赤い軛

第1話




 深夜。大学構内には少数の警備員がいるだけだった。巡回時間、経路ともにすでに詳細は把握してある。彼は静かに長田研究室へと。その手にはディンプル錠の鍵があった。長田のものではない、コピーされたそれだった。コピーが難しいだけで不可能ではない。長田は過信していたか、彼は充分な余裕を持ってそれを用意することができていた。ピッキングも可能だが鍵があればそれに越したことはない。痕跡が残らないという意味においては鍵に勝るものはない。

 ここに至るまでもセキュリティはいくらでもあった。だがそれすら無効化されて

いる。優秀な、それこそ十九世紀の事件を短時間で新聞記事から発見するほど優秀な情報収集員だが、コンピュータ操作に非常な適性を見せる人間がバックアップについている。いまはその男がセキュリティを一時的に切っている。無論、発見に至ることはないと言い切るだけの万全の態勢で。

 彼は一瞬周囲に視線を走らせ研究室に侵入した。目的はわかっている。別の鍵、こちらもコピーしたそれで長田のデスクを開け、目当てのものを発見確保し、元通りにした上で研究室を出るまで五分とかかっていなかった。

「あったか」

 大学の外にはワゴン車が一台。ハッキングはここから行われていた。後部座席は取り払われ、コンピュータ室のようになっている。フィルムを貼った窓からそれが窺えることはなかった。

「あぁ、問題ない」

 助手席に乗り込みつつ彼は言う。そのまま打ち合わせどおり長田の自宅へと。その間に研究室から取ってきた鍵の型を背後へと。すぐさま音が聞こえる。ほどなく型から作られた鍵のコピーが前へと戻された。

 彼らには必要な証拠があった。だが、長田はデータ化をせず紙の文書で残しているらしい。ハッキングできないとなると危険ではあるが侵入するしかなかった。

「宗像、確証はあるのか」

「ある。日常の言動から考えて文書を残していないとは考えにくい」

「そうか。お前が言うならそうなんだろう」

 運転手がちらりとうなずく。あとは無言だった。宗像と呼ばれた男も雑談はしない。むしろ車内は私語さえなかった。

 そうするうちに郊外へと。運転手がヘッドセットから聞こえる声にかすかに返答を返す。助手席に座っている宗像にも聞こえないが、相手にはきれいに聞こえていることだろう。

「拠点からの報告だ。人の出入りはなし。住人もおらず」

「了解、侵入する」

「了解。状況開始」

 短いやりとりで宗像は車を降りる。長田の自宅は彼らに監視されていた。長田が不審を抱くことなく、だが確実にすべての出入りを見張れる位置に拠点は設けられている。もっとも、当の長田は同居人共々いまだ療養中だった。

 郊外の家であることが幸いしている。深夜の時間では人の気配はなく、長田宅の敷地内に入り込んでしまえば人目を気にする必要もない。宗像は滑るよう蔵の前へと。ふたつある蔵のうち、稀覯書が納められている方だった。

 宗像が研究室に取りに入ったのはこの蔵の鍵だった。用心深い長田は自宅にこの鍵を置いていなかった。同居人が触れることを懸念したのだろう。厳重な鍵のかかった研究室ならば安全だとでも思っていたか。彼らにかかっては無駄な努力だった。

 闇夜の猫のよう宗像は蔵へと侵入を果たす。手元だけを照らす灯りは外に漏れることもない。以前に一度侵入している蔵だった。あの時点ではピッキングするよりなくひやりとしたもの。だがおかげで周囲の把握は容易い。ざっと辺りを見回し、書類を探す。

 ――あった、これだ。

 ざわりと背筋が騒いだ。長田研究室の学生が自宅アパートで急死した件において宗教的遺物が関係しているのはおそらく間違いのないことなのだろう。彼らが問題にしているのは、その遺物がいま、どこにあるか、だ。長田は周囲には「然るべきところに預けた」と言っている。彼らは違う報告を受けている。そして宗像が見つけた書類には彼らの正しさが証拠として記されていた。文書そのものは必要ない、スマホで撮った写真はすぐさま外のワゴン車を経由して彼らのデータセンターへと送られる。解析はあちらの仕事だった。


 長田研究室は閉鎖されていた。不祥事があったのではなく、教授が現在も療養中のため。福島の突然死についで観劇中のテロとあり得ない事象に見舞われている研究室。学生たちもどこか落ち着かなげだ。

「どうです、安曇さん」

 そして安曇もまた、療養をしていた。目の前で伊藤の惨劇を見てしまった安曇の受けた衝撃は計り知れない。一時は返答すらできないほどだったのだけれど、ずいぶんと回復し退院も近い。

