第7話
目覚め、安曇はぼんやりとする。なぜかとても温かく心地よい。理由がわからず身じろげばかすかな笑い声。はっとしてようやくに理解する。
「ちょっと大和君!」
胸元に寄り添うよう眠っていたのだと思えば到底平静ではいられない。そんな安曇を大和はわざとらしく抱きすくめた。
「抱き枕っすね」
ちょうどいい大きさだ、嘯かれて安曇は声もなく呆れ、だが同時に微笑ましくも感じる。
「誰が抱き枕だ」
うなされる自分を案じてくれた大和の心がありがたかった。学生たちとは一定の距離があるというのに、ほんの数日。大和はこうして懐に飛び込んできた。
「んー。じゃあ?」
ひょい、と体を動かされてからそれと知る。呆気にとられている間に天井を見上げていた。見れば大和が自分の上でにやにや笑い。
「もう、君は!」
両手をなんとか動かして大和へと伸ばす。面白そうな顔をした大和の両頬、ぱちん、と痛そうな音を立てて挟んでいた。
「こういうことは彼女にしなさい」
にっと笑って体の下から抜け出した。どことなく、気恥ずかしい。けれど大和がそうしてくれた心遣い、と安曇は察している。恐怖に怯えた自分を笑い飛ばせるように、と。朝からからかってくれた大和だと。
すらりと立ち上がり、安曇はさっさと朝食の支度でもしようと部屋を出る。その間際。まだ布団の上に胡座をかいた大和を肩越しに振り返った。
「ありがと、大和君」
あえかに微笑んで安曇は出て行ってしまった。大和の頬にかっと血の色が浮かぶ。一人、顔を覆って身悶えた彼と安曇は知らない。
長田がいるときには朝食は安曇の担当だ、と彼は言った。慣れているせいか手早いもの。簡単で悪いね、言いながら出てきたのはトーストと目玉焼きにコーヒー。充分な朝食だった。
「大和君、コーヒーは何か入れる?」
「ブラックです」
「そっか」
「安曇さんは?」
「カフェオレが好きなんだけど、牛乳切らしちゃったんだよね」
残念だ、と首を振る安曇の顔色は優れない。なにも先ほどの冗談を気にしているわけではないだろう。大和の眼差しに安曇は肩をすくめた。
「夢」
「はい?」
「夢、見たんだよ」
それに大和の顔色が変わる。よもや安曇まで福島と同じなのかと。しかし安曇はまたも首を振る。
「違う、かな……。確かに見た夢は福島君と似てる、感じはするかな」
それでも違うと思う、安曇は小さく微笑んだ。無理をしたような笑みに大和は眉を顰め、話せるなら言ってしまった方がいいのでは、と持ちかける。
「聞いて気分のいい話じゃないよ?」
言いながら安曇は夢の話をしてくれた。彼が言うとおり、それは福島の夢と似て非なるもの。
「たぶんね、昨日の本のこともあるし。福島君の夢に影響されちゃったんじゃないかな、と思う」
海の夢だと安曇は言っていた。南洋の暖かな海だとわかるのが不思議だったと。鮮やかな青の澄んだ輝き。見上げればどこまでも続く青い光。海底から見上げているのだと直感したと言う。
「身寄りがない僕が言うのも変だけど、懐かしいような、そんな気がする海だった」
「もしかしたら海辺の生まれなのかも?」
「どうだろうね。全然覚えてないから、わからないな」
夢は続く。福島の夢のような神殿も見たと。たぶんきっと福島はこのような神殿を見たのだろうと安曇は感じたらしい。荘厳な建築様式だった。ただ、揺れ動く水のせいか、ひどく歪んだり屈折してはならない場所が曲がっていたりと感覚的に訴えてかけてくるものはあった。
「怖い、とも違う、かなぁ」
「なんです、それ?」
「あの本はさ、大和君も感じたでしょ? 持ってるだけでぞわぞわしなかった?」
「しましたね。正直こうやって朝の光の中で話しててもぞっとします」
「うん、わかる。ほら」
そう言って差し出した安曇の腕、粟立っていた。気持ちはよくわかる、どころか大和もまた悪寒を覚えている。二人、顔を見合わせてうなずきあった。
「でも、そんな感じとも違うんだよ。悍ましい……うん、それは近いか。いや……なんて言えばいいかなぁ。宗教学的に言う『おそれ』の感覚はこれかな、と思った」
「おそれ?」
「聖なるもの、というと善であるという予断が入るからね、神的なもの、神性であるものに対する恐怖と憧れの相反する感情、と定義すればいいかな」
要は神さまに対してひれ伏したくなるような思いだ、安曇は笑う。要約しすぎのきらいはあったけれど、まだ研究室に入って日の浅い大和にはわかりやすかった。
「んー、たとえばですけど、安曇さんいま聖なるものは必ずしも善じゃないって言ったわけですよね?」
「そりゃそうじゃん」
「はい?」
「人間にとって善であるってどういうこと? 心の問題であったり現世利益だったりを解決してくれるもの、と定義すればいいんじゃないかな」
「だと、思います」
「じゃあね、祟り神はどう?」
「あ……」
「世界中にそういう神話はあるでしょ。二元論的神話を持ち出すまでもない。それでも、祟っても悪とされても神は神なんだよ」
なるほど、と大和は納得していた。面白い、率直に感じているのが安曇にも伝わっているのだろう、ほころんだ口許が嬉しげ。
二人して、言わなかった。昨夜翻訳したあの本に書かれていたこと。あれもまた神なる存在なのだと。確信しているからこそ、口にしたくない。学問上のことではない、いま正に福島が当事者となっている現象。
