第2話


 肉体的な損傷はない安曇だった。療養といっても「のんびりと過ごす」が最も効果的なのかもしれない。少なくとも医者の手を離れたいまは。

「大和君」

 駅前で待っていた大和のところに安曇は小走りでやってきた。退院手続きを終えて一旦は自宅に戻った彼だったけれど。

「すごい大荷物ですね」

 何か取りに行きたいものがある、と言った安曇だった。同行しようと思っていた大和だけれど、それを彼は笑って拒んだ。そこまで心配しなくていいと。

「まぁね」

「持ちましょうか?」

「ん……。こっち、お願い。ノートパソコン入ってるから気をつけて」

「了解」

 にっと笑った大和に安曇も少し和んだ目を向けた。病院で見ていたそれより、生気が戻っている気がするのは、時間のせいか、自分のせいか。大和はわからず、しかし安堵してもいた。

「狭いっすからね」

 学生のアパートだ、期待してないよ。安曇は微笑む。実際、狭い部屋だった。そのぶんきれいに整理整頓されていて大和の人柄が窺える。

「ふぅん」

「なんです?」

「マメだなぁと思って見てただけ」

「安曇さんだってそうでしょ?」

 研究をしていれば本をはじめとした資料の山に囲まれることになる。いまはまだ学部生の大和ではあるけれど早晩、こちらの道を進むと安曇は疑っていない。

「ちゃんとしてないと、大変なことになるからね」

「ですよねー」

「けっこういるけどね。助手に資料は任せっぱなし、なんて教授も」

 さらりと安曇が大学の話題を出した。入院中はほとんど挙げなかったというのに。回復の兆しなのか、それとも違うのか。

「大和君」

「なんです?」

「そんな顔しないの。――僕ならもう大丈夫、とは言わないけどね」

 言ったならば即座に反論するつもりだった大和はそれに気勢を削がれる。そんな彼を安曇は笑った。適当な場所に荷物を置きつつ、目がほんのりと和らぎを帯びていて、大和はそれにも不安になる。

「大和君がさ、いてくれるじゃん?」

「当然でしょ」

「だからさ。なんとか、なるかなってさ」

 頼って欲しい。その言葉どおり安曇はこうして手を取ってくれた。それに大和は応えねばならない、強く思う。できることならばいつまでもそうしていたいと願いつつ。

「お任せあれ」

 いまはそう、冗談めかして言うしかない大和だと、安曇は知らない。

「で、そっち。なに持ってきたんです?」

 大和が持った荷物はパソコンだけだから中から出しておいて。言われたとおりにしつつ彼は安曇の手元を見やる。着替えの類があるのは当然にして。

「そんな顔しないでよ」

「だって、安曇さん。それはないでしょ」

「……わかってるくせに」

 福島の事件後、安曇は言っていた。もし次に何かがあったとき、この本に解決策が乗っていたらと思うと読まずにはいられない、何より内容がわからないのは怖いと。

 安曇の鞄から出てきたのは、蔵で見つけたあの題名のない本だった。解読する気なのだろう、普段使っていた英語とラテン語の辞書まで持参している。

「止めてもやるからね」

「だと思いましたよ」

「……止めないの?」

「止めてもやめないっていま、自分で言ったじゃないですか」

 ならば協力する、大和は穏やかに微笑んで言い切った。申し訳ない、言わずに視線を落とす安曇だった。この本を読むたびに正気が揺らいでいる気は、しなくもない。否、揺らいでいると思う。それに大和を巻き込む恐怖は強かった。

 ――でも、知らないのはもっと、怖い。もし、次に何かがあるのが、大和君だったら。

 そう思うといても立ってもいられない。だから、解読を続ける。安曇は決めていた。事前に言えば大和が反対するだろうから、こうして黙って家まで取りに行った彼の決心を大和も汲む。ぽん、と頭に手を置けば見上げてくる安曇の頼りない表情。

「頼ってって、言いましたよ?」

 子供のように頭を撫でられて安曇は涙ぐみそうになる。本復はいまだ遠い、自分でそれを感じていた。だからこそ大和が案じているのも、わかってはいた。

「……ん」

 そう返事をするのが精一杯の安曇を大和は黙って腕に抱く。入院して、ずいぶんと痩せた安曇。食事は管理されていたのにこの窶れよう。彼の受けた衝撃の強さを物語る。

「安曇さん、おいしいものでも食べましょう。今日はそれでゆっくりしましょう」

「じゃ、買い物行こう」

「はい?」

「なんだ、外食するつもりだったの」

「ですね。あとは外が嫌だったらなんか買ってくるか」

「いいよ、僕が作る」

 何かしている方が気が紛れるよ、苦笑する安曇に甘えることに大和は決めた。彼がそうしたい以上に大和もそうして欲しかった。口には、しなかったけれど。

 学生が借りているアパートが多い地区なのだろう。懐かしの商店街も充分に機能している様子。大和は店の主人たちともすっかり顔見知りらしい。あちこちで今日はなにが安いと声をかけられていた。

「すごいね、大和君」

「そうです?」

「僕はさ、あれだから……」

 商店街のような人の多い場所にいると安曇は「他人の中の異物」を感じるらしい。病み上がりのいまはまして。大和は買ったばかりの食材を手に小さく笑う。

「なにさ?」

 どことなくむっとした風なのは、やはり過敏になっているのだろう。安曇本人もそれと気づいて力なく笑う。どちらからともなく、手を繋ぎたい。思うのに人目が気になって肩先を寄せあった。

