第4話


 軽やかにキーボードを打つ音がする。淀みのない音が大和の慣れを感じさせた。最近の学生はタブレットの方に慣れていてキーボードを打つのに手間取ることも多いだけに安曇は微笑ましく感じる。努力しているのだな、と。

「安曇さんて、こだわりない方です?」

 モニタを見ながらだったから、何を意図して言ったものか察することは容易かった。安曇は本に視線を落としたまま答える。

「強いて言うなら学問にしか興味がない方」

 付き合ったことがない、とは言わないけれど、さほど楽しいものではなかった。率直な安曇だった。それに大和がくすりと笑う。

「なんだよ」

「なんか安曇さんらしいなって」

「悪かったね」

「前にさ、言ってたじゃないですか。大勢の中にいると自分だけ異物みたいな気がするって」

 よく覚えていたな、と安曇は目を丸くしていた。思わずこぼしてしまったあの言葉。大和が鮮明に覚えていたとは夢にも思わなかった。

「俺はたぶん、違うんだろうな。とか」

「自惚れるな。馬鹿」

「なんだ。あってるんじゃないですか」

 機嫌のいい鳩のようだった、大和は。それには安曇も答えない。横目で見やった安曇の耳先、ほんのりと赤くなっていた。

「安曇さん、いい?」

 翻訳作業中の彼に断りを入れればかまわない、と視線をあげてくる。そのときにはもう安曇は真剣な目をしていた。そして大和が示した個所を読む。

「不穏さしか感じないね」

「ですね」

 より詳しいことを求め、大和が見つけたサイトは与太同然のオカルトサイトにしか見えない。だがしかし、そこには奇妙な真実味があった。

 そして、そこに記されていた黄衣の王の詳細。戯曲だという。原作はフランス語で書かれていたが発禁の上で上演禁止処置を取られたと。その後、英語版が出版されたのが一八九五年。原作に比べると簡略化されている、ともっともらしく書かれていた。

「オカルトサイトで見つけられるってのがもう、嫌な予感しかしないんですよね」

「……教授は、ご存知ないんだろうな。これ」

「お知らせします?」

「ん……」

 どうしよう、考えている風な安曇だった。以前の自分ならば、と彼は思う。なんの躊躇もなく長田に告げただろう。だが、いまここにある本が。膝に抱えた本が。

 ――教授は、この本を持っていらした。

 そして、彫像を福島に貸し与えた。あの結末を知っていたのではないか。疑いたくないのに、考えてしまう。無言で首を振り、大和から視線を外した彼はノートを差し出す。

「まだ、粗訳だけど」

 ざっと単語を書き出したに過ぎないノートだった。けれど、大和の顔色が変わる。確かにそこには劇に出てきた湖の名が。ハリ湖。大和は呟いてみる。ぞっとした。

「これ、あのときより……嫌な感じなんですよ」

「僕もだよ」

「絶対にあっちゃいけないものがある。そんな感じがするのが……気味悪い」

 単に恐ろしい、理由もわからず恐ろしい。それならばまだわかる。しかしこれは。

「なんだろうね、ほんと。気持ち悪い――」

 長い安曇の溜息だった。やるせなく首を振るのに大和はどうすることもできない己を悔いる。あのときのようなことはもう二度と安曇に味わって欲しくはないというのに。すでに引き返すこともできないほど、巻き込まれている感覚。逃げられない、ふと感じた。

「一応、劇団のより詳しい粗筋載ってますけど。見ます?」

「見た方がいいだろうね。ほんとさ、わけわかんない単語が多すぎて翻訳がしにくくて」

 ぼやくのは、少しでも明るい気分になりたいせいか。大和は目で笑い、モニタを見やすいよう体をどけて、代わりに安曇の肩に腕をまわす。ことん、と預けてくる頭の心地よさ。

 安曇のぬくもりに力づけられている自分だと、大和こそ理解していた。彼が読むのと同じよう、再度読み進める大和の顔色は悪い。

 英語版は黒の八つ折り版なのだとそれらしく記されてあった。その表紙には由来も意味も不明な奇妙な紋章が描かれている、と。不鮮明な、偽物としか思えない写真が掲載されていて、それなのに二人の背筋を冷やす。

