第7話
帰り道、どことなく居心地が悪いのは先ほどの青年のせいに違いない。互いにちらちらと横目で窺うけれど口を開いたのは大和だった。
「なんつーか、その。彼氏とは言いにくいですよね」
大多数的に当然だとは思うけれど、あまりにもあっさりと「彼女と一緒に」などと言われると引っかかる。青年に他意はないのだとしても。
「言いたくない?」
ふ、と笑うような困るような安曇の声音だった。思わず大和は彼を見つめる。
「言っていいの?」
「悪いと思うの」
即答が照れていた。天を仰げば大和の目には澄んだ空。よい天気が続いている。照れくさくなって頬のあたりをかいていた。そんな大和を安曇はくすりと笑う。
「教授職、目指そうかな」
「どうしたんです? 何か心境に変化でも」
「だって大飯食らいがいるじゃない。大和君を食べさせないと」
助手の給料は安いんだよ、安曇は再び笑う。気分のいい笑い声だった。福島を失ってからこんな声を聞くのは本当に久しぶりだ、大和は思うのに、答えられなかった。
「さっきの彼女の話ですけど」
あえて話題を戻した大和と安曇は気づかず、それを続けるかと嫌な顔をして見せる。軽く笑って大和は、しかし真剣な目をしていた。
「違うんですよ、安曇さん」
「うん?」
「なんか……違和感があったんです、俺」
「たとえば、どんな」
す、と彼の目からも照れた色合いが消える。それはあるいは安曇もまた違和感を覚えていた、ということなのかもしれない。
「人を集めたがってるような、そんな気がしたんですよ」
「だから、彼女とっていうか、誰かと一緒にって?」
「気のせいだといいんですけどね。あの人は――戯曲の由来を知らないんでしょうか」
屈託ない青年だった、大和にもそう見えてはいる。けれど、人は目に見えるだけではない。それが大和の不安を煽っていた。
「……知ってる風じゃ、なかったよね。少なくとも僕には、そう見えた」
「俺は――なんだろうな。うまく説明できないですけど。明るくていい人っぽかったですよね? でも、知ってて、人を集めたがってる、そんな気がしてならない……」
根拠を問われたら回答の持ち合わせはない。ただの勘でしかない。その感覚を大和は無視できない、それだけかもしれない。
「僕には、わからない。信じたいのかな」
あんなものを知っていて、なお上演するなどなんの冗談だと思う。そんな人間がいるのかと。まして大和が言うよう人を集める意味はわからない。集めて何が起こるのか。それを想起したとき安曇の体がかすかに震えた。
安曇の考え、大和のそれ。互いに決定打となるものは見つからず、上演当日を迎えてしまった。二人の懸念は福島の死の打撃から立ち直っていないせい、と断言できたならばどれほど気が楽になることか。違うと理解しているのに、それを説明する言葉は二人共に持たない。
「あれ、安曇さん?」
日曜日の夕方とあって、森林公園駅の人出はもう少ない。帰りの電車に乗る家族連れがいるくらいだった。そこに大和は早々にやってきていたのだが、安曇が一人で来るとは思っていなかった。
「どうしたの?」
「いや、教授と一緒だと思ってたんで」
「教授なら神社に顔を出さなきゃならない用事があるとかで、そちらに寄ってからお出でになるそうだよ」
長田が神社ということは、彼がいずれ奉ずる戎神社のことだろう。大和の眼差しがふと曇ったのを安曇は見逃さなかった。
「大和君?」
「いや……」
「隠し事? 別にいいけどね」
笑ってくれた安曇だから、大和は言うことにする、誤解も曲解もしないでいてくれる、と信じたい。その真っ直ぐな目を安曇は微笑んで見つめていた。
「あんまりね、いい噂を聞かないんですよ」
「戎神社?」
「はい」
大和の濁した口調から彼が何を聞いてきたのか、だいたいのところを安曇は察する。
「カルトっぽいとか、言われてて」
やはりな、と思ったのが顔に出たのだろう、大和は知っていたのかと目顔で問う。当然だろうと安曇は無言で肩をすくめた。
「だったら遠慮なくいきますけど。人身御供とか神隠しとか、散々な噂ですよ」
「そりゃね、古い神社だもん。毀誉褒貶のひとつやふたつ、あるに決まってるじゃん」
「その程度の問題です?」
「だと、僕は思うよ。来歴が古いってことは、いまと違う人権意識だとか常識だとかがあったころの話も残ってるってことだしね」
人身御供も現在の常識で語ればただの殺人だが、当時はそのように考えられていない、そんなことは世界中の宗教にいくらでもある話、と安曇は思う。何も戎神社だけを取り上げるような話題でもない。むしろ普遍的な、いわば宗教的アーキタイプと言ってもいいほどだ、と。
「それは、理解するつもりなんですよ、俺だって。好きで研究室に来たわけですしね?」
