犬嫌いな私の恋

第1話 犬嫌いの私がついた嘘

 よく晴れた、日曜日の昼下がり。


 ふふふ~ん、気持ちの良い天気~。

 今は6月だけどちょうど梅雨の中休み。私、羽柴亜子は外を歩きながら、晴れた空や紫陽花の花に目を向けて、晴れやかな気持ちになっていた。

 ……数分までは、ね。


 ああ、いったいどうしてこんなことになっちゃったんだろう。

 友達の家に遊びに行く最中だったんだけど、近道しようと、公園を横切ったのがいけなかったのかな。

 そのせいで私は今、獰猛な肉食獣と対峙するはめになってしまっている。


 大きな体、ふさふさした毛並み、くりくりした目。焦げ茶色の毛並みに、頭の上にはペタンとした耳を持つ怪物。……ゴールデンレトリバーと言う名の猛獣と。


「ワンッ!」


 ひ、ひぃぃぃぃ~!


 吠えてくるゴールデンレトリバー。

 私にはそれが大気を震わせる咆哮のように思えて、腰を抜かしそうになる。


 や、やだやだやだやだーっ! 

 お願いだから吠えないで。と言うか、どっかに行ってよーっ!


 だらだらと嫌な汗が流れるのは、暑さのせいじゃない。

 実は私は、犬が苦手なのだ。凄く苦手なのだ。ものすご────く苦手なのだ。


 犬は可愛い、癒されるなんて言う人もいるけど、私にとって犬は恐怖の象徴なんだもの。

 もしも道の両側から犬とオバケが同時に迫ってきたら、迷わずオバケに助けを求める。犬をテーマにしたハートフルな映画は、どんなホラー映画よりも恐怖をそそる。

 それくらい、犬が苦手なんだよ。


 だから極力、犬とは関わらない人生を送ろうと心に決めていたんだけど、突然の出会いだけは避けようがない。

 公園を歩いていたら、前からわっさわっさと力強い走りを披露しながらやってきたのが、このゴールデンレトリバー。


 予期せぬ襲来に固まっちゃっていたら、何故かゴールデンレトリバーは私の前でピタリと止まって、今に至る。

 何を考えているのか、ゴールデンレトリバーは立ち止まったまま、ジーっと私を見つめているけど。いやー! 見つめないでー!


 つぶらな瞳が可愛いって言う人もいるけど、私にとってはヤンキーににらまれるよりも怖い。みられる

 何なら見たものを石に変えちゃうメデューサに見られるよりも、恐ろしいんだよー!

 そもそもどうしてこの子は、私を見つめてくるの!


 と、とにかく。早く逃げないと。もしも襲ってきたらって思うと、生きた心地がしない。

 だけど震える足を一歩後ろに下げると、それに合わせるようにゴールデンレトリバーはこっちに近付いてくる。


「ワンッ、ワンッ!」


 ちょっとー、何でついてくるのよー!

 こら、ふさふさ尻尾を振るんじゃなーい! 

 ストップ! お願いだからそこを動かないで!


 だけどそんな願いもむなしく、ゴールデンレトリバーは徐々に距離をつめてくる。

 そして。


「ワオーン!」

「キィヤァァァァァァァァッ!?」


 一気に近づいてきたゴールデンレトリバーは、そのまま私の足にすりすり。

 犬好きな人にとっては可愛い仕草なのかもしれないけど、犬が苦手な私はもちろん大パニック。


 うぎゃー! 

 くおーっ!

 ♯♨¿&%$※◎@▼ゑゑゑ──!?


 悲鳴を上げようにも声にならなくて、逃げようにも、足がガクガクで動くことができない。


 ああ、もうダメだー。私、このままショック死しちゃうかも。

 羽柴亜子、14歳の若さでこの世を去るのかー。パパにママ、先立つ娘を許しーー。

 頭の中がぐちゃぐちゃになりながら、本気で死を覚悟したその時。


「あ、こらガレット! 何やってるんだー!」

「ワオン?」


 意識が朦朧とする中、やって来た誰かがゴールデンレトリバーを引き離す。


 ああ、天の助け。

 誰だか知らないけどありがとう。あなたは救世主、命の恩人様だよ。

 だけど遠くへ行きかけていた意識を戻して、その人の顔を見ると……。


「え、九条君!?」

「あれ、羽柴?」


 お互い名前を呼んで、目を丸くする。

 だってその命の恩人さんは、見覚えがあると言うか。よーく知ってる人だったんだもの。


 サラサラした髪に、幼さの残るさわやかな顔立ちの彼は、中学のクラスメイト。しかも教室での席は隣同士の男の子、九条友昭君だったの。


 く、九条君がどうして!?

