第5話


 大和と共に調べ物をして数日、安曇は悩んでいた。長田にこれを告げるかどうか。大和は安曇の思う通りに、と言ってくれたけれど、否、だからこそ悩む。

 ――教授に言わない理由はない。

 福島が迎えたあの結末。長田は知っていたならば間違いなく止めた、はじめから彫像を渡しなどしなかった。安曇はそれを信じて疑わない。否、疑念があるからこそ信じたい。ならば、今回のこれも言った方がいい。そう思うのに、惑う。三日が経ち、決断せねばならなくなった。上演の日は近づいている。

「教授、少しお時間をいただけますか」

 自宅にいても安曇は大学にいるときと口調が変わらない。恩人であり恩師である長田への敬意からそうするのだけれど、長田はもっと砕けてくれれば嬉しい、いつもそう言う。

「もちろん。どうかしたのかい?」

 家にいるときの長田は教授の顔ではなく、あえて言うならば養い親の顔をしたがる。安曇はそれがありがたいような微笑ましいような。面映ゆい笑顔を浮かべて彼の前に腰をおろした。

「今度、伊藤君たちと行く劇のことなんですが」

「あぁ、あれか。変わった劇だよなぁ」

「教授もそうお思いに?」

「いや。チラシを見ただけだがね。何かあったのかい?」

 もし自分に親というものがあったとして、これほど親身に優しい顔を見せてくれるものなのだろうか、いつも安曇は思う。真っ直ぐと息子に向き合う父というものの姿を見るようだった。

「大和君がせっかくだから予習をしたい、と言っていましたよね」

「あいつは面白いねぇ。編入してまでこの道に来るというのがまず嬉しいじゃないか」

「はい」

 長田が大和に目をかけている、それが安曇にも喜びになっている。新たな研究者の誕生を夢見るのだろう、二人共が。

「それで――」

 だが和らいでいた眼差しが固くなる。どう切り出したものか、安曇もまだ決心はついていない様子。それと悟ったか長田は気楽に話すといいよ、と穏やかに微笑んでいた。

「あまり、よい感じが。しなくて」

「ほう?」

「所詮は噂話、と言われそうなんですが」

 そうして安曇は大和が見つけたオカルトサイトの記述を長田に語った。何度もノートに取ったメモを読み返したおかげで空で読み上げられるのではないかと思うほど。長田は真剣な表情でそれを聞いてくれた。

「うぅん、なんだろうなぁ。妙に真実味があると、君も思ったんだろう?」

「……はい」

「他にも、何かあったんじゃないのか?」

 見抜かれていたか、安曇は軽く唇を噛んだ。そして長田を真正面から見つめる。それを受け止める彼の目はなんでも言ってごらん、と笑んでいた。

「書庫で、見つけた本が、あるんです」

「ん? 蔵かい。何か興味深いものがあったか」

「なんというか……正直に言えば、悍ましい、です」

 安曇がそんなことを口にするとは考えてもいなかった、長田の驚愕の顔を彼は見ていられない。仮にも研究者ともあろうものが、宗教的存在を恐れるとは。研究者として恥ずかしい。けれど、と安曇は思う。あの本を手に取り、読み、解読し、理解し。すればするだけ悍ましさは募るのだと。

「安曇君、君は」

「――その本に、彫像のことも、書いてあったんです。教授」

「なに?」

「福島君の卒論のための、あの彫像です」

「なんだと……」

 さっと長田の顔が青くなった。安曇はその色に安堵する己を見ていた。長田は知らなかったのだと。知っていればきっと。内心に深く息を吐く思い。

「そんなものが、うちの蔵に……。いや、私が悪かったんだ。あんな彫像が、いや、そうと決まったわけではない。だが、君も知ってのよう。こういうことはままある」

 だが知っていれば。繰り返す長田に安曇はうなずく。ゆるゆると後悔のよう首を振り続ける長田だった。

「蔵の本はすべて目を通した、と豪語できればいいのだがね」

「さすがにそれは無理だと思います」

「君にはできる限り読んで欲しいものだな」

 ほんのりと笑う長田の期待には応えたい安曇だった。こうして、ここまでの道のりを作ってくれた人のために。何より研究が好きだった。

「それはそうと、安曇君。もしや……?」

 話題がずれたのを長田自ら修正してくれたことに安曇は息をつく。言いにくい、というよりは言いたくない。気味の悪さがそうさせていて、安曇はうなずくばかりだった。

「そう、か……」

 自分の蔵書にそのような本があった、長田はずいぶんと衝撃を受けた様子。まして福島が受けた呪いが記述されている本。

「どんなことが?」

「黄衣の王という、存在のことや……劇中に出てくるらしい湖のこととか」

「なるほど。福島の件は私には、わからない。だが安曇君、こうは考えられないかな。なにもこの世に一冊、なんて稀覯書でもない」

 うちにそんな高価な本はないぞ、と胸を張る長田の悪戯っぽい仕種に安曇もかすかに笑う。

「だからな、劇団の人も同じか、似たような記述のある本を劇の素材にした。そう考えた方がいいんじゃないだろうか」

「……えぇ」

「君は福島のことでずいぶんとショックを受けていただろう? 側にいたんだ、当然のことだと私は思う。君は優しい心根を持っているからね」

 にこりと笑った長田に安曇は答えられなかった。いまでも福島のことは悔いている。長田も忘れてなどいないのだろうとは、わかっている。こうして励ましてくれていることも。それでもまだ、哀しみは薄れない。

