黄色の歌

第1話




 福島の葬儀は郷里で営まれた。一人息子の早すぎる死に泣き暮れる母と呆然と座す父の姿が瞼に焼き付いてたまらなかった。安曇は大和共々四十九日の法要まで参列させてもらった。最期を看取ったものとして、それがせめてもだと。

「お母さんにさ」

 ぽつん、と安曇は言ったものだった。

「安曇さん」

「お母さんに、どうしてすぐ救急車を呼んでくれなかったって、責められたじゃん。あれ、逆に、なんて言えばいいんだろうね」

「責められる筋合いじゃないって言うんです」

「――そうだね、少しほっとした。それが、正しいかな」

 大和の声など聞こえていないよう安曇は続けた。そのかすかな笑みが彼の被った衝撃を無言で語る。頼ってくれたのに、何もできなかった。何かできたかもしれない、部屋に踏み込んだときに病院に連れて行くべきだったのか。迷わない日はなかった。

「安曇さんは、できることをしたと俺は、思います」

「でも――」

「あのね、安曇さん。冷たい言い方になりますけど。悪夢を見るって病院駆け込んで、医者が何してくれるんですか」

 大和の言うとおりだろう。安曇にもそれは、わかっているつもりだった。そんな彼に大和は思う。安曇がしているのは後悔なのだと。

 ――俺ですら、気に病んでる。

 内心に小さく大和は呟く。安曇に言うことはない。それでも大和にとっても痛い事件だった。

 あれ以来、長田研究室は沈みがち。時折わっと騒いだかと思うと空虚な笑い声に変わったりする。みながみな、多少の差異はあれども福島の死に打撃を受けていた。

「こんなことじゃいかん。福島も気にするだろう。あれは研究を楽しむ男だった。そうだな?」

 ぐるりと室内を見回す長田にも疲労の影。あのようなことがあって、安曇についでつらい思いをしたのは教授なのかもしれない、はたと学生たちが顔を上げた。

「だからな、福島ができなかった研究を諸君は楽しまなくては。さぁ、元気を出していこうじゃないか」

 ぽん、と手を叩く長田につられたよう学生が立ち上がる。あるものは図書館へ、あるものは遺物の保管庫へ。無理やりに、渋々に。それでも、そうやって日常に返っていく。

「安曇さん。ちょっと基本のおさらい、手伝って欲しくて。お願いできます?」

 大和の眉を下げた困り顔に安曇の口許が緩む。わかったよ、仄かに微笑んで安曇は大和の元へと。だが大和は周囲を見回す。

「んー、図書館で本借りて、それで教えてもらってもいいですか?」

「別にかまわないよ」

 編入組の大和だ。都津上大学の流儀とはいささか違う勉強をしてきたのか、長田のやり方が飲み込めないこともある様子。そんな彼を長田こそが気遣っては安曇に「しっかり面倒見てやってくれ」と笑っていた。

「行こうか」

「うい、よろしくお願いします!」

「あぁ、大和。ちょっといいか」

 部屋を出る間際、長田に呼び止められた大和は振り返る。その耳元に長田は小声で言う。

「安曇君はまだずいぶんつらいようだ。君とはうまくいっているからな、頼むよ」

 それだけで彼はにこりと笑って離れていった。大和もまた目顔で任せてくれと微笑み返す。

「教授に何か言われたの?」

「なんでもないですよ」

「……ふぅん?」

「教授は安曇さんが心配なんだな、と」

「そっか」

 構内を歩きながら、安曇はまだ沈んでいた。これではならない、わかっていても福島の末期の顔が思い浮かぶのだろう。大和もまだ、夢に見る。彼の気持ちはよくわかった。

「それで、どの辺りが聞きたいの」

「で。ご相談なんですが」

 図書館を目前にして大和の眼差しが変わった気がして安曇は彼を見上げる。勘違いではなかった。ひどく真剣な目をしていて、知らず息を飲む。

「話してても怒られなくて、しかも話を聞かれない場所。ないですかね」

 それで、復習がしたいのではない、と安曇は察した。研究室であのように言った理由はわからない。否、そう思った瞬間に理解した。

「自習室に行こう」

 図書館の一角に、個室になった自習スペースが設けられていた。席を詰めれば二人で話すこともできるだろう。大和もすでに何度も利用している便利な場所だった。

 具合のいいことに、自習室はほとんど空いている。隣から椅子を引っ張ってきては扉を閉める。途端に静けさが満ちた。

「大和君」

「はい?」

「ノートくらい開いておいて」

 あ、と口を開けて大和は慌ててノートを取り出す。さっさと話し出そうとしていた自分が恥ずかしいとばかり頬を赤らめていた。うぶな態度に安曇はふと息をつく。ずいぶんと疲れているな、それに感じていた。