話題の深刻さを嫌うよう、大和はあえて笑って見せる。だからこそ、安曇は悟る。そのとおり、と大和はうなずいて続けた。
「たぶん俺は福島さんのことが、引っかかってるんだと思います」
「うん?」
「戎神社が海に関連する神さまの文献とか集めてるって聞くと……」
すなわち原因ではないか、長田を疑いたくなるではないか。大和は言いはしなかった。そのぶん安曇にははっきりと通じて、けれど彼は悪戯っぽく笑った。
「当然でしょ?」
「はい?」
「こないだ、野外劇場から海が見えたでしょ。戎神社はちょうどあの辺だね」
それだけでは理由にならない、と大和の固い顔。安曇は反論より先に言葉を続けた。
「戎神社の御祭神を大和君は知ってるの」
「そりゃ戎さまじゃ?」
「その戎さまはね、神話的には事代主神だよ。つまりは漁業神だ」
「……は?」
「大和君、日本神話は疎いかな? 民間伝承レベルだから無理もないけど」
にやりとする安曇に大和は力なく笑っていた。さすが専門家、ということか。あれこれと調べたはずがあまりにもあっさりともたらされた回答。
「心配してくれるのは、嬉しいよ」
夕暮れの赤い空を仰いで肩をすくめた大和に安曇の声が染み込んだ。見やれば仄かに微笑む彼がいる。
「大和君の心遣いは、わかってるつもり。でも……あんまり教授を悪く思わないでくれると、嬉しいかな」
「うい、よけいなことでした」
「だから嬉しいって言ってるじゃん」
顔を見合わせ笑い合う。大和の気持ちがありがたかった。彼の懸念もわかるつもりだった。なぜならば、安曇自身が長田に対する淡い疑念を覚えていたせい。だからこそ、大和の言葉を否定したくなるのだとも、どことなく理解してもいた。
「それにしてもよくこの短期間で調べたね」
「けっこう大変でした」
「だよね。神社の縁起とかは調べるの面倒なんだよ。明治の神仏分離令の影響で本来の縁起が書き換えられちゃったりしてるしねぇ」
研究者泣かせだ、安曇は笑う。さすがにまだ学生とあって詳しいことがわからなかった大和だけれど、それでも大したものだと安曇は思う。どこで調べたのか尋ねようとしたとき、伊藤がやってきた。ついで長田も。だから安曇がそれを聞くことはなかった。
「悪かったな、待たせてしまった!」
神社で何かを持たされたのか大荷物の長田だった。気にした伊藤が荷物持ちを買って出たけれど「貴重品だからね」と笑って彼は退ける。
「信用ねぇなあ、俺!」
笑う伊藤だった。当たり前にあった研究室の景色だった。なのに、なぜだろう。ふと安曇の脳裏を掠めたのは福島の彫像。貴重な、まだ同定も済んでいない遺物を貸し与えた長田。福島だけが特別だった、とは安曇は思わない。可愛がっている学生であったとは否定しないけれど、伊藤だとて。
――教授。
問いが顔に表れる前、安曇は曖昧に微笑んでタクシーを探す。駅前のロータリーには客待ちの車列ができていた。
どこか不安げな安曇にどうしたのだと問うことはしかねる大和だった。伊藤の前で妙に思われたくもないだろうし、何より安曇がどう言おうと大和は長田を警戒している。そんな彼とは思いもしないのかからりと笑った長田は自分が助手席に乗ろうと言い出していた。
「教授?」
「君は大和と仲がいいだろう? だったら後ろに三人で座るといい」
「ですが」
「私は嬉しいんだよ、安曇君。こんな言い方をするのはどうかと思うが、彼とは仲よくしてやってくれよ、大和」
恩人にして恩師。その温顔に大和はもちろんと胸を叩いて安曇どころか伊藤にまでも呆れられていた。照れくさげな安曇がそっぽを向き、長田にからかわれる。
「ほんとさ、お前が来てから安曇さん変わったもんな」
「伊藤君までそういうこと言うの」
「ほんとのことですし。俺は正直な研究者を目指してるんです」
さっさと助手席に乗り込んだ長田に致し方ないと三人は後部席へと。それでもまだわいわいとやっているのだから長田の笑うことといったらない。首だけ振り向けては嬉しそうに笑っていた。
森林公園に到着したときにはもう完全に陽が落ちていた。綺麗な夕焼けだったのに、と伊藤が残念がる。そのぶん雲ひとつない美しい夜だった。
野外劇場へと歩きながら大和は納得している。確かに最寄り駅はこちらなのだと。タクシーを降りてしばし。前回ほど時間はかからず劇場までついていた。
そこにはすでに大勢の客が入っている。客席には黄色いパーカーを着た人がたくさんいて、はじめは関係者かと思った大和だったけれど。
「すごいな、これ。ファンってこと?」
感嘆する伊藤の声に、安曇と大和。知らず視線を重ねる。理由などわからない。ただ、背筋が冷えた。安曇の耳に大和の言葉が蘇る、まるで人を集めたがっているようだと言った彼の言葉が。
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