「本音、聞きたいです?」

「大和君のならね」

「――俺もですよ」

「うん?」

「普通の学生とか、商店街のおばちゃんとか。自分とは違うって感じてます」

 青年特有の羞恥ではない、安曇はそれを感じ取っている。大和は思春期というには遅すぎるけれど、思春期には他者と自己の明確化でそのようにも思うもの。いまの大和は違った。

「それは……」

「安曇さんが感じてるのとも、違うのかもですよ? 俺も他人とは馴染めない。それが本音です」

「そっか」

「わかります?」

「大和君はすごいなって思ってた」

 のんびりとアパートへの道をたどる。夕暮れ間近の空はすっきりと赤い。燃えるようではなく、いっそ清々しいと言いたくなる美しい夕べの空。

「は? なにがってか、どこが!?」

 そこに響く頓狂な大和の悲鳴じみた声。よほどおかしかったのか安曇も声をあげて笑っていた。

「だってさ、馴染めないって思うのにちゃんと馴染んでるように見えるよ」

「そりゃ、まぁ。努力はしてますし?」

「できる努力がすごいねって言ってるんじゃん」

 肩をすくめた安曇は、自分には無理だと語るよう。向き不向きでしょ、笑い飛ばす大和に向けられた眼差しは温かかった。

 アパートの狭い台所だった。むしろこの規模の部屋にそれなりに使える台所があることが驚きか。一応は料理ができる、という程度にはなっている。

「最近は電気のも多いじゃん?」

「火事防止らしいっすよ」

「だってね。僕はガスコンロの方が好きだけどさ」

 火をつけたままうっかりしても燃え広がることのない電気は悪いものではないが、どうにも安曇は頼りない気がするのだと笑う。

 狭すぎて長田宅のよう、並んで料理をするわけにはいかなかった。あれは楽しかったのに、大和が思い返していたら彼もだったらしい。

「――落ち着いたらさ、教授のところを出ようかなって、思ってるんだ」

「なんです、急に」

「んー。プロポーズ?」

「……はい!?」

 シンクで野菜を洗いながらの安曇だった。背中を向け続けているのは羞恥のなせるわざか。ぎょっとした大和だったけれど、その顔は耳まで染まっていた。

「教授のとこ出てさ、新しくどっか部屋借りてさ。……大和君、一緒に暮らさない?」

「そんなに洗ったらレタスなくなりますよ」

「って、それはないでしょ! 人が一世一代の決心で言ってるのに、もう」

「いや、まぁ。照れますし」

 安曇が更なる言葉を続けることはできなかった。洗いすぎて葉っぱが穴だらけになったレタスを手に安曇は凍りつく。背後から大和に抱かれていた。

「のんびり行きましょう。いま、俺はここにいますよ。焦らずゆっくりいきましょうよ」

「……それって断ってる?」

「どーしてそーなる!?」

「そう聞こえるじゃん!」

 抗議の声が笑っていたことに大和は安堵の息をつく。嬉しかった。安曇がそこまで思ってくれたことが、こんなにも嬉しいとは想像したこともなかったほど、嬉しかった。

「大和君」

 ふっと揺らいだ安曇の声音。気づけば安曇の肩に額を当てて大和は彼を抱いていた。抱いているつもりで、安曇にすがっていた。

「君がさ、そんな風に甘えてくれるのは、なんか嬉しいね」

「……別に」

「大和君は僕に甘えろって言うじゃない。僕だって甘えられたい」

 ふふ、と小さく笑い声をあげた安曇に顔を見せないまま大和は微笑む。互いに顔など見えない、それでいてはっきりとどんな顔をしているかわかる。

「なんかさ――」

「いいですよね、こういうの」

「うん」

 ぬくもりが、温かくて優しくて。大和の側にいると息ができる、安曇は何度となく思ったことをいまもまた感じていた。

「正直、病院にいるよりずっと安らぐかなぁ」

「そうです?」

「先生方はプロだし、よくしてくださったと思うよ? でも、その。まぁ、ね?」

 唐突に口ごもった安曇に大和は吹き出し、ようやくに彼を解放する。ちらりと見やってきた安曇の赤い頬、にんまりと覗き込んだ大和だった。

「なにさ!」

「彼氏の方がずっといいって言われて喜ばないと思います?」

「な……」

 絶句し、安曇は料理に戻った。無理やりに戻った。おかげでまたレタスが穴だらけ。大きく笑って取り上げては皿に盛る大和の手元を恨めしげに安曇は見ていた。

 病み上がりの安曇に無理をさせたくない大和だった。出来るだけ簡単なものにして、とのリクエストに応えた安曇はサラダと炒飯に手早くスープまで作ってくれた。

「すげー。炒飯て俺、作るの下手なんですよ」

「コツがあるからね」

 自慢げな安曇に促されスプーンを取ればほんのりと和風の香り。作るところを見ていた大和だったけれど、やはり少し不思議。

「あ、うまい」

「炒飯に鰹節って合うでしょ」

「ほんとだ」

 刻んだたくあんのかりこりとした歯ざわりや仄かな甘味も大和好みだった。香ばしく焦げた醤油の香りがまた食欲をそそる。炒飯というより焼飯だね、笑う安曇も食が進んでいた。




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