第5話


 腕のぬくもりに息をつく。大和の不安げな気配に心慰められる。それだけで、まだ大丈夫だと言える。安曇はそう思う。大和に言えばきっと違う答えが返ってくると知りつつ。

「もう少し続けるよ」

「安曇さん――」

「翻訳はできてる。大和君に説明するだけ」

 かすかな笑みが震えているのに彼は気づいているのだろうか。大和の眼差しにこそ安曇は見てとる。再び微笑んでノートを示した。

「これさ、封印できるってあるじゃん」

 古き印。強力な封印となる、なんらかの印。読み解いた限りでは歪んだ星型とでも言えばいいのか。その中央に燃える炎の目があるような。図版があったわけではないから安曇の想像にすぎない。が、不思議と間違っている気はしなかった。

「この本の印象だとね、悍ましいんだよ」

「はい? 封印、が?」

「そう。封印できるのに、ね。僕の感覚では著者がこの印にいい印象を持ってない」

「それは――」

 著者にとっては封印こそが禁忌なのでは。大和は言いかけて黙った。あのようなものを封印できるとなれば自分には善なる印としか思えない。が、著者は逆の印象を持つと安曇は言う。

「なんて言うかな。所詮は印象だよ? ただ、この著者は『古き印』を言ってみれば敵対する相手の紋章みたいな感じで扱ってるような書き方なんだ」

 安曇は思う。件の彫像はこの印によって封印を施された。神の一柱であると予想されるあの彫像を。

 同時に、劇の舞台上に現れた、否、長田が召喚したあの化け物。バグ=シャースと呼ばれるあの黒い塊もまた、神なる存在ならば黄衣の王もおそらくは。

「この本は……。化け物を肯定してる、僕はそんな気がして、ならないんだ」

 ぞっとしていた。そんなことがあっていいものか。悪夢に取り殺された福島。黄色い襤褸をまとった化け物のせいで血膿を撒き散らして死んだ伊藤。あれをもたらしたものを肯定など。

「……正直に言って、怖くなりました」

「僕もだ」

 そう言い合えるのは幸せだった。一人ではない、陳腐な台詞がありがたく感じるほど、怖かった。互いに目を覗き、震えを見つける。

「なんなんでしょうね、この本は」

「意図も由来もわからない」

「なぜ教授が持っていたのかも」

「……だね」

 大和は不意に何かが思考を掠めたような気がした。長田はこの本を見つけて欲しかったのではないかと。それはおそらく彫像がいとも容易く見つかった、その経緯と似ているからかもしれない。偶然にしては、あまりにも。

「世の中は広いね、宗教は色々だねって、面白がってられれば、よかったのにね」

「こんなの、宗教に数えていいんですか」

「……自信ないな」

 力なく安曇は笑う。比較宗教学の徒としては否定はしたくない、いかなる宗教と雖も偏見の目で見ることはしない、断言したいだろうに。

 ――これを前にしては、できない。

 大和もそう感じていた。人間が崇め敬ういかなるものでもない、そう言いたくなる。長田はこれを偏見と言うだろうか。尋ねてみたい気がした。

「そういえば。教授のとこの神社」

「戎神社?」

「うい。戎さまは事代主神だって安曇さん、言ってましたよね?」

「うん。民間伝承レベルでは、そういうことになるね」

「俺、事代主神が漁業神って印象がなくて」

「あー、それは、そうかも。大和君にとって事代主神は?」

「大国主命の息子、かなぁ」

 それだけわかっていれば充分じゃないか、安曇が微笑む。まともな、少なくとも慣れ親しんだ神話の話ならば気が楽になる。そんな彼と狙っての大和はほっとしていた。

「国譲り神話において、大国主命のところに建御名方神が来るじゃない?」

「あぁ、はい。で、自分は了承したから息子に聞けって」

「それそれ。で、そのとき事代主神は釣りしてるんだよね。その辺から漁業神なんだと、僕は思うけどね」

 古代の政権交代とでもいう神話、あるいは神話として語られた権力の移行。古代の人々が何を思い、どう行動してきたか、何を禁忌とし、何を求めてきたか。多くの神話を読み解けば「人間」がわかる。安曇はそう思う。

 ――もしかしたら、僕は。

 他者の中の異物である自分。だからこそ、人間を知りたいのかもしれないと。青いことを考えたものだと笑えてしまった。

「釣りで漁業神ねぇ。俺だと、海の神さまって言ったら綿津見大神ですし」

「漁業神と海神は微妙に重ならないんだけどね」

「そう……なんですか?」

「微妙だけどね。海に関係してるって意味では、一緒だけどさ。綿津見大神といえば大和君、別名は?」

「え、ちょっと待って! そんな急に!?」

「豊玉彦、だね、さて聞き覚えは?」

「えー。なんだっけ……どっかで……あぁ、豊玉毘売だ」

「海幸彦山幸彦神話だね。海幸彦の釣り針を失くして困ってた山幸彦の話。豊玉毘売は山幸彦の妻になる、豊玉彦の娘だ。で、だ。大和君」

 ふふ、と安曇が笑った。本当に楽しそうで、こうして研究に関する話をしているのが彼の幸福なのだと改めて大和は思う。すべて解決した暁には、彼がこの生活に戻れるように。大和はそれだけしかできない己と自覚しつつ、それだけは死守したいと願う。

