第2話


 大和が講義の間、安曇は様々な用事を片付けている。自分の研究はもちろんのこと、研究室の仕事、言ってみれば長田の身の回りのことをしていたりもする。いわば秘書役でもあった。

「学内会議の日程が出ました。ご参加になるのは――」

 社会学、哲学、考古学等の人文学部の会議だ。安曇は言う。それに長田はさも嫌そうな顔をしては肩をすくめた。会議など面倒でしかも生産性がない、と嫌っているのだけれど中々に出席しないというわけにもいかない。

「あと、県内公立大の交流会がありますが出欠のメール、出されました?」

「すまん。まだだった」

「あちらの幹事がそれとなく困ったと言って来たのでお願いします」

「あーわかったわかった」

 投げやりな長田に研究室はくすくす笑い。教授の言葉が染みたのか、少しずつ平静に戻りつつある学生たちだった。もっとも、いまいるのは院生ばかりで福島と同学年はいないからそのせいもあるのかもしれない。

「お。ちょうどいいときに来たな」

 安曇の小言から逃れられるとばかり長田が喜色をあらわにした。見れば講義を終えた学部生たち。奥の方から大和がちらりと微笑んできた。

「なんです?」

 何かいいものでもくれるんですか、冗談口を叩くのは伊藤。福島と仲のよかった男だった。あの苦しみを伊藤が見ずに済んだ、それが安曇はありがたいような気がしている。が、伊藤は伊藤で何もわからないうちに同級生が死んだ、と衝撃だった様子。まだ普段の調子に戻ったとは言いがたかった。

「いいものかどうかはわからんがなぁ」

 もらいものをしたのだ、と長田は机の引き出しから何かを取り出す。薄手の封筒であったから伊藤は少し残念そう。そんな彼を大和が笑う。

「お前いま笑っただろ!」

「伊藤さんがあんまりにもがっかりしてるから」

「いや、まぁ。な?」

「伊藤君はおいしいものとかの方がよかったり?」

「そりゃ食べ盛りですからねっ」

 ふんと鼻を鳴らした伊藤はあの場に安曇と大和がいた、と知っている。何があったのだ、と問い詰められて話してしまったのは安曇。聞かせてくれてよかった、ぽつんと呟いた伊藤を安曇は忘れ得ない。

「知人の知人の知人、くらいか? 要は伝手をたどって送ってきた、というところなんだが」

「なんです、それ?」

「演劇のチケットなんだよ。四枚あるからみなで行かないかね」

 なんだったら食事くらいは奢ってやろう。長田のそれに伊藤の顔が明るくなる。現金なやつだな、笑う長田の目は優しい。福島の件をどれほど気にかけているのか窺えて、安曇はほっと息をつく。

 大和と話したことを無視はできない。むしろ、大和は的を射ているのだと思う。長田の蔵書にあった例の本。彼が貸した彫像。疑う要素はいくらでもあるからこそ、信じたい安曇だ。

「わー。ずりぃぞ学部生」

「ここは可愛い後輩に譲るのが優しい先輩ってものです」

「俺は優しくなくていい。腹一杯食いたい」

「私の財布は君を満足させるほど豊かではないぞ……」

 研究室一の大食い院生が大和をからかうのにぼそりと長田は言う。研究室中が笑いに包まれた。それに安曇の眼差しは温か。

 ――ずっとこんな顔で見守ってきたんだろうな。

 福島を、他の学生たちを。院生のころから安曇はそうだった、福島はそう言っていたと大和は思い起こして切なくなった。

「あ、教授。どんな劇なんです?」

「なんだ大和は演劇に興味があったか」

「逆です。さっぱりなんで! だからせっかくだし予習して行きたいなぁ、と」

 真面目なやつだと院生たちの揶揄の声。けれど温もりのあるものだった。福島が死に、息苦しいほどだった研究室が大和がいるだけで空気が通る、そんな気がしていたのかもしれない。

「だったらこれを持って行くといい」

 そう言って長田は封筒の中からチラシを取り出しては大和へと手渡した。瞥見したところ、前衛的と言えばいいのだろうか。呟く大和以上に伊藤のなんとも言いがたい顔。

「俺の楽しみはメシになった」

 小声で言うのには安曇まで吹き出していて、それがよほど珍しかったのか伊藤は目を丸くする。それから彼の顔にも笑みが浮かんだ。

「では日程を空けておくようにな。詳細は――」

「セッティングします。大和君、あとでチラシ見せて」

「うい了解です」

 丸投げされても安曇はいつものこと、と済ませていた。自分が来るより前からこの研究室はこうだったのだろう。福島の影はまだあるけれど、できることならば一刻も早く元に戻ればいい、大和ですらそう感じていた。

 大和から見せてもらったチラシで安曇はさっさと予定を立ててしまった。さすがに手早い、大和たちが感嘆する暇もないほどに。

「車より電車の方がいいから、森林公園駅に集合。そこからはタクシーだね」

 教授が一緒だと移動が豪華だ、伊藤が喜ぶ。その後の食事が楽しみで仕方ない様子に安曇はほんのりと微笑んでいた。

「安曇さんさ」

「ん、なに?」

「大和きてからずいぶん変わったよね」

「そう、かなぁ」

 複数の院生たちからすでにそう言われている安曇だったけれど自覚はなかった。ただ、考えないでもない。大和と共にいると己が集団の中の異物であるという奇妙な感覚が薄れるのだと。あまりにも子供っぽい言い草で人に言ったことはない。