「……ありがと、大和君」

 かすかな笑みすら見せるようになったものの、大和はそれも不安ではある。あまりにも透き通るようで怖いと言ったら陳腐にすぎる。が、本心でもあった。

「そろそろさ、退院できそうじゃん? でも、さ」

「ん。どうしました?」

「……ねぇ、大和君」

 病院の真っ白いベッドの上にいる安曇は怖かった。わざと大和ははしゃいで見せるけれど、安曇の笑みは仄かにすぎて。

「一人に、なりたくないんだよ」

「あー。教授、まだ、ですか」

「ううん」

 その答えに大和は首をかしげて見せる。安曇の方が重い症状を患っているとばかり思っていたのだが。それに安曇は「神社だよ」とぽつんと言った。

「あれですか、確か教授のお父さんが――」

「うん。あちらで療養中だからね。教授もそっちでってことみたい」

「じゃあ……」

 あの広い長田の家に安曇は一人で暮らすことになるのか。ようやく大和にも彼の言いたいことがわかった。少し窶れてしまった安曇の手を取りにっと笑って見せる。

「だったら安曇さん、しばらく俺んところに来ますか」

「あ……」

「狭いアパートですよ? それでよかったら」

「……ありがと」

 きゅっと握られた手。野外劇場のときよりは遥かにぬくもりのある手。大和はほっと息をつく。それに気づいた安曇が小さく笑った。

「もう大丈夫だよ」

「に、見えませんが」

「なんだろうね、慣れちゃったとかさ、酷い言い草だよね」

 だが本音だ。安曇は言う。彼にとっての本音であろうとも大和にはそうは見えなかった。福島と伊藤と。事件の性質は違えども安曇の正気をすり減らした気がしてならない。

「僕はさ」

「あのね、安曇さん。俺のこと好き?」

「……は? なに言ってるの!?」

 以前のような生気が見受けられて大和は内心に息をつく。が、顔はにんまりとしていた。そのまま安曇を覗き込めば彼のほんのりと赤い頬。

「どう、安曇さん」

「そりゃ……って、そんなこと言わせないでよ!」

 抗議に大和の目は優しい。安曇が目を奪われんばかりに。

「だったらね、その俺の言葉だと思って聞いてください。ね?」

「……大和君の言うことはちゃんと聞いてると思うよ」

「一応ね。あのね、安曇さん、安曇さんがどう思ってても、俺は安曇さんは優しい人だと思うし、だから何もできなかったのが本当につらかったんだと思う。つらくて、悔しくて、だから慣れたことにしてるのが、いまの安曇さんじゃないかな」

 彼は答えなかった。大和と手を繋いだまま、静かにうつむく。聞いているのだろう、身に染みているのだろう。大和もまた静かに続けた。

「前にも言ったでしょ。俺には甘えてください。俺にできることなら」

 なんでもする。言いかけて大和は口をつぐんだ。福島にも、伊藤にも、そうしたかったはずの安曇。できなかった安曇。握りあった手にぬくもり。

「大和君の気持ちは嬉しいよ」

「安曇さんのせいじゃ――」

「だから、嬉しいって言ってるじゃん。――甘えてるよ、もう。だから、大和君と一緒にいたいって、言ってるんじゃない」

「あ――」

 ぽかんと開いた大和の口に安曇の目が笑う。久しぶりに見るほど和んだ、けれど妙な透明感のない、安曇らしい笑い方だった。

「甘えついでに言ってもいい?」

「なんなりと」

 にやっと笑った大和に力づけられるのか、安曇は窓の外へと視線を投げる。長田が充分に療養できるように、と本人も精神に傷を受けたのに手配してくれた個室はひどく静かで落ち着かない。大和がいるときだけ、音がする、そんな風にも感じる安曇だった。

「家にさ、帰りたくないんだよ」

 ゆっくりと噛みしめるような安曇だった。握りあった手がさっと汗ばむ。もし大和が吹き出さなかったら安曇は再び恐怖に駆られていたかもしれない。

「大和君、笑わなくても」

 何がおかしい、と言わんばかりの安曇を大和は身を乗り出してわざとらしく覗いた。近い距離にほんのりと赤くなる頬、少しだけ元気そうに見えた。

「だってさ、最強の口説き文句でしょうが」

「はい……って、はい!?」

「帰りたくないとか言われたら帰しませんよ?」

「そうじゃないでしょ!?」

「なんだ、残念」

「……そういう意味でもあるけどさ」

 ぼそりと言われて、からかったはずの大和が今度は赤くなる。吹き出したのも逆になった。そっぽを向いて、視界の端で安曇を窺う。今日は体調がいい様子。この分では本当に退院も近い。

「で、ほんとは?」

「大和君と一緒にいたいからって言ったら信じるの」

「信じますよ? そりゃ当然でしょ。でも他にも理由があるんでしょ?」

 甘えろと言ったばかりだろう、大和は笑って安曇の頬に手を添える。困り顔でためらった安曇は、けれど素直に目を閉じた。軽く触れるだけのくちづけ。大和のそれがどうしてこんなにも安堵をくれるのか安曇にはわかるような気がした。

「……あの家に、いたくないんだ」

「家に?」

「信じたい。わからない。だから、かな」

 家に、ではないのだろう。長田の側に、と言った方が近い。たとえ長田本人が神社で療養するのだとしても。彼の気配のあるところにいる、それを安曇は拒んでいた。

「考えたいこととか、色々あるし」

「いまの安曇さんがするのは考えることじゃなくてぼーっとすること、ですよ」

「わかってはいるけどね」

 大和もそれには苦笑するしかない。何も考えず呆けていられたら、安曇がそうできる人間ならばそもそもこんなことにはなっていない、とも感じる。

「一人でいると、いろんなことを考えちゃうよ。だから」

「うい、了解。じゃ、俺んところで療養ってことで」

 にっと笑った大和に安曇はほっと笑い返していた。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る