――呪い、か。
安曇は共通理解の中にあれば呪いは発動する、と言っていたけれど福島はどうなのだろう。長田から借りた彫像はポリネシアのものと福島は言っていた。福島にそちらの文化背景があったとは大和はおろか安曇だとて知らない。ならば共通理解のそれは関係しないことにならないか。朝だというのに、首筋に冷たいものを感じる大和だった。
「あの本、持ってた方がいいよねぇ」
福島に見せた方が話が早いだろう、安曇はそう言いつつ気が乗らなそうでもある。触れただけで覚えた感覚を再度味わうかと思えば嫌がっても無理はない。
「俺が持ちますよ」
「と、いうわけにもいかないじゃん。教授の蔵書だからね」
長い溜息をついて安曇は鞄に本とメモをしまった。よほど触りたくないのだろう、ハンカチ越しに本を掴む安曇を笑う気にはなれない。
「あ、安曇さん。コンビニ寄って」
長田の自宅から大学へ。安曇の車で送ってもらえるのはありがたい、大和はおおらかに言う。ありがたいのは自分だ、安曇は内心に呟く。平然としていてくれること、日常であると示してくれること。大和にそのような意識はないのかもしれないけれど、それで本心から助かっていた。
「なんだ、朝ごはん足らなかったの?」
「違います。昼まで持たないだけ」
「それを足らないって言うんでしょ!」
言えば増やしてあげたのに、ぼやく安曇に大和は微笑む。そうではなかったのだけれど食べる量が違うと感覚もまた違うらしい。
「はい、安曇さん」
運転に戻ってからだった。なにかごそごそとやっているな、と思った安曇だったけれど、知らず笑う。カップホルダーにはカフェオレ。
「ほんと、君は」
「ん? 変です?」
「別に。ありがと」
小さく笑って冷たいそれを口にした。甘いカフェオレは大和の気持ちのように心慰めてくれた。
それも、大学に到着するまでだった。
「福島君は?」
普段ならば早々に出てきているはずの彼の姿が見えない。図書館か、と学生たちに聞いたけれど今日はまだ見ていないと首を振られた。
「気に、なるよね」
そっと大和に囁けば固いうなずきが返ってくる。彼もまた深刻だと捉えた様子に安曇は眉根を寄せる。鞄の中の本を意識した。
そこに学会先から大学に直接戻ってきた長田がやってくる。同行した院生と楽しげに会話しつつ。どうやら学会は充足したものだったらしい。
「おや?」
けれど長田もまた、福島の不在にすぐさま気づいた。学生が一人休んだからと言って気にかける教授ばかりではないというのに。不遇だった安曇に手を差し伸べた男らしい気配りだ、と大和は見ていた。
「まだ、来ていないみたいなんです」
「そうか……。福島はどうも体調が優れなかっただろう?」
「と、聞いています」
「研究に熱が入るのはいいのだけれど、彼は熱心すぎるからなぁ」
そこが困ったところだ、長田は肩をすくめる。咎める筋合いではないけれど、教え子の体調は不安だと。そんな教授を学生がくすくすと笑う。
「普通は勉強しろって小言言うもんじゃないですか?」
「諸君は大変に優秀で私が発破をかけるまでもないのでね」
大仰な言い振りに藪蛇だったと身を縮める学生もちらほら。健全で闊達な研究室だと大和は口許を緩めていた。こんな環境であるからこそ、編入してきてもすぐさま受け入れられたのだろう。
「伊藤、君は福島と仲がよかっただろう? ちょっと電話かけてみてくれないか」
もし具合が悪いのならば一人暮らしの福島だ、手伝いがいると長田は言う。アパート暮らしの学生たちはそうして長田の促しに助けられたことが何度もあった、と大和に教えてくれた。
「うーん、出ませんね」
「出ない?」
「寝てるのかなぁ」
首をひねる学生に長田は時間をおいて連絡を続けてくれ、と真剣な表情。万が一のことがあったら大変だ、との懸念にあふれていた。しかし、何時間経っても福島に連絡はつかなかった。
「安曇君。ちょっと――」
呼ばれた安曇はもう内容がわかっているようなもの。厳しい顔をした安曇に長田は微笑む、まるでそんな顔をしていては学生が不安になるだろうとたしなめられた気分で安曇はかすかに頬を赤らめる。
「若い子だからな、風邪で寝続けているなんてことだとは思うんだが。念のためだ、見に行ってやってくれるかい?」
「わかりました」
「私の歳になると寝るのが一番とわかってても起きちゃうんだよなぁ」
ぼやく長田に研究室内が笑いに包まれる。長田の人徳だろう、落ち着きのなかった学生がほっとした気配。
「行けばさすがに起きるだろうからね、頼むよ」
くすりと笑った長田だった。もうそろそろ昼をまわる。安曇も心配でならなかった。鞄を取り上げ動こうとしたとき、大和と目が合う。
「もし福島さんの具合がよくなかったら安曇さん一人じゃ手が足らないかもでしょ? 俺も行きますよ」
「……そうしてくれる? ありがとう」
「ういっす」
気軽に席を立つ大和にしっかり手伝えよ、と学生たちの揶揄する声。当然だろうと胸を張る大和に再び笑い声が。安曇だけしか知らなかった。彼だけが本当に安堵している。大和が共に行くと言ってくれて、言い知れぬ不安を一人で抱えずともよいのだと。
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