第8話


 前口上もなく劇ははじまった。ゆるゆると、ゆるゆると。まるで夢のように。幻想的で、だがしかし夢というには悍ましい。これが夢とするならば悪夢だった。

「大和君」

 四人並んで座っていた。安曇の右手に大和が、反対には伊藤が。伊藤の向こう側、舞台を眺める長田がいる。

「……大丈夫?」

 伊藤の耳を憚るのか小声だった。それで安曇は自分が大和を呼んだことを知る。それほど不安で仕方ない。ちらりと見やった長田は口許に笑みを刻んで劇を見ているばかり。

 ――教授。

 楽しそうには、見えなかった。他人も同然の相手から送られてきた劇のチケット。楽しむ義理はないのかもしれない。だが、安曇には決してそうは見えない。

「なんか、すごかったなぁ」

 ぐい、と伊藤が伸びをしたのは第一部が終わってのこと。慣れない観劇に照れくさげ。それでいて彼の目にも不安があった。

「どうだった、伊藤」

 覗き込むような長田にやはり大和は違和感を抱く。これは、なんだろうと。長田が何を思い何を考えているのか、読みきれない。

「よくわかんないっすね。一種の神話の翻案かなんかですかねぇ」

「あぁ、それはありそうだなぁ」

「なんだ教授もわかんないんです?」

「わかるわけないだろう、こんな意味のわからん代物」

 からりと笑う長田にふと安曇は眉を顰めた。神話の翻案であることを認めながら、長田はそのように言うのかと。比較宗教学の学者として、彼は常に中立を保ってきたはず、学生にもそう教えてきたはず。

 意味のわからない代物。長田にそこまで言わしめた戯曲とは、安曇は思わなかった。不快で気味の悪い劇だとは感じている。もし長田の要請でなければすぐさまに席を立った。肉体の奥底から湧き上がる嫌悪感。握り込んだ手に大和が軽く触れてくれてようやくに息をした。

 そしてはじまる第二部。舞台も客席も様相は一変したとしか、思えなかった。無数の蛇に体中を舐めまわされているとしてもこれほど忌まわしくはない。まして、舞台を見つめる長田の顔。冷笑していた。

「……ほう」

 かすかな長田の呟きだった。いまは舞台に引き込まれたか、伊藤は気づかない。それなのに安曇にも大和にも聞こえた長田のそれ。

 ――上演すると、思ってなかった?

 なぜそのように感じたのか、大和にはわからない。けれど長田の表情はそう語っている。この劇に二部があるとは、あるいはこの形で演じるとは想像していなかった、と。

 ――教授。何をご存知なんですか。

 自分は何を聞かされていないのだろう。舞台より長田を横目で見てばかりいる安曇を置き去りにして、演技は続けられていく。カルコサの大地を語る女、二つの月が舞台に上がった。煌々と照るのではない、ぼんやりとした赤い月。そして少し小さな緑の月。いずれも月という天体に相応しい清々しさは微塵もない。照らし出されるその大地もまた。

 月のせいか。舞台装置とわかっていても不安を煽る光。客席に騒めきが生じていた。悲鳴じみてはいるけれどかすかな声。ぶつぶつとくぐもった声。あちこちで上がりはじめたそれに伊藤が周囲を見回していた。

 瞬間。

 彼らの視界が閉ざされる。昏黒に飲まれ、なにひとつとして見えず。客席から聞こえる鋭い悲鳴。空に、本物の夜空に輝く星の数まで数えられそうな、闇の中。

「あれ、は――」

 息を吸った音がよくぞ聞こえたものだと安曇は感じる。長田の驚愕が耳元で叫ばれたかのよう聞こえた。

「安曇さん」

 ぎゅっと握られた手に大和のぬくもり。怖いの、尋ねようとしたけれど、震えているのは自分だった。安曇の眼差しの先、舞台の上にぼんやりと見えはじめたもの。うっすらとした影。闇の中から浮かび上がる青白いそれは、仮面だった。

 伊藤が首をかしげたとき、仮面の全身があらわとなった。正に、黄衣の王。蒼白な仮面をつけ、黄色にして多色の襤褸を身にまといし王のその姿。並の人間の倍ほどはあろうかという背丈。

「すげぇ、あれどうやってんだろうな」

 劇の演出だと思っていられる伊藤を大和と二人、羨んだ。彼らは気づいてしまう。現実なのだと。あれはそこにあり、そして存在すべきではない存在の顕現なのだと。

 わななく長田の唇、仮面のように蒼白な顔。二人は暗がりの中にあってそれをはっきりと見ていた。長田はあれを知っている。そして彼はよもや目にするとは夢にも思っていなかったと。ゆらり、仮面が進む。襤褸が動く。人間の動きではなかった。断じて違った。いまにして、伊藤が呟く。

