第6話
学外の喫茶店で二人、ほんの少しデート気分、と言えば大和は笑うだろうか。そんなことを考えてしまった安曇はひとり赤面する。首をかしげてこちらを見ている大和がいればこそ。
「なんでもないよ」
気にするな、と安曇は続けた。それには笑みをこぼす大和だった。どことなく、いまの安曇の心持ちが伝わってくるような気がする。
「そういえばさ、なんでここだったの」
何もおいしいコーヒーだけが目的でもないだろう。言えば感づかれたか、と大和は顔を顰めた。
「あんまり構内で話したくなかった?」
「まぁ、そんなとこですかね」
「オカルトじみてるもんなぁ」
かすかに呆れたような安曇の溜息。自分たちが何に巻き込まれて、飛び込んで行こうとしているのか。考えれば笑うしかないに違いない。大和としては、別に理由もあったのだけれど、安曇にそれを告げるつもりはなかった。
「ちょっと調べ物をしたんですよ。これ、見てもらえます?」
テーブルの上に滑らせてきたノートは相変わらずレポートのよう綺麗に整っている。このまま論文にでもできるのではないか、思う安曇だけれど、こんな論文を受け取る機関はないだろうとも思う。
大和が調べてきたのは、あの戯曲のことだった。黄衣の王の原本はフランスで出版された、とあのオカルトサイトにもあった。それを彼は調べたらしい。
「ね、マジでした」
間違いなく出版され、そして発禁処分を下されているとの調査結果。当時の新聞記事によれば上映のころ、確かに精神の変調を訴える人が増えた、という。無論それとこれに関係があるのかは、わからない。偶然かもしれない。
「でも、偶然にしては、出来過ぎだと思うんですよ……」
腹の中が冷えていた。福島の死に顔が蘇る。あのときのことが、また再び起きるような、恐れ、忌まわしさ。違うものと感じてはいる。けれど似ている、と。大和の青い顔に白くなった安曇の顔。
「ほんとだね……。出来過ぎ、だ」
オカルトサイトだ、と笑い飛ばせればよかったのに。これでは真実のようではないか。揃ってしまった証拠を前に安曇はノートを見ていた。ふとその目が大和へと。
「それにしても、すごいね? こんなのどうやって調べたの」
昔の出来事であり、しかも外国のことだ。いったいどうやってこの短期間で調べたのか。首をひねる安曇に大和は笑う。
「すごいでしょって言えればかっこいいんですけどね。新聞社に知り合いがいるんですよ。その人に頼んだだけです」
物好きな奴なので二つ返事で引き受けてくれた、大和は屈託なくそう言っていた。大和の人望だな、と安曇は微笑ましい。こんな正直に言って愚にもつかない調査を頼まれてくれるとは。
「ありがたい話だね」
「安曇さん?」
「友達? 大事にするんだよ、こういう人は貴重だから」
「……はい」
どこか和んだ大和の眼差し。安曇はそれを見ていた。和らいでいるのに、芯がある。その芯に自分は触れているのだろうかと。けれどそれを口にすることはなかった。
「それで、ついでになっちゃいますけど、安曇さん時間あります?」
「え、あ。うん、ある……けど」
「劇場でこれから通し稽古があるらしいんですよ、見に行ってみません?」
「な……! だったらそう言え! もう!」
「あ……。いや、その!?」
何やら誤解をさせてしまった様子に大和は彼らしくもなく慌てていた。目の前でそっぽを向いて赤くなっている安曇に何をどう言えばいいのか。狼狽しているうちに彼は席を立ってしまう。
「行くよ、大和君」
ちらりと振り返って伝票を取る。取り返そうとしたけれど、にっと笑った安曇に拒まれた。
「もう、俺が誘ったのに」
「学生に奢らせるわけにはいかないでしょ」
「だってさー」
店を出てもまだ大和はぶつぶつと言っていた。どうやら大和もデート気分であったことは間違いないらしい、そう思えばそれだけで充分だと笑みがこぼれる。
