第3話


 満腹になって幸せだ、そんな顔をした大和に安曇は苦笑する。見え見えだぞ、と目顔で語れば苦い大和。溜息をつき、安曇の部屋へと移動した。

「それで、大和君?」

 長田に送られてきた例のチケットが大和は気になっているらしい。それも、不穏な方向に。安曇は気にしすぎ、とは言えない。あの福島の件さえなかったら笑っただろうに。

「チラシ、見てもらえます?」

 一度は見たチラシだった。たが安曇は言われたとおりじっくりと検分する。ふと大和が前衛的、と言ったのを思い出す。あれは長田の前だからこそ、言葉を慎んだのだといまにしてわかる。

「……なんだろ。変、だね」

「ですよね」

「なにがどうって言えないんだけど……」

「言えたらたぶん、こんな気分じゃないんだと思うんですよ」

「大和君どんな気分」

「逃げたい」

 小声でも呟くようでもなかった。顔をあげ、はっきりと安曇を見て彼は断言する。安曇もまたうなずいていた。あまりにも、同感すぎて言葉がない。

「安曇さん、ゲームします?」

「ちょっと遊ぶ程度かな」

「だったら、敵がめちゃくちゃ強くて絶対敵わないとか、あるじゃないですか」

「なのに、仇敵だったりね」

「それそれ。勝てない、なのに勝たなきゃいけない。そんな感じの……怖いじゃないな……」

「うん、わかる。言語化はできないけど、わかる」

 これは、自分の前にあってはならないもの。二人してそれを強く感じていた。同時に、感じることが恐ろしかった。なぜそのように感じるのかが、わからないとあればこそ。

 チラシには舞台の背景だろうか、イラストが描かれている。暗いどこかの風景。中世風だろうか、あるいは異世界風とも感じられるのはどことなくファンタジー調のせいかもしれない。

「現実感がないからそんな風に感じるのかな」

「それこそゲーム世界っぽい」

「あぁ、そうかも」

 言われてようやく気づいたよう安曇は劇のタイトルを探す。イラストに紛れて非常にわかりにくい場所に書いてあったのが訝しい。

「こういうのってもっと大きく書くものじゃない?」

「イラストの一部ってことかも?」

「どう、なんだろう。なんか、やっぱり」

「変、ですよねー」

 口許を引き締めた大和に安曇もうなずく。このようなものがなぜ長田の元に。大和の疑問を退ける気にはいまはもうなれそうにない。

「キング・イン・イエロー?」

「ちっちゃく黄衣の王って書いてありますね」

「日本語タイトルあるならはっきり書いてよ、面倒だなぁ」

「安曇さん英語得意でしょ」

「やらなきゃならないからやってるの。わざわざ日常生活で読みたくない!」

 その気持ちはよくわかる大和だった。大きくうなずいた彼のもっともらしげな顔に安曇はつい、笑みをこぼす。それでずいぶんと気が楽になった。

「あぁ、こっちが劇団の名前かな。――安曇さん、パソコンあります?」

「待ってて」

 そういえば台所に鞄は置いたままだった、と照れ笑いした安曇が戻るまでの間、大和はチラシをもう一度隈なく見る。やはり気分がよくない。

 ――悍ましいとも、違う。あってはならない何かが目の前にある。

 それをどう言い表せばいいのか。まして自分がそのように感じる理由となれば見当もつかなかった。

「はい、好きに使って」

 すでに鞄から取り出され、立ち上げられつつあるノートパソコンだった。ありがたく拝借し、大和はチラシを傍らに。共にモニタを覗き込もうというのだろう、安曇は大和の隣へと座り直した。

