第8話


「出ないね……」

 鳴らし続けたインターフォン。福島は不在なのではないか。そうであればいい、そんな希望がありはするけれど縋れはしない。

「管理人さんとか、いないっすよね」

「いないんじゃないかなぁ」

 ごく一般的な小規模アパートだった。さして古くもないそれは管理人が居住している期待ができない。大和が少し待っていてくれ、そう言っては姿を消し、ほどなく戻る。

「不動産屋の看板あったんで、電話してみました」

 にっと親指を立てた顔に安曇は息をつく。正直に言って大和がいなければどうしていいかわからなかっただろう。

「なんて言ってた?」

「大学の先輩と連絡がつかない、病気かもしれないって言っておきました。そしたらやっぱ」

 疑われた、と大和は笑う。胡散臭いにもほどがある、と思われたらしい。が、万が一にも真実であった場合の責任問題を考えたのか、担当者がこちらに向かってくれる、と大和は肩をすくめた。

「嫌な話だなぁ、もう。こっちは真剣なのに」

「何があるかわからない世の中ですからねぇ。新手の詐欺とかかと思われたのかも」

「それはそれで腹立つなぁ」

 いまにも福島に何か重大なことが起こっているかもしれないというのに。だが安曇も社会人として、わからない話でもないと溜息をついてすませた。

 そうこうしているうちに車が停まる音がして、壮年の男性がやってくる。大和はそちらに向けて手をあげた。

「大原不動産さん?」

「あなたが――」

「ご連絡申し上げました都津上大学三年生、小林大和です。こちらは所属研究室の助手で安曇和希」

「安曇です」

「はぁ、高橋です。それで、学生さんと連絡がつかないとか」

 大学生など遊び歩いているものだろうと言わんばかりの高橋に安曇は目を眇める。安曇の認識では、少なくとも長田研究室の学生にそのようなことはない。むしろそんな暇はない。

「福島はいま卒論の大切な時期です。研究に没頭して体調を崩してもいました。教授もご存知で、心配されています」

 だから自分たちがここにいるのだ、と安曇は彼にしてはきつい口調でそう言った。不動産屋は大学教授も知っての話なのかといささか慌てた様子。それを目にした大和が肩をすくめた。

「呼ばれたんですよね?」

 マスターキーと思しきものを手に、けれどまだためらう男に安曇は数時間に及ぶ電話連絡と、こうして直接赴いてインターフォンを鳴らし続けた事実を淡々と告げる。それでようやく決心がついたのだろう不動産屋が鍵を開けた。漂いくるつんとした臭い。

「福島君、いるかい?」

「福島さん、大和っす。大丈夫ですか」

 口々に言って部屋を覗き込んだ。学生が暮らすアパートらしくワンルームと言えば聞こえはいい、とでも言うしかない狭い部屋だった。その中央。

「福島君!」

 悲鳴じみた声をあげ、安曇が駆け込む。体を丸めるようにして福島が倒れていた。

「うわ……」

 学生の悪戯ではなく本当に急病人だった、と驚いた不動産屋を放り出し大和もまた彼の元へと。安曇に揺り動かされた福島はかすかに呻く。

 ――息がある。

 そう感じたことで大和はぞっとしていた。まるで死体のようだった福島。土気色になった顔、口許には泡になった唾液が付着していた。

「きゅ、救急車、呼びましょうかね……?」

 恐る恐る顔だけ覗かせた男を大和は振り返る。頼もうと思った瞬間だった。福島が悲鳴をあげたのは。

「嫌だ! 安曇さん? 大和、お前、大和か!?」

「うい、大和っすよ」

「頼む、頼むよ。病院なんかじゃだめだ。病気なんかじゃないんだ! 俺は」

「福島君、ほら。お水。飲んでごらん、君が嫌なことはしない、約束する」

「安曇さん……」

 コップを受け取る手が震えていた。飛び起きたままの体を大和が支えてやらなければ起きてなどいられなかっただろうほど衰弱した福島。あり得ない、二人して眼差しをかわす。

「えーと、救急車は」

「とりあえず、我々が彼の知人だとはわかってもらえましたよね? でしたら、あとはこちらでしますから」

「あー、はい。では」

 悶着はごめんだとばかり帰っていく不動産屋など安曇は見てもいなかった。福島の唇からこぼれた水を拭ってやる。それには涙を流さんばかりの福島だった。

「福島さん、着替えとかどこです? って、勝手に見ていい?」

 曖昧な返答は理解ができていないせいかもしれない、感じはしたけれど返事があったのを幸いと大和は着替えを見つけ出しては安曇に渡す。福島は吐瀉したのだろう、服が汚れている。部屋の臭いの原因はそれに違いない。甲斐甲斐しく着替えさせる安曇に福島はされるまま。じっと彼を見つめる目には縋るような色。その間に大和は窓を開けては空気を入れ替える。ずいぶんとさっぱりした気分になった。

「まったく、具合悪かったなら電話すればよかったんだよ」

 たぶんきっと、そんなことではない。理解しつつ安曇は微笑んでそう言うしかなかった。薄い布団の上に横たわった福島の力ない体。痙攣するよう笑っていた。

「安曇さん、ちょっと」

「大和、待ってくれ。帰ったりしないよな。頼む帰ったり」

「大丈夫大丈夫、帰りませんって。つか、こんな福島さん置いて帰れないっしょ。教授が心配してたから、連絡しようかと」

 それで安曇と相談したいのだ、大和は朗らかに笑って見せた。彼の表情に息を吐き、福島は再びぐったりと布団に丸くなる。

「なんて言います?」

 玄関を半ば開けたままの外だった。二人は確信している。原因はあの彫像なのだと。だからこそ、長田にどう伝えればいいのか。

「だよね……」

 安曇の長い溜息だった。件の彫像は長田が福島に貸し与えたもの。それが原因ですとは言いにくい。まして研究を志している福島がそれによって体調を崩したなど。

「とりあえず、具合悪いとだけ言います?」

「それがいい、かな。なんだか騙すみたいであんまり気分よくないけど」

「気にしなくて平気ですよ、電話するのは俺ですし」

「そういう問題じゃないでしょ」

 かすかに笑って安曇は大和の肩に手を置く、そのまま額まで預けた。よほど不安が募っているらしい。一度軽く彼の背を叩き、大和はにっと笑って見せる。大丈夫だと請け合うように。根拠などない笑顔にそれでも安曇は笑みを見せた。