「なんだ、あれ……」

 演じているにしては、あまりにも。関節がないかのようなその動き。襤褸の中は軟体動物でも蠢いているのでは、己の妄想を笑う伊藤が飛び上がる。舞台上から轟くほどに湧き上がる歌声。

「続いて、る。そんな」

 まだ、劇は続いていたのか、黄衣の王の出現は、劇団の意思なのか。あれが何か安曇に明確に理解できたわけではない。ただ、あってはならない何かだと。それを彼らは目的としていたのか。

 歌声に、一瞬は安堵した客席だった。過剰な演出に驚いてしまった、そんな羞恥の混ざった声。歌声に飲み込まれ、それから。

「……は?」

 ぽかん、と声がした。伊藤だけではない。客席のあちこちから。自らの肉体に違和感を覚えたか、誰からともなく両手を顔の前へと掲げ。振り絞られる悲鳴の悍ましさ。それは、ただの悲鳴ではなかった。ごろごろと水を含んだかのような音の混ざったそれ。

「伊藤君!?」

 傍らから聞こえた声に安曇は彼の手を取る。振りほどかれた。痛みに震える伊藤の口。安曇がわずかに掴んだ彼の手は焼け爛れたかのよう、無数の火脹れに覆われている。

「伊藤さん!? 教授!」

 身を乗り出した大和もまた、見てしまった。彼らの中ではただ一人、伊藤だけが肉体に異常を発している。火脹れの中、更に泡立つ肉体。ふつふつと沸騰する伊藤の肉。伊藤のみではない、客席から響きわたる悲鳴、怒号。

 劇は我関せずと進んでいく。歌声は野外劇場に満ちていく。黄衣の王の姿はより明瞭に。伊藤の火脹れは両手のみならず、顔を、あらわになっている皮膚を、覆っていく。痛みに上がるはずの悲鳴は途絶えた。絞られる喉まで火脹れに覆い尽くされては。

 ゆらり、仮面が進む。恐れか、それとも教え子を守ろうとしたか。立ち上がる長田に向け王はゆらゆらと。引き攣る長田の顔が星明かりに照らされた。

 王は手を掲げ、足を踏み。あるいはそれは踊るというべきものだったか。襤褸の中で蠢く何者かを想像し安曇は吐き気が止まらない。鼻先に漂いくる腥い臭い。押し殺された痛みの喘ぎが。

「ひ、ぃ……あ、あぁ――!」

 客の声か、演者の声か。いずれとも分かちがたい。あれは、いったい。掠れた大和の言葉だけは安曇が聞き取った。

「なに、どういうこと」

 黄色い襤褸がほどけていた。おそらくはそうなのだろう。そうとしか、考えられないではないか。ほどけた襤褸は糸となり、あたかも命を持ったかのよう動き出す。するする伸びて客席へ。否、人間へ。絡みつく糸は火脹れに襲われていない人間を逃さない。

 ――嵐だ。

 意味など知らず大和はそんなことを感じた。まるで黄色い嵐だと。薄刃の剃刀が糸と化して人を襲う。そう言えば最も近いのだろう。だが、そんなものでは到底なかった。

「だめだ安曇さん!」

 飛び出そうとしていた安曇を羽交い締めにする。彼が何を意図したかは、大和にもわかる。歌を止めようと。あれが原因に違いない、福島の非業の最期を見た二人には直感されている。だからこそ、大和は止める。

「放せ大和君!」

「放しませんよ! だって!」

「だって! こんなこと……みんな死んじゃう、死んじゃうよ……!」

「安曇さんが先に死ぬでしょう!?」

 それでもいいから放せと喚く安曇を大和は抱きすくめる。席から転げ落ち床にうずくまった二人の元にも伸びる糸。払った大和の腕はすっぱりと切れていた。痛みすらないほどに。

 歯噛みしていた、大和は。本心では悔しさに息もできない。戎神社など後回しだった。彼らこそ、この劇団こそ、裏の裏まで調査すべきであったというのに。

「ぐぅ――っ」

 長田の喉から絞られた声。はっと見やった安曇は彼に絡みかける糸を見た。それを振り払った長田をも。渦を巻く糸の剃刀。逃げ惑う客。足を滑らせつまずき転ぶ。そこには肉塊が。