 ――大和君には、言ったか。

 それもやはり彼だからだ、そんな気がして安曇は曖昧に笑うのみ。助手の立場に慣れたからじゃないかなと誤魔化していた。


 大和は言ってみれば前衛的なチラシをためつ眇めつしている。図書館の一角だった。側には研究用の本が積んだまま。チラシの方が気にかかる様子。

「大和君?」

 そこに本を返却してきた安曇が通りがかる。見れば勉強している風でもなくて覗き込んだらチラシを見ていた大和でつい、声をかけてしまったと。

「んー。ほとんど他人とはいえ、教授に送ってくるようなチケットかなぁ」

 どうやら大和はそれが引っかかっているらしい。安曇はあまり疑問に思っていなかった。いったいなんの関係が、と首をひねるような手紙類はいくらでもある。それを言えば大和もそういうものか、と納得した風。

「大和君なにが気になるの?」

「そんな顔してました?」

「うん、してた」

 率直に言われては大和も苦笑するしかない。福島のことがあって以来神経質になっているとは感じているのだけれど、そう大和は呟く。

「安曇さん、自習室行きません?」

「だったらうちに来な。ご飯くらいだったら作ってあげる」

「でも」

「教授は今日は泊りがけで宴会だよ」

「はい?」

「正しくは懇親会、だけど。やってることは宴会だからね」

 どうせ出席しなかった教授の悪口大会だ、と長田はいつも言う。それでもそこでしか会えない同業もいるからと長田は比較的まめに出ている。

「やった。ご馳走さまっす」

 嬉しげに拳まで握って見せた大和に演技の匂いは嗅いでいる。それでもそうしてくれることがありがたかった。ほころぶ安曇の口許に大和もまた安堵する。

 まだ仕事が残っているから、という安曇だった。大和はそれまでに勉強を済ませてしまう。学業が疎かになっては目も当てられない。そう考える昨今珍しい学生だった。

「好き嫌いないって言ってたよね」

 前回と違って今回は帰りにスーパーに寄った。あり合わせよりはまともなものを作ってやろうとの心遣いに大和はにこりと笑う。

「好きなものはある?」

 それが嬉しくなった安曇は聞き方を変えた。どうせならば喜んでもらいたい。そう考えた自分に驚きを覚えた。はじめてかもしれない、そんな風に感じたのは。恩人の長田にすら、ここまでは感じていない。

 ――そうか。

 大和は他人のような気がしない、その理由に思い当たった。彼は長田とはまったく似ていない。けれど安曇にとっては長田もまた尊敬こそすれ、気の置けない相手でもある。長田とは言葉が通じるとでも言えばいいのか。

 ――大和君も。

 するすると会話が繋がっていく、その快感は他では得られないものだった。あるいは長田とすら。

「強いて言えば」

「量のあるもの?」

「さすが安曇さん」

 にっと笑った大和に安曇も笑う。福島が死んでまだ時間はそう経っていない。だからこそ笑うことに気が咎めていた。だが大和はあの場にいた。大和にとっても同じこと。二人でいるときだけは、本音が言えた、笑うこともできた、その快さ。

「だったら焼きそばでもする?」

「いいな。焼きそば好きっすよー」

「ついでにコロッケでも買ってさ、どう?」

「最高」

 口許で笑う大和から安曇は思わず目をそらす。そらしてから、それと気づいた。我ながら訝しいと内心に首をかしげた。快いのに気恥ずかしくて。

「安曇さん、多い多い!」

「え?」

「もやしが一キロは多いですって!」

「えー。焼きそばはもやしいっぱいの方がおいしいじゃん」

「俺、食う方だと思います。否定はしません。でも多いって!」

「じゃあ半分にして、キャベツ足すかな」

「なぜ足す!?」

「野菜食べないと大きくなれないよ?」

 悪戯っぽい安曇にわざとらしく大和は顎をあげ、彼を見下ろす。頭ひとつ分は小さな彼を。くすりと安曇が笑った。

 わいわいと長田の自宅で料理をした。以前ここで野菜炒めを作ったときは悍ましい本を見つけた。どちらからともなく、今夜もまた、そんな気がしていたのかもしれない。浮ついた賑やかさだった。

「ほら、やっぱ多いって言ったじゃないですか」

「いいじゃん、別に」

「安曇さんって野菜の方が好き?」

「そうでもないかなぁ。どっちもそこそこ、かな」

 テーブルの上に焼きそばを置けばどん、と音がする。皿の音ではないだろうと大和は笑っていた。しかも本当にコロッケまで買ってきた。

「いただきます!」

 具材たっぷりと言えばいいのか、そばより具が多い。もやしにキャベツ、豚肉がちょこっとに竹輪がたっぷり。濃いソースの匂いが漂って実に食欲をそそった。

「大和君マヨネーズいる?」

「いるいる。安曇さんも焼きそばにはマヨ派?」

「うん、あと鰹節とね」

「俺も」

 顔を見合わせにっと笑う。どことなく照れくさいような、あたたかなような不思議な感覚だった。あえて言えば居心地がいい。

「お手伝いさん来てくれてるって言ってたわりに安曇さん料理するんだ?」

「多少はね。夜食とかは自分でするって言わなかった?」

「……これは夜食の量じゃないっす」

「大和君がいるから増やしたの!」

 抗議する安曇の目許に和らぎを見た。あれ以来ようやくだ、大和はほっと息をつく思い。安曇には、あんな思いをもうさせたくはない。むしろさせてしまった後悔をしている大和と彼は知らない。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る