 確かに紋章が見てとれた。歪んだ三つ巴、と言えば近いのだろう。だがしかし決してそのようなものではない。形そのものはそう複雑ではないのに、まるでこの世のものではないかの悍ましさ。

「作り物だとしたらたいしたもんだよね」

 呟き安曇は息を吐く。同感だ、うなずく大和の体温を感じていた。そうでなければ、粗筋を読む気にはなれなかっただろう。

 内容は意味のない夢にも似ている、という。鮮烈な泉のような、煌めく金剛石のような言葉、音楽。身を蕩かすようなそれは、だがあまりにも恐怖に満ちていると。上演禁止されたのはその内容の悍ましさもさることながら、精神に異常をきたす人間が続出したせい、サイトには記されていた。

「これってさ。劇団の煽りサイト?」

「と、思いたいですよね。炎上商法的な」

「大和君はそうは思ってないってことだよね、それ」

「安曇さんだって思ってないんでしょ」

 答えず。それが最大の返答。互いに感じている真実。この記述は嘘でないのだと。本当にあったことなのだと。大和はフランスでの詳細を調査しておこうと心に刻む。もっとも、間に合うか、間に合ったとして、何も起こらないのかどうかはまた別の問題だった。

「二つの月、か……」

 安曇が解読を続ける本にもその記述は確かにある。理性は否定するけれど、これは異世界、けれど現実にある世界。それなのに二つの月の出る世界。

「安曇さん」

 大和の腕に抱き寄せられて息をつく。膝の上の本が重たい。それは重量ではなく、恐怖の重み。投げ出したい、いますぐに。それなのに、できない。

 ――福島君。

 頼ってくれた。なのに何ひとつできなかった。臨終を看取ることしかできなかった。それを思えば今度こそは。そう思うのも無理はなかった。

「少し休憩しましょうよ」

 ずっと同じ姿勢だと疲れますよ、覗き込んできた大和の眼差し。安曇の口許が和らぐ。吸い寄せられるよう大和はくちづけていたけれど、安曇が拒むことはない。

「大和君てさ」

「なんです?」

「手慣れてるよね」

「はぁ!?」

「なんか、されるがままって感じなんだよね。別に嫌じゃないからね?」

 ふふ、と笑った安曇だった。大和に何を言わせるより先に立ち上がり茶を淹れに行ってしまう。残された大和はひとり、頭を抱えていた。

「もう、安曇さんは――」

 文句を言いつつ唇が緩んでいた。そのぶん強く思う。誓いの強さで思う。二度と再びあのような目には合わせないと。

 ――俺は。

 守りたいと思う。誓いも安曇も。守れる自信は微塵もなかった。

 安曇が淹れてくれたのは以前と同じほうじ茶。大和が好きだと言ったのを覚えていたのだろう。

「おせんべ食べる?」

「ほうじ茶に煎餅。完璧ですよね」

「揚げ煎の方が好きなんだけどさ。あれ体重の敵だよね」

「そういうの気にするんです? 太ってないじゃないすか」

「論文書きながらさ、ぽりぽりやってるとあっという間だよ!」

 机にかがみ込むようにしてパソコンと参考文献とを行き来する安曇が見える気がした。むつりと引き結んだ口許まで大和は見たと思う。知らず笑みが浮かんだ。

「大和君はがたいがいいからそういう心配ってしないでしょ」

「むしろ食わなきゃ持たない心配はしますね」

「その体じゃね」

「って言うほどでもないですよ?」

 本格的に鍛えているわけではない、大和は言うが安曇にはそうは見えない。フィールドワークをするとはいえ、基本は文系の学問だ。肉体的に優れている人間があまり周囲にいないせいかもしれない。