 憔悴した福島の少なくとも肉体は回復させねば、と長田に連絡したあと大和は買い物をしてくる、と告げる。ありがたい、と彼を見た福島の澄んだ目が大和の背筋を凍らせた。

 とても固形物を受け付けるような状態ではない福島だった。コンビニで買ってきたゼリー状の栄養飲料をなんとか飲み下している。二人はその傍らでおにぎりを腹に入れた。正に摂取と言いたくなる機械的な食事。唇を噛み締めた安曇の表情にこそ、大和は懸念があった。

「安曇さん、大和」

「うん?」

「怖い……。すげぇ怖い。俺、どうなるんだろう。どうしよう、怖い。怖いよぅ」

 だらだらと口からゼリーがこぼれた。拭ってやる安曇にも言葉はない。ぎゅっと大和がその手を取る。二人が何も言えないうちに福島は話し出した。

「夢なんだよ、やっぱり夢なんだよ。なのに、なんでだよ。どっちが夢だ? 俺はどこにいるんだ。海の中にいる俺が本当の俺でいま安曇さんと大和がいる夢を見てんのかどっちだわかんねぇ夢だよな夢なんだよでもどっちが」

 ぽん、と軽い音がして福島が目を瞬く、ごめんねと眉を下げた大和が彼の頬を叩いていた。

「俺はここにいて、安曇さんもここにいて、福島さんは目が覚めてる。オッケーです?」

「あ、あぁ。そう、だよな……うん。これが、現実だよな」

 けれど海の夢はあまりにも実在感がありすぎるのだと福島は言う。神殿の形ははじめに見たときより更にくっきりと鮮明に見えはじめたと。

「そりゃ毎晩見てりゃ鮮明にもなりますって。人間の脳みその補完能力舐めちゃダメっすよー?」

 茶化す大和を和やかな眼差しで福島は見ていた。そうではないとわかってはいるけれど心遣いには感謝する、そんな笑み。安曇は狂乱に乱れた福島の髪を子供にするよう直してやった。

 福島の語る夢の話を聞きながら、大和はあの彫像を探している。よもやと思うがまだ所持しているのでは、と。そして我が目を疑いたくなった。枕元にわだかまっていたタオルの中、彫像の影。見たくはない、けれど遠くには置けない、そんな福島の心を察知した大和こそ寒気が止まらない。

「やめろ!!」

 汚れ物は洗濯に、とでもいうようなさりげなさで大和がタオルを取り上げようとした途端だった、福島が声を荒らげたのは。タオルごと彫像を掴んで離さない。驚いた、そんな顔を作った大和に彼は疑わしげ。

「これは、俺のだ」

 そのまま胸の中へと抱き込んで福島は唇を噛んでいた。見れば唇も指も体も、震えている。噛んでいなければ叫び出す自分と心得ているのかもしれない。

 二人は福島を案じて彼の部屋に泊まった。雑魚寝だね、笑う安曇に嬉しげな福島の目。大和にも同じ目を向け彼の手を握る。反対の手を握った安曇に微笑んで福島は眠った。衰弱に耐えかねたかのような眠り。二人は言葉もかわさず起きていた。苦しげな福島の寝息を窺い、呼吸をしている間は生きている、そんなことを思いながら。

 朝まだき。飛び起きた福島の両手はまだ二人に繋がれたまま。悲鳴がひどくくぐもっていて、だがしかし違う。彼は溺れていた。アパートの部屋の中で。自分の布団の上で。

「ぐ……ぁ、は。しん、でん。だ。見える……黒い、神殿だ。行かなきゃ、安曇さん……大和、俺――」

「福島君!」

「返さなきゃ、これ返しに、行かなきゃ――げ、ごぅふ……っ!」

「しっかり、福島さん、夢だ、夢だよ!」

 だがしかし、それに彼が答えることはなかった。彫像を握りしめたまま福島は天井を睨み据え、ぐりんとその目が反転してはだらりと布団の上に倒れ伏す。そして、起き上がらなかった、息をすることもなかった。

「ふ、く。しま、くん……?」

 彼の手を握ったまま、安曇は呆然と呟くようその名を呼び続けた。体を揺すり何度となく。

「安曇さん」

 滂沱と零れる涙にも気づいていない様子の彼を見ていられなくて抱きしめた。途端にあがる悲痛というも生温い叫び。狂ったよう泣き叫ぶ安曇を慰める術とてなかった。


 大学の中庭だった。市民の憩いの場でもあるそこに背中合わせのベンチがひとつ。鳩に餌をやる男と書籍に視線を据えた男と。

「どうですか、様子は」

 ぱっと飛び立つ鳩に目を細めた男が口を開いたとは見えなかった。背後に座る男が答えたようにも。

「該当人物に間違いはありません」

「そう、ですか。報告をお願いします」

「福島正則は過度の疲労による急性心筋梗塞ということで処理しました。救急、所轄警察共に対処済みです」

「結構です。続けてください」

 何事もなかったかのよう本を閉じ、男は立ち去る。一人の学生が死んだ大学。変わった様子もない都津上大学だった。




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