「イエローサブジェクツ?」

 立ち上がったパソコンで大和が検索したのはよくわからない単語だった。眉を寄せて安曇はチラシを見る。

「これか」

「うん、それが劇団の名前っぽいでしょ」

 検索にかければどんな劇団かわかるのではないか、大和はそう考えたらしい。そして彼の予想どおり、劇団サイトが引っかかる。

「変わった名前ですもんねぇ」

「だよね。劇団名から劇のタイトルも取ってるのかな」

「どうでしょうね。黄色い主題? 黄色い学部?」

 そもそもどういう意味なのだ、と大和は首をかしげていた。目新しい造語の可能性はあるけれど、劇のタイトルとリンクしていることを鑑みれば無意味とも思いがたい。

「それだと単数形で使わないかな」

「あー」

「かなり文語的な使い方だと思うけど……臣民、かな。黄色い臣民」

「それも意味不明ですけどね」

「だね」

 モニタを覗き、ふと寒気を覚えた。気温のせいではない。顔を見合わせ、小さく笑いあう。こうなると、わかっていた気がしていた。

「劇の方、見てみますね」

 劇団員の紹介ページはいまのところ必要ない。大和が公演紹介を開いた途端だった。

「安曇さん」

「ごめん、大丈夫」

「じゃないですよね?」

 安曇が腕を撫でさすっていた。見れば粟立った肌。服に隠された部分まで、否、全身がそうなっているに違いない。蒼白の安曇は唇を噛みしめ、そして大和の傍らに寄る。

「ごめん、邪魔だよね」

 身じろいだ大和に体を引きかけた安曇だった。違うと言う手間もかけず大和は片腕で彼の肩を抱く。ぽんぽん、と見もしないでなだめるよう叩いていた。

「ん……」

 ことんと寄り添った頭に飛び跳ねる寸前の大和だと安曇は気づいていないだろう。それどころではない、と言うべきか。素知らぬ顔をしつつ大和はページをスクロールする。

「わかった、これだ」

「なに?」

「ほら、劇のタイトルが黄衣の王だったじゃないですか」

「あぁ、そっか。黄衣の臣民、か」

「たぶん。それはそれで」

「意味不明」

 すくめた肩にいっそう大和に寄り添う安曇だった。もしかしたら、恐れているのかもしれない。大和とて、気味が悪いのだから。

「臣下が、王様のための劇ってことなのかな」

「筋書きありましたけど――読みたくねぇ」

「だよね。でもここまで来ると正直さ、読まないのも怖いよ、僕は」

「同感ですね」

 溜息をつきあってモニタに見入った。互いの温もりが支えだ、そんなことを思うほど腹の中がぞわぞわとする。背筋を百万の蛭が這い上がりそのすべてが凍りついているかのよう。

 舞台はカルコサという名の幻想の地。二つの月が昇る異界の都。荒涼とした大地に聳え立つ尖塔の数々。ハリ湖より現れ出でるは黄衣の王。

「そもそも黄衣の王って、なんなんですかね」

「ファンタジーにそれ言っても無駄じゃない?」

「だと、いいんですけどね」

「……だね」

 軽い驚きを覚え、安曇は自分の左腕を見やった。肩を抱いていた大和の手、ひどく冷たくてかすかに震えてすらいた。

「大和君」

 腕を外させるよりは、と安曇はむしろそのまま自分の手を重ねた。それで自分の有様を知ったのだろう大和の力ない笑み。重ねただけでは温まらない彼の手。

「安曇さんの手、冷たいですよ。平気?」

「それは僕が言いたい。大丈夫?」

「ま。なんとか」

 にっと笑って見せた大和だったけれど、到底信用しきれない顔だった。互いにぬくもりを求めるよう、側に寄る。重ねた手を離し、安曇は大和の背に腕をまわした。

「もうちょっと続けます」

「手伝うことあったら言って」

「了解」

 短い返答に安曇は小さく笑う。大和は温かかった。彼を温めているのか、自分が温められているのか。腕の中から大和のすることを見ているだけ、というのが申し訳ない。

「大和君、ちょっと離して」

「ん? 照れちゃいました?」

「そうじゃないでしょ!?」

 にやりとした大和にからかわれ、安曇にしては大きな声をあげての抗議。喉の奥で笑う大和はそれで幾分なりとも気力が蘇ったような。

 仄かに耳朶を染めた安曇は背後の本棚から一冊の本を取り出した。ついで辞書が二冊。その時点で嫌な予感がした大和だ。

「安曇さん……」

 どこか、ねめつけるような大和の声音に彼は肩をすくめるだけ。好きこのんで出してきたわけではない、福島を破滅させた神なる存在が記された本など。

「こっちはこっちでやるから、大和君は続けて」

「続けますけど! まず何する気ですか」

 それを言わない限りは本ごと取り上げるとの断固たる表明。安曇はほんのりと微笑んで険しい大和の口許をつつく。そしてそんな自分に驚いたような顔をした。

「もう、安曇さんー」

「いやだってさ。照れるじゃん」

「照れてるのって言ったら怒ったくせに」

「そりゃさぁ。僕だってさー」

「で。安曇さん?」

 誤魔化されないぞ、と覗き込んでくる大和に安曇は「見たんだよ」と小さく呟いた。

「は?」

「さっきのハリ湖。この本の中で読んだ気がする。っていうか、これくらいしか心当たりがない」

 最近読んだ記憶はある。断言を避けたのは大和の厳しい顔のせい。それは、あのあとも読んだのかと問い詰めていた。安曇は目をそらし、わずかにうなずく。

「安曇さ――」

「だってさ、なに書いてあるかわからない方が僕は怖い。もし、もし次があったとき。知ってたら――」

 福島には届かなかった手。次の誰かは助け得るかもしれない、その希望。あるからには読まずにいられなかった。

「とは言っても、ほとんど進んでない。言いまわしが面倒すぎて、進まないんだよ」

「わかりました。今後は手伝います」

「大和君」

「そんなもん、一人で解読しないように。――心配でしょ」

 ぼそりと呟かれた最後の言葉。ぱっと安曇の頬に熱が差す。それとなく視線を外したはずなのに大和には気づかれていて、知らず握った拳は汗ばんでいた。

「安曇さん」

 笑ったような、真顔のような。意図のわかりにくい大和の声に安曇は振り返らない。代わりに大和の手が頬に触れた。目を閉じた覚えもないのに、暗闇に触れる唇。闇の中でも怖くはなかった。

「あー、その。嫌じゃなかったです?」

「聞くな馬鹿」

「でした」

 照れくさげに頬をかいた大和に安曇は吹き出す。どちらからともなく寄り添って調べ物を再開した。




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