「さて、続けるか」

 長く細く息を吐き出し安曇は気合を入れ直す。そのまま喋っていては気力がなくなりそうだった。今度は大和が英語の辞書を担当する、と言ってくれたおかげで少しは楽ができた。

 とはいえ、さほど重要と思えることはもうあまりない。劇に出てくるらしい黄衣の王なる登場人物の描写がある程度か。

「蒼白な仮面とか、小道具に凝ってるって言いたいですね」

 肩をすくめた大和もおそらくこれを真実と感じているに違いない。見やった顔色がよくなかった。軽くその手を握り、安曇はしかし大和を見ない。かすかな彼の笑い声が聞こえた。

「黄色いんだか多色なんだか、はっきりしろと僕は言いたい」

 翻訳を間違えたのかと何度も確かめたけれど、黄色にして多彩としか読みようがない。その上、襤褸とくるとお手上げだ。わけのわからない戯言、と片付けたい。できることならば。安曇の溜息が本音を語る。

「安曇さん、これなに?」

 ふと大和の目はノートの別の個所へと。そこには色合いの違う文章が書かれていた。見れば顔を顰めた安曇の表情。

「関係ないと思う。本の中表紙にあったんだけど、気になって翻訳しただけ」

 ここだ、と安曇は中表紙を開いて示した。それに大和は首をひねる。そこには短い文章が記されていた。この本がどのような経緯で出版された、あるいはされていないのかは、わからない。だが少なくとも活字で印刷された書籍。

「これ、手書きですよね」

 安曇が示した部分ただ一ヶ所だけが手書きだった。持ち主があとから書き足したものだろう。何かわかるか、と安曇が翻訳した気持ちもわかる大和だ。

「思わせぶりに書いてあるからさ。訳して腹立ったよ、もう」

 意味がわからない文章だったと安曇の嘆きの声。それをいえばすべて意味不明なのだが。

「献辞っぽくないです?」

「ん……あぁ、そう。かも? 献辞が手書きってのもわからないけどね」

「たとえば、この本の持ち主が誰かに譲るときに書き加えた、とか」

「そんなとこかもね」

 肩をすくめつつ、安曇は粗訳を文章に直して大和に示した。一読し、大和も納得する。意味がわからないということが、わかった。

「なんだコレ」


 ――新たなる御子よ、我らの希望よ。死にながら眠りたる我らが神の次なる司祭の誕生を祝す。

 Ph'nglui mglw'nafh Cthulhu R'lyeh wgah'nagl fhtagn.Ia! Ia! Cthulhu fhtagn!――


「正直、後半はお手上げ。何語なのコレ」

「コレ人語です?」

「て、言いたくなるでしょ? 学問が学問だから、けっこうあっちこっちの言語は目にしてるんだけどね」

「原語で読んだりするんです?」

「それは無理。というかね、文字を持たない文化圏もけっこう――って、そうじゃなくて。既存の文字の借用をして表記したとかも相当数あるんだよ」

 そうすると多少は違和感のある文字列になることもある、安曇は言う。だがこれは違うとも。いままで目にしてきたいかなる文化圏のものでもない、安曇は断言していた。

「なんか――」

 言いかけて大和は口をつぐむ。無言で促す安曇に、けれど大和は答えない。もしかしたら、と安曇は思う。

 ――大和君も。

 同じような違和感を覚えているのかもしれないと。はじめて目にした文章。文字列。翻訳どころか片仮名で表記することすら放棄したそれ。安曇は背筋に震えを感じつつ、同時に惹きつけられるものも覚えていた。大和もなのだろうか。じっと見つめれば、目をそらす大和がいて安曇には内心の思いを確信させただけ。

「こういうのが魅力的とか思うと、自分の基盤が揺らぐような気がして気持ち悪いよね」

「……安曇さん」

「大和君もでしょ。なんだろうね宗教学やってるとたまにあるよ」

 慰めにはならないだろうとは思った。これは、違うのだと。そのようなものではないのだと、大和もまた悟っているのだから。それでも安曇の言葉に彼はほんのりと口許を緩めた。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る