「ひっ」

 膨れ上がり、膨張し、弾けて飛んだかつては人間だったもの。あっけないほど軽い音を立て破裂した。

「は、はは。ははは」

 そこかしこから聞こえる狂気の響き。できることならば狂いたい。安曇ですらそう思う。狂うこともできずただ目に映すだけとは。またひとつ、ぽんと音が弾けて肉体も弾けた。血の色をした水蒸気と共に流れ出す血液、煮えてどろりと床にわだかまる。

「あず、み、さ――」

 福島の再現のよう。もう膨れ上がりとどまることのない伊藤が彼の名を呼ぶ。助けてくれと。この瞬間、大和は伊藤を憎んだ。傾ぎぐらつく伊藤の足、それでもまだ逃げ出そうと。

「伊藤君!」

 火脹れの腕。伸ばされたそれを安曇が取ったそのとき。

「あ――」

 ぽかんと澄んだ、冗談のように澄んだ伊藤の声。安曇の眼前で彼は弾けた。頭から伊藤の血を浴び、安曇は動けず。左手に握ったはずの伊藤の手。それだけが、安曇の手の中に残る。引き寄せたそれは、肉体から離れたそれは、馬鹿みたいに軽かった。

「そんな、伊藤君。そんな」

 再び舞台に安曇の眼差しが。咄嗟に大和が肩を引かなければ、危なかった。煮え滾る安曇の視線、大和を貫いてなお。

「あなただけでも、無事でいて。俺は間違ってますか」

 ぐいと引き寄せた血塗れの安曇。答えはない。腕の中、震えることもなく舞台を睨み据える安曇がいた。

 消えかけの阿鼻叫喚。生きた人間が少なくなりつつあった。劇団員はと見て大和は吐き気をこらえきれない。彼らすら、死んでいた。舞台装置のように転がって死んでいた。舞台からとろとろと血が流れ、溢れるその様をなんと言えばいいのか。怒り、恐怖、懼れ。畏れ。名付けることのできない、原始の感情。そして再び黄衣の王は動き出す。同時に、長田が。何をと戸惑う暇もない。鞄に手を突っ込んだ長田が取り出したのは一冊の本。栞を挟んであったかのよう長田は開き、読み上げ。

 ――呪文?

 まさかと大和は己を嗤う。これはアニメではないのだと。ゲームでもないのだと。だがしかし長田のそれは詠唱としか言えなかった。生き残りの劇団員が歌う声に入り混じる長田のそれ。異なる旋律が醸し出す酩酊感、嘔吐感。

 出現、としか言いようはなかった。突如として舞台上に現れたのは多数の目と口を持つ暗黒の塊。あれはなんだと思う間もない。ぞわり、劇団員たちへと襲いかかる。中心となって歌っていた男は両手を掲げ、迎え撃つのか拒むのか。定かですらなく、飲まれた。もぞもぞと動き蠢く塊に安曇が呻く。固く抱けばえずく安曇が。同じよう吐きたかった、大和も。

「なんてことだ。なんて……」

 闇色の塊と黄色い襤褸と。生きているものは数えるほどしかいなかった。立っているものなどまして。なんだこれは。内心に何度となく。それしかできないうち塊は小さくなり、そして瞬いたときには消えていた。舞台を見つめ呆然と呟き続ける長田の姿を大和は見た。

「教授」

「こ、こんなことが。まさかこんなことが」

「あれは、さっきのは――」

「こんな馬鹿な。まさか本当に」

 視線を切り大和を見つめ、読んだだけだ、自分は苦し紛れに読んだだけだ、繰り返す長田が竦む。黄衣の王はいまだそこに。そして、まるで長田を嘲り笑うかの響きを残し王は消えた。

「教授……」

 大和の腕からぽつんとした安曇の声。何を言っていいかわからない彼の声。漂う血臭。安曇の意識は消失した。


 都津上森林公園野外劇場で起こったカルト教団の自爆テロは世間を騒がせた。多くの人々が亡くなった酷い事件はけれど、少しづつ風化していく。生き残りにだけ傷を残して。

 長田も安曇もしばらくは療養生活だった。病院のベッドの上、唇を噛んだ安曇の姿を大和は忘れない。「また何もできなかった」と呟いた安曇のことは。


 うっすらと闇に光が射した。つんと鼻をつく異臭はけれどどこか馴染み深くもある。

「どうだね、彼は」

「順調でしょう」

「それはよかった。次なる希望に」

「えぇ、次なる希望に」

 祈りのよう敬虔に。頭を垂れて彼らは何を願い何に祈るのか。軋んだ音と共に光は失せ闇が戻った。




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