「そのせいで、いささか過敏になっているように私は感じるよ。それが悪いというのではない。君まで病みついては、と心配な私の我が儘だね」

「すみません……」

 うつむく安曇に穏やかな笑みを向ける長田だった。この経験を乗り越え、そして彼に大きな人物となって欲しい、そう願う眼差し。

「それからね、安曇君。君も研究者だ。徒に怯えるのはいただけないぞ。恐ろしい記述、忌まわしい神話。我々の研究対象にはそのようなものがいくらでもある。だがしかし、それは我々の、現代日本に暮らす我々の常識でしかないんだ。その宗教の中に暮らす人々にとっては忌まわしいものでもなんでもない。逆に禁忌があるからこそ、日々の生活を正しく営むことができる指針のようなものであることもある。それを自分の常識で避けて退けては、ならないんだ」

 君は研究者なのだから。長田の訥々とした説諭に安曇は目が覚めるよう。そのとおりだった。恐怖に負けて、そんなことすら見失っていた自分が恥ずかしい。ちらりと長田が笑った。

「君でも迷うことがある、と知るのは嬉しいものだね」

「教授?」

「君は優等生すぎるよ、安曇君。まだ若いんだ。迷ったり悩んだりたくさんしなさい」

 優しい眼差しに安曇はかすかに微笑んでうなずいていた。やはり、言ってよかったと思う。ありがとうございました、そう一礼して長田の前を下がったときにはずいぶんと気持ちも楽になっていた。


 翌日のことだった。大和から学外に出ようと誘われたのは。おいしいコーヒーの店を見つけた、と喜ぶ大和に息をつく。

「また何かあったかと思いました?」

「まぁね」

「そんなにひょこひょこあったらたまりませんって」

 軽い調子で言う大和だったけれど、たぶん本音だと安曇は苦笑する。どことなく、次が迫っている、そう感じるせいかもしれない。

「それで安曇さん。何があったんです?」

「うん?」

「なんか悩んでる顔してるなって思って」

 だからこうして誘ったのだ、率直に大和は言った。

「そう、だね……」

 大和が勧めるだけはあるコーヒーだった。一杯分ずつ豆から挽いているらしい。よい香りがしていて気持ちがほぐれるよう。ゆるゆると香りを楽しむ、そんな顔をして安曇は視線を落としていた。

「気がかり、というかね。妙な感じというかね。話してみたんだけど」

「安曇さん安曇さん、話が見えないって」

「あぁ、ごめん」

 混乱しているな、大和は苦笑する。静かで聞く耳もない喫茶店の中、安曇は一度天井を仰いでいた。そして昨夜のことを話した彼だった。

「教授に諭されて、納得した。そのとおりだなって思った」

「でも、変な気がした?」

「というかね、確かに研究者としては無闇に怖がるのは褒められた態度じゃない。それは僕も改めるべきだといまでも思う」

「けど、本に書いてあったことがほんとになって、あんなことになって。怖くない、気味悪くないって方が変じゃないですか?」

 人として当然の感情だろう。大和が言ってくれて安堵する安曇だ。彼もそう考えてくれるかと。またも当たり前だろうと呆れられた。

「教授はあれかなぁ。体験してないから実感がないのかも?」

「そうかもね」

「あの本、読んでもらったんです?」

「ううん」

 言われてなぜだろう、と安曇は今更に首をかしげていた。長田の方が比べるもおこがましい学識がある。読んでもらえば更なることがわかったかもしれないというのに。

「なんでだろう。教授に見せる気にもならなかったな」

 あの場に書籍を持ち出して、この個所に記述がと見せたらずっと話は確実だったはず。いまにしてそう思う。

「安曇さんでも慌ててたのかな?」

 悪戯っぽい大和の言い振りに安曇は唇を尖らせる。そんな子供じみた仕種が自分でおかしくなったか、彼は最近では珍しく大きく笑った。

 ――安曇さん。本当は、疑ってるんじゃないんですか、長田教授があの本を知ってたって、感じてるんじゃないんですか。

 出かかった言葉を大和は飲み込む。それを彼に言えば否定する。無理にでも否定して、それを信じ込みかねない。大和はそれが怖い。安曇を失いそうな、そんな気がして。まして長田に福島殺害の動機は一切窺えなかったのだから。あれを殺害といえるのならば。




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