「大和君、コーヒー好きなの」
「結構。淹れるのもうまいですよ」
「だったら今度淹れてよ」
「了解」
にやりとした大和から安曇は視線を外す。なんとなく、大和の充足が伝わってきては気恥ずかしいなどというものではなかった。
「近道しよう、こっちの方が早いんだ」
そう言って安曇は路地を曲がる。都津上は安曇の方が長い、こんな道でもよく知っていた。
「最寄駅って、森林公園駅になるんです?」
「だね。そこからタクシーだけど」
「けっこう遠いなぁ」
「歩くとそうでもないんだよ。大学前駅からだったら歩けるよ?」
「はい?」
最寄駅は違うのだろう、大和の怪訝な顔。広い森林公園だ、こちらから向かえば園内を半周ばかり歩かないと野外劇場につかないと安曇は笑った。
「教授と伊藤君だから、別に歩いてもいいんだけどね」
「タクシー使えるならそっちの方がいいな」
「でしょ? だから教授も何も言わなかったんだと思う」
四人でてくてく公園散歩かと思えば笑えてしまうではないか。学生たちはともかく、長田がそうしていると想像するだけで、つい。
「教授ってそんな格式張ってる感じ、しませんよ?」
「しないけどね。なんとなく、笑えない?」
「笑えます」
顔を見合わせ吹き出した。住宅地なのに人の気配がないのは時間のせいだろう。多くの人はまだ仕事中ということか。どちらからともなく指先に触れる。手を繋ぐとはいかなかった。けれど、気持ちだけはそんな気分で。
「ちょっと、残念。かな」
さすがに都津上森林公園が近くなってくると人が増えた。小さな子供を連れた親があちこちに見られる。一部には遊具も備えてあるせいだろう。
「安曇さんってば」
「なにさ」
「別にー」
木漏れ日の下、遊びまわる子供たちの長閑な歓声。人目を盗んで一度だけきゅっと手を握った。仄かに赤くなった安曇の頬。横目に見ては手を離す。互いに残念な気持ちは同じだった。
「アスレチックとかあるんだ。へぇ、面白そうだな」
「大和君は好きそうだよね、そういうの」
「体動かすのは好きですよ」
「だったら、今度、一緒に来ようか。お弁当持ってさ」
「……ピクニックデート的な?」
「大和君!」
くつくつと笑う大和の肩先を打つけれど、硬い音がしただけだった。
「もういいよ。知らない」
「拗ねなくってもいいでしょうに。楽しみにしてますから。ね!」
「ふーん」
「安曇さぁん」
哀れっぽい声音に笑ってしまって、安曇は目を細めていた。嫌な気分などというものではない。忌まわしい何かが近づいて来ている、その懼れにも似たものに怯える自分と気づいてくれた大和。肩先だけを触れ合わせ木々の下を行く。
「あれ、劇場って」
その大和の不思議そうな声に安曇は思い出した。彼は都津上には最近来たばかりであったと。
「野外劇場だよ」
知らなかった、驚く大和の表情が微笑ましい。真っ直ぐとした彼の眼差しになぜか救われるような気がする。
「知ってたから稽古見に行こうって言ったのかと思ったよ」
「思いつきです、ただの」
「案外と場当たりだったんだね、大和君」
「俺に緻密さを求めちゃだめです」
もっともらしく言う大和に吹き出していた。どこがだ、と思っていたせいもあった。あのレポートしかり、大和は正確さを重んじる感覚を充分に持っている、と安曇は思うのだけれど。
「ほんと学者向きだよ、君は」
「そうです?」
「いい加減な資料で語られたら迷惑だろ。そういうのは物書きがすること。想像で語るのは学者がしちゃだめでしょ」
「そりゃそうですね」
「たまにねぇ、いるんだけどさー」
困ったものだ、と安曇は首を振る。学会では相手にされないからいいようなものの、テレビ受けはいいから面倒が増えると安曇は嘆かわしげ。
「所詮テレビでしょって言えないとこが怖いっすよね」
「まだまだテレビの影響力はあるからね」
