心を鬼にしてるの。アンタの恋を、実らせるために!」
「弓香ちゃん……」
私のためにそんなにまで。
ひどいだなんて言ってごめん。弓香ちゃんは最高の友達、親友だよ。
「と言うわけで、今度はシベリアンハスキーだよー」
「ぎゃああああっ! いきなりは止めてってばー!」
「さあ、次はどんなワンちゃんが出るかなー……そらっ!」
「ひぃ──って、あれ? 猫?」
画面に映ったのは犬じゃなくて、ゴロンと丸くなった猫ちゃんだった。
か、可愛いー!
「あんまり怖い思いをさせるのもなんだし、少しは癒される写真も必要かと思って」
「それで猫を。ありがとう、とっても可愛い」
「喜んでくれて嬉しいよ。他にも、キツネやカメ、ハシビロコウの写真もあるよー」
動物の写った写真を、次々とスライドさせていく。ハムスターにカワウソ、みんな可愛いや。
私、犬以外の動物なら割りと好きなんだよね。
犬が出てくる確率が高いから、動物番組は絶対に見ないけど。
あんなにたくさんの犬を見せられたんだもの。少しは癒しタイムを満喫してもいいよね……。
「癒しタイム終了。はいポメラニアン」
「ぎゃああああああああっ!?」
「どんどん行くよー。次は……あ、間違えた」
画面に写されたのは犬でも他の動物でもない。
表示されたのはホラー映画に出てくる、ホッケーマスクをつけた殺人鬼だったの。
「殺人鬼……ああー、良かったー。殺人鬼でもゾンビでも、犬よりはマシ! これなら頬擦りしたって平気だよ」
「亜子、アンタ今すっごくヤバイこと言ってるよ」
真面目なトーンでドン引きされた。
私だって、感覚が麻痺している自覚はあるってば。
「なんだろうね。犬嫌いを治そうとしてたはずなのに、何だか余計悪化させてる気がするのは、アタシだけか?」
「そ、そんなことないもん。それにまだ始めたばかりじゃない。これから徐々に慣れていけば良いんだよ」
「慣れる、ね。アタシにはそんな未来、想像できないわ」
「だ、大丈夫。これからこれから。私が本気出せば、あっという間なんだから! 慣れた暁には犬が何匹来ようと怯むことなく、ちぎっては投げちぎっては投げしてやるんだから!」
「ストーップ! 動物虐待する気か、目的を見失うな! そんな事したら九条君にも嫌われるわ!」
ええっ、そうなの!?
マズイ。さっきの殺人鬼の写真といい、犬を大量に見たせいで、頭がおかしくなってきた。
これが犬の魔力か。犬、やはり恐るべし。
「いや、アンタがおかしいだけだから!」
スパーンと頭をどつかれて、ようやく正気に戻った。
はぁっ、はぁっ。これは思っていたよりずっと、手強いミッションかも。
だけど私は諦めない。絶対に犬好きになって、九条君のハートを掴んで見せるんだから!
「……亜子、気づいてないかもしれないから言っとくけどさ。そもそも犬を好きになったからって、九条君が振り向いてくれるとは限らないんだからね」
弓香ちゃんが呆れた顔で何か言ってるけど、夢中になってる私には聞こえなかった。
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