 さっきまで感じていた恐怖がどこかへ行ってしまい、代わりに別の理由で、心臓がドキドキしてきた。


「く、九条君。何でここに?」

「俺はガレットの……コイツの散歩中だったんだけど」


 そう言いながら、ゴールデンレトリバーの頭を撫でる九条君。

 え、ひょっとしてこの犬、九条君の飼い犬なの?


「羽柴はどうして?」

「わ、私はちょっと、用事があって……」


 モゴモゴと答えながら、高鳴る胸の鼓動を抑える。

 う、うわー。まさか休みの日に、九条君と会えるだなんてー!


 いつもは制服姿しか見てないけど、私服も格好いいー。眼福眼福ー。

 私の格好は、変じゃないよね。白いシャツに水色のスカート。髪はサイドポニーにまとめていて、悪くはないと思うけど。それでも九条君と会うってわかっていたら、もっとお洒落してきたのにー。


 ただクラスメイトと会っただけなのに、そんなに気にしなくてもいいんじゃないかって? 

 と・こ・ろ・が! そういうわけにもいかないの。

 だって私は九条君のことが……す、すすす好きなんだもーん!


 九条君は男子の中でも特別目立ってるわけじゃないけど、優しくて気が利いて、一緒にいるとほっこりする、癒し系の男の子。

 隣の席だと特にそれが実感できて、気がつけば好きになっていて。現在絶賛片想い中なの。


 そんな九条君と会えるなんて、今日はいい日だ……。


「ワンッ!」

「ひゃあ!?」


 まるで夢の中にいるような気持ちだったのに、突然の鳴き声で一気に現実に引き戻された。

 そ、そうだった。犬がいたんだー!


「こらガレット、大人しくしろ。ごめん、驚かせて」

「べ、別に平気だよ。その子、九条君の犬なの?」

「ああ。ガレットって言うんだ」


 ガレットくんの頭や顎を優しく撫でる九条君。

 きゃわわーっ! 九条君に撫でてもらえるなんて、羨ましいー!

 ガレットくんは目を細めて、とっても気持ち良さそうにしてる。たぶんこういうのって、犬好きにはたまらない可愛い表情なんだろうけど、生憎私は大の犬嫌い。

 羨ましいなって思いながらも、いつ飛びかかってこないかビクビクだよ……。


「バウッ!」

「ひぃ!」


 吠えられた拍子に、後ろに尻餅をついちゃった。

 キャー! 九条君の前でなんてみっともない姿をー。は、恥ずかしいー!


 だけどここで、九条君が神対応。倒れた私に「大丈夫か」って言って、手を掴んでくれたの。


 九条君の手、ちょっとゴツゴツしてて、男の子の手だ。

 九条君は心配して手を握ってくれただけなのに、好きな男の子と手を繋いじゃったって思うと、ドキドキしちゃう。

 ああー、このまま時間が止まってくれたらいいのにー。


 だけど当然そういうわけにもいかず、すぐに起こされる。

 残念、もうちょっとあのままでもよかったのに。


「ガレットがごめんな。なあ、ひょっとして羽柴って、犬苦手なのか?」

「えっ? うん、実は……」


 苦手なの。……そう答えようとしたけど、ちょっと待って!


 ガレットくんは、九条君の大切な家族なんだよね。

 なのにもしもそれを苦手、嫌いだなんて言ったら、九条君はどう思うだろう?

 もしかしたら……。


『羽柴って、犬嫌いなんだな。犬好きに悪いやつはいないって言うけど、逆に言えば犬が嫌いな奴って、極悪非道で最低な奴って事だよな。羽柴がそんなやつだとは思わなかったよ。犬嫌いな羽柴の顔なんて、もう二度と見たくない』


 ……な、なんてことになったらどうしよう!?

 もちろんこれは、考えられる最悪のパターン。だ、だけど、万が一ってこともあるよね⁉


「おい、羽柴。顔色悪いけど、そんなに犬嫌いだったのか?」


 ガタガタ震えていると、九条君が心配そうに見つめてくる。


 マズイ……マズイ……マズーイ!

 もしも犬が苦手ってバレたら、九条君に嫌われちゃうかも。

 どうしよう、どうしよう……。


「……に、苦手じゃないよ」

「え、でも震えてるけど」

「こ、これは武者震いだよ。ガレットくんがあまりに可愛いから、つい興奮しちゃったの! だ、だって私……犬が大好きなんだもの!」


 ……ごめんなさい。羽柴亜子14歳、大嘘をつきました。


 ガレットくんに視線を移して、ニッコリと作り笑いを浮かべてみせたけど、本当は気絶しそうなくらい怖い。

 だけど九条君の前なんだもの。我慢しなきゃー!


「へえー。羽柴ってそんなに、犬好きなんだなー」

「う、うん。もうメチャクチャ大好きだよ!」


 なんて笑顔で返してみたけど、嘘をことついてる罪悪感で、胸が痛い。


 後で思えば、これが長い苦難の日々の始まりだったけど。この時はまだそんなこと、知るよしもなかった。







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