「それで?」

 福島のことだろう、安曇から水を向ければ申し訳なさそうな顔をした大和だった。気にしなくていい、安曇は首を振る。いずれすぐさま忘れられるようなことでもなかった。

「安曇さん、あの晩。本の解読しましたよね」

「解読っていうか、翻訳ね」

「その本、どうしました?」

 狭い自習室の中、肩を寄せ合い小声で言葉をかわす。外には聞こえない。それでも不思議と声は低かった。

「……まだ、僕が持ってる」

「そう、でしたか」

「なんで?」

「正直いい印象がないんですよ、あの本」

「僕もだよ」

 だからこそ、目の届くところに置いておきたかったのだといまにして安曇は気づく。自室の本棚の奥、視界に入らない場所に突っ込んだあの題名のない本。

「……疑問がね、あるんだよ」

「なんです。ってか、俺もあるんですけど」

「大和君からでいいよ」

 安曇さんからで。お互いにそれを三度も繰り返しただろうか。目を見合わせ、言いにくい、あるいは口にしたくないことだと確かめ合うかのよう。

「福島君に教授が貸した彫像が、原因だったと、僕は思ってる」

 信じがたいけれど、おそらくはそうなのだろうと。意味も理由もわからない。だが福島の死に様を見るにそうとしか思えないではないか。

「あの本にも、あったじゃん? どんな夢を見て、どうなるか。神話が現出したのかと思うと気が違いそうになるけどさ」

 肩をすくめ、いかにも軽い口調で安曇は言った。そのぶん彼が真剣に恐れているのが伝わってくる。

「教授はあの本を持ってて、彫像も持ってて。なんで福島さんに貸したんですかね」

「……そこ、なんだよね」

 あの日から安曇につきまとって離れない、それは疑問だった。何度となく考え、そして否定する。いまもだった。

「あれだけの蔵書量だからね。教授だって全部に目を通しているわけじゃない。だからきっと、ご存知なかったんだと、僕は思う」

「でも安曇さんはそれを信じてない」

「大和君!」

 しっと悪戯っぽい指が安曇の唇の前。微笑む大和でなかったら、安曇は席を立ったかもしれない。唇を噛めばちょんと触れてきた指先。驚いて力を緩める。

「血が出ちゃいますよ、そんなにすると」

「でも」

「疑いたくない気持ちは俺だって一緒なんです。でも、福島さんのこと考えると、やっぱ気になって」

 すみません、大和は詫びていた。安曇は黙って首を振る。大和が疑いたくない以上に、それより遥かに安曇は長田を信じたかった。何ひとつ持っていなかった自分にこんなにもたくさんのものを与えてくれた長田。忙しい人だったから優しい家庭の匂いなど経験はない。けれど、何くれとなく気をつけてくれた。なんの不自由もないよう、好きにさせてくれた。学問は楽しいだろう、自分こそが一番楽しんでいる顔で言っていた長田を思い起こす。

「教授はさ、あの彫像だって、もう手元に置きたくないって」

「どうしたんです?」

「然るべき所に預けたってさ」

 宗教的遺物であるのは、安曇と大和が体験してしまったことからも明らかだった。研究すれば、もしかしたら新発見だとてあるかもしれない。それでも長田は手放すことを選んだ、と安曇は言う。

 ――然るべき所、か。

 それはいったいどこで、本当に安全なのか。心の中、大和は呟く。嫌な予感がすると言えば安曇は笑うだろうか。だが、それが大和の本心でもあった。

「――本当はあれが何で、福島君に何が起こったのか。知りたい気持ちはあるんだ」

「やめた方がいいです」

「即答するね?」

「こんなこと言うと怒るかもですけど。……俺は、安曇さんに何かあってほしくない」

 真っ直ぐと安曇の目を見て言う大和だった。それには言葉もなく安曇も彼を見返す。しばしののち、小さく笑った。しかし、そのまま安曇は大和の肩先に額を預ける。

 ――あのときと。

 同じだと思ってしまって大和はぞくりとする。福島の部屋の前、相談していたときにも見せた安曇の心許ない仕種。大和は黙って安曇の背を抱く。かすかな嗚咽が聞こえた。

「安曇さん。――別に返事はしなくていいです、聞いててください」

 肩にしっとりとした熱を感じた。はじめて頼られたと嬉しげだった安曇。力になれなかったと悔いるばかりだったに違いない。

「教授と、福島さんの話とか、しないですよね。してるっぽくないですし。あれから安曇さん、泣いてなかったでしょ」

 福島の亡骸を前に狂乱するよう泣いていた安曇だというのに。きっと安曇はあれから一度も泣いていない、否、泣けなかったのではないか。

「教授は安曇さんにとって恩人さんでしょ。だから素直に甘えたりとかもしにくいのかもとか、思うんですよ」

「……ん」

「だからね、安曇さん」

 なだめるよう抱いていた片腕。大和は静かにもう一方の腕も伸ばして安曇を包む。温かなそれに安曇が意味もなくうなずいた。

「頼ってください。一緒にあの場にいた俺にしか、言えないこともあるかな、と思いますし」

 二人で共に恐ろしい思いをしたではないか。仄めかす大和に今度こそ安曇ははっきりとうなずく。本当を言うならば、いまでも怖い。こうしていてくれる大和にどれほど心慰められていることか。

「ごめん、大和君」

「なにがです?」

「頼りないよね、頼ってよって言うのは僕の方のはずなのにさ」

「ま。その辺は」

「どういう意味さ」

 くすりと笑って安曇は顔をあげた。まだ睫毛に残る涙を見てしまって大和はわずかに動揺する。泣いている、わかっていたけれど、こんな顔をしていたとは。知らず指で名残の涙を拭えばかっと赤くなる安曇。その表情に大和こそ照れたくなってそっぽを向いた。




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