「豊玉毘売の正体って言うか、本性が明らかになるよね、産屋のところ」

「覗いちゃだめだって言ってるのに覗いたんでしたっけ。でかい鰐だったってやつ」

「うん。それでさ、父娘、ほぼ同じ名前だよね。娘が鰐だったら、父もだと思わない?」

「あぁ、確かに……」

 海神なのだから、水棲生物なのは正しいだろうと大和も思う。古代の鰐は鮫を表していることを考えても可能性は高いと。恐ろしくも優雅、巨体を誇る鮫を神と見るのはなんら不思議はないだろう。

「鮫は怖いけど、かっこいい生き物でもあると思うんですよ。神さまって言いたくなった昔の人の気持ちもわかるかなぁ」

「だよね。僕はスキューバの趣味はないけど、実際に遭遇すると感動するらしいね」

「だろうなぁ」

 ふと天井を見上げ大和は呟く。美しいだろうと率直に思う。かすかに安曇が笑い声をあげた。その虚ろさに大和はぞくりとする。

「……こんな怖さだったらさ、いいのにね」

 鮫は怖い、でも美しくもある。安曇の言いたいことはわかっていた。古代の人が神と崇めた生き物。同列になど語りたくは断じてない、あの化け物にして神。

「それなのにさ、なんだろうね。怖い悍ましい禍々しい。それだけじゃ、ないんだよ」

「安曇さん、考えすぎ」

「どうかな? あの劇のときのさ、よくわからないけど、たぶんあれが黄衣の王だったんだよね」

 あれもまた神なる一柱だと安曇は疑えない。もしかしたら、これは自分が宗教的に寛容で日本神話という多神文化に生まれ育ったせいなのだろうか。多くの神がいることに違和感がないのは。それを思うとき、すでにあれらを神と信じている自分をも安曇は見る。嫌な気分だった。

「僕は、教授が呼び出したあの化け物より、黄衣の王の方がイヤだった」

「怖かったじゃなく?」

「そう。嫌だったんだ。生理的に無理」

 馬鹿馬鹿しい言い振りに安曇の本気が透けていた。彼の目が真っ直ぐと大和を見ている。そしてうなずいた。

「そっか。大和君もだったんだ」

「お揃いですねーって言ってられりゃ幸せでしたけどね」

「ほんとだよ。なんだろうね、この感覚の差って言うか、嫌悪感の差は」

「どっちも嫌なのは嫌だった?」

「そりゃね」

 親和は到底できなかった、安曇にはっきりと言われて大和は安堵する。あのようなものに親しみなど持って欲しくはない。それが自分のエゴだとしても。

「研究者としてはどうかと思う。でも僕はこれを神だの宗教だの言いたくないってのが本音だよ……」

「ま、俺にだけ言う本音ってのもいいんじゃないですか」

 ふ、と安曇の口許がほころんだ。それでいいのかと言うように。大和は穏やかな眼差しで彼を見つめていた。安心して甘えてくれていい、いま、自分はここにいる。そんなつもりで。

「大和君」

 伸びてきた手が大和の胸元へと。触れるかどうか。ぎりぎりのところで止まった指先。大和は小さく笑って彼を抱き寄せる。胸元から安堵の吐息が聞こえた。

「今夜はこの辺にしておきませんか。根を詰めると疲れますよ」

「……ん。ちょっとね、頭痛い」

「ほら、やっぱり。無理しちゃダメですって」

「大和君に――」

「うん?」

 なんでもない、腕の中で安曇は首を振っていた。大和が止めてくれる。そう思うから無理ができる。あるいは、止めてだめだとたしなめて欲しかったのかもしれない。

「いつごろかな」

「何がです?」

「研究室、再開するの」

「安曇さんがわからなきゃ俺にわかるわけないでしょ」

 そのとおりだ、くすくすとした笑い声。安曇が元の生活に戻ることを楽しみにしているのが大和にも伝わっている。本と資料と遺物とに囲まれて。そうして生きていきたいのだと。

「論文書かなきゃなぁ」

「締め切り近いんです?」

「――言ったじゃん。大和君養わなきゃって」

 実績を上げて教授職を目指す、と。そうして未来を見ている安曇の顔を大和は見ない。胸に抱き込んで見なかった。

「俺だって働きますって」

「卒業するまでは食わせなきゃならないからねぇ」

 喉の奥で笑う安曇に大和はそれ以上を言わなかった。照れたとでも思ったか、安曇もあえて話題は続けない。論文の構成でも考えはじめたのかもしれない。

「教授、体調どうなんです?」

 少し落ち着いたいまならば、と大和は問う。仕方ないやつ、と言わんばかりの呆れた溜息が聞こえた。

「もうちょっとひたらせようとか、思わないの、大和君は」

「いや、まぁ? 恥ずかしいんですって、俺だって!?」

「なら許す」

 顔をあげた安曇の目に魅入られた。不意にまじまじと見つめてくる大和に気恥ずかしくなった安曇が視線を外すより先、くちづける。甘く柔らかな唇は疲労と恐怖に荒れていた。たぶん自分も同じだ、大和は思う。

「大和君もお疲れだね」

 羞恥に視線を外したままの安曇の呟き。かすかな笑みを含んだ声でなければ大和も反論した。

「安曇さんほどじゃないですよ」

 互いに目を合わせ、くすぐったくなっては笑う。この瞬間だけは、何も怖くない。思った途端、視界にあの本が映った。




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