適当なことをほざかれる身にもなれ、と安曇は憤る。そのあたりの生真面目さが大和には好ましい。思った途端に偉そうだな、と内心に苦笑していた。
「あ、やってるやってる」
地方都市の野外劇場にしては立派なものだった。森林公園の小高い丘の上に位置しているせいもあり開けた眺望も美しい。あの辺りが大学、安曇が指差した都津上の街の向こう、海が煌めく。
稽古というよりは準備、だろうか。揃いのパーカーを着た人たちが立ち働いていた。
「最近はああいうお揃い作るの、安くなりましたよね」
「そうそう。シャツとか作るよ、うちでも」
「はい?」
「学祭のときなんかね。長田研究室とかでかでかと書いて。正直、趣味を疑うんだけど、僕はデザインとかさっぱりだから口は出さない」
「うわー」
「去年は最悪だった。あれはわざとなんだと思うけど、紫のシャツにピンクの字だよ? しかも明朝体」
「……なに考えてんだ」
「言いたくなるでしょ」
それよりはずいぶんと洗練された趣味だ、と劇団員を見ていた。鮮やかな黄色のパーカーは目立ってはいるけれど、趣味を疑うというほどではない。比較対象が間違ってるかな、と安曇は笑っていた。
「フォントもかっこいいな」
劇団名の記された書体も中々さまになっている。あるいは物販スペースで一般販売しているのかもしれない。あれならば欲しいというファンはいるだろう。
「どうしました?」
その中の一人が彼らに気づいて声をかけてきた。野外劇場の傍らで雑談していたのだから気になったのだろう。
「すいません、お邪魔でした?」
ぺこりと大和が頭を下げた。本当ならば安曇がするべきだろうけれど、自分の方が人懐こく警戒されにくい。そう考えた大和だった。ちらりと横目で見やった安曇は固く唇を結んでいる。
――そうか、苦手なんだ。
他者の中の異物である、と言っていた安曇。大和と二人でいるときはさほど感じていない様子だったけれど、やはりこうして他人を前にするとその思いは強いのだろう。
「いいえ、ご用だったらいけないなぁと思ってお声をかけさせてもらいました」
にこりと笑う青年に大和も微笑み返す。不審者扱いされてはいないことにほっとしていた。
「これって、今度の劇のですよね?」
「そうですよ。珍しいタイトルがかかるので、お時間あったら是非!」
「そんなに珍しいんですか」
「一度は途絶えてしまった、演劇史上でも稀有な戯曲の再発掘なんです」
「へぇ、そんなすごい劇だったんだ」
劇団員はあの戯曲を知っているのだろうか。知らないわけはないけれど、彼にはまったく屈託がない。あのような内容と、知った上で彼は。
――平気な顔してるのが、俺は怖い。
ただの劇だと信じられたらどんなに。思うぶん、違うのだと感じてしまう。黄色いパーカーの人々が大勢働く様まで、どこかしら寒気を誘う。
「異世界っぽい、話ですよね」
不意に口を挟んだ安曇に青年は得たりとばかり嬉しそう。自分の好きな劇のことを知る人を前にしている、と思えばいいのだろう。けれど、到底そうは思えない。
――偏見、だろうか。
違うと大和は断じたい。安曇も同意してくれるだろう。その安曇に向けて青年は舞台の上を指差していた。
「カルコサという、不思議で美しい世界の話なんですよ。二つの月も舞台には上がります。設置がちょっと大変なんですけどね」
くすりと裏話を語る青年に悪意はない。それは重々わかっている。ゆえに、肌が粟立つ。あれを、あの黄衣の王を喜ばしく語る彼には。
「上演は夜ですし、舞台のライトもすごく綺麗なんですよ。ロマンチックってやつ」
にっと青年が笑った。そのときだけは普通の青年のよう。だから、そうは感じていない二人。気づかず彼は続ける。
「せっかくですし是非、彼女さんとどうぞ!」
顔を見合わせた二人に青年は朗らかだった。
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