第3話


 食器を洗い片付ける大和の背中を見ていた。ずっとこのまま続けばいい、そんなことを思う自分がほんのりと気恥ずかしい。彼が振り返ったとき、安曇はゆっくりと首を振っていた。

「どうしました?」

「ううん。さぁ……やろうか」

 大和を見ず、本を手元に引き寄せる。見ればきっと苦い顔をしているに違いない。それを見るのが怖いのだと、ふと気づく。

「わかりました。じゃ、英語の辞書。担当しますから」

「大和君……」

「はいはい、やっちゃいますよ」

 にっと笑う大和の手を取れば水仕事に冷たい。温めるよう両手に挟んだ安曇に彼はくすぐったげ。その顔を見ているのが恥ずかしくて安曇は視線を落としたまま。

「安曇さん」

 なに、と問うよう顔を上げた安曇だった。その頬に手を添えれば目許を染めた彼が目を閉じる。仄かに開いた唇に触れれば甘い。柔らかなくちづけに双方が狼狽する。笑ったのは安曇が先だった。

「ありがと。やろうか」

 本を開いた安曇に大和は知る。自分がいない間に、あの劇を見に行く間に、安曇がどれほど調べたのかを。付箋代わりの紙片が数多く挟まれていた。

「あれ、付箋使わないんです?」

「古書に付箋は厳禁だよ。糊が残るじゃん」

「あ、なるほど」

「やりがちなんだけどね。図書館で借りた本とかもやっちゃだめだからね?」

「うい、了解です」

 言葉をかわしつつ、安曇が書き出した単語を大和が引いていく。ラテン語は安曇が自分で調べる。おかげで捗るのだけれど、やはりすんなりと解読できるわけでもなかった。

「安曇さん、いま何を調べてるんです?」

「……怒らない?」

「言ってくれなきゃ怒るかも?」

 冗談めかして言う大和に安曇は肩をすくめる。偶然だった。以前から翻訳を続けている個所にその記述を見つけたのは、否、それだと気づいたのは偶然だった。

「あの舞台でさ、なんか、変な化け物が出てきたの、僕の気のせいじゃないよね」

「むしろ全部化け物だった気がしますが」

「あー。確かにねぇ」

 はは、と虚ろに笑った安曇だ。本当ならばまだこんなことができるような精神状態ではないだろうに。立ち止まる方がよほど恐ろしい彼だとわかっているから大和も止められない。

「最後の方、かな。舞台に真っ黒い塊みたいなの、出なかった?」

「出ましたね。……覚えてます」

 忘れられれば楽になれるのに。大和は入院加療するほどではなかった。が、そのぶん一人で悪夢にうなされた。何度飛び起きたかわからない。夢の中の化け物は粘塊のようでいて、可塑性があり、ねちゃりねちゃりと蠢いて人間を喰らっていた。

「大和君」

 案ずる安曇の眼差しに大和は強張った笑みを返す。心配しているのは自分なのに、安曇に懸念されてはどうにもならない。

「大丈夫ですよ。嫌な夢見たってくらいですから」

「見るよね、僕も見た」

 大和のそれと自分のそれと。どちらがより恐ろしかったのだろう、無意味なことを考えている己と気づいて安曇は溜息をつく。そして彼の指がぽん、と本の一節に乗せられた。

「ここ。おかしいんだ」

 そう言われても大和には咄嗟に読み解くことができない。安曇もわかっているのだろう。すぐに言葉を続けた。

「バグ=シャース」

「はい?」

「そう、読むんだと思うんだけどね。コレ人語って言いたくなるくらい発音の仕方がわからない。とりあえず仮称バグ=シャースってことで進めるけど」

 安曇は半ば解読が進みつつある単語と合わせて大和に語る、そのおかしさを。

「オカルトっぽさはこの際だ、忘れて。こういうもの、として語るけどさ。――どうもね、召喚手順って言えばいいのかな、そういうのが書いてあるんだよ」

「あれっすか。ゲームに召喚師とかジョブがあったりするじゃないですか。そういう感じ?」

「むしろ悪魔召喚の方が近いと思うよ」

 察していたからこそ、大和は長閑な単語を挙げたのだろうけれど。安曇は苦笑して、ゆっくりと首を振る。痙攣するよう、指先は本を叩いていた。

「召喚手順って言うくらいだ。面倒な手間がかかるっぽいのは、わかるよね?」

「……ん? それって」

「そう。正直、言いたくない。でもね、あのとき長田教授はなんて言ってたか、大和君覚えてる?」

「読んだだけ。苦し紛れに読んだだけ」

「……よく覚えてたね。うん、僕もそう、聞いた」

 だから、おかしい。安曇は再度呟く。偶然に呼び出すなどということはあり得るのか。あのようなものを前にして事の可否を問うのは無意味かとも思う。だが、ここに厳然として召喚の手順がある。これは、無視できるようなものなのか。

「手順って、たとえば準備が必要だったり、するんですかね」

「まだ、はっきりとはわからない。粗訳だからね。ただ、少なくとも読んだらこんにちは、はないね」

「そりゃそうですよねー。うっかり読み上げてハローは嫌だ」

 二人して馬鹿な冗談を言っている、その自覚はあった。それだけ、恐ろしい。腹の中に冷たいしこりがあるかのよう。知らず指先を絡めあっていた。ただそれだけのぬくもりが、命綱のよう。

「……もうちょっと、続けるね」

「うい、手伝い――」

 言いかけたとき、大和のスマホが鳴った。ちらりと視線を走らせた大和はメールだ、とだけ彼に告げて内容を読みはじめる。その間に安曇は翻訳を再開していた。

 ――やっぱり、おかしい。

 この本の記述が事実だ、という前提にはなる。だが、福島の件がある。劇団の件がある。嘘八百だとは、安曇には到底考えられない。召喚だけが真っ赤な嘘、とはとても。

 ざっと翻訳しただけではある。が、確かにあのときの長田の言動はあり得ない。記述によれば、入念な準備と定められた手順によってバグ=シャースは現出する。そして。

 ――もし、手順が間違っていたら、喰われていたのは、教授だった。

 ゆえに、ただ読んだだけ、はあり得ない。長田は準備をしていた。そうでなけらば一番に襲われたのは召喚者である長田だった。

 ――教授が呼び出して、舞台にけしかけた。襲わせた。わかってて、人間を、化け物に、喰わせた。

 あれが何かなど安曇は知りたくもない。ただの化け物ではないことを悟っている。あれは、ある意味では神の一柱ともいうべきものだと。込み上げてくる嘔吐感は恐怖という。

「安曇さん、ちょっといい?」

 大和の真剣な声音に安曇は顔を上げた。二人共が相手の顔色に己の顔色を見た、そんな気がする。それほど酷い顔をしていた。

「ん、いいよ」

「そっち先にします?」

「大和君が先でいいよ、こっちは確証が得られたくらいだ。それもどうかと思うけどね」

 まったくだ、かすかに笑う大和に精彩が欠けていた。それから大和はふと、自分のタブレットを引き寄せて、何かを表示させた。

「さっきのメールです」

「個人宛のメールを見せないように」

「見られて困るようなものでもないっていうか、そのまま見てもらった方がたぶん、いい」

 きつく唇を引き結んだ大和に安曇はぞっとしていた。いま、これから、知りたくないことを、知ることになる。まだ、まだあるのだと。そのとおり、うなずいた大和が眼前に。

「ここで――」

「やめない。やめたら、もっと怖い。絶対に後悔する。だから、やめない」

 ならば見ろ、とタブレット側で表示させたメールを大和は差し出す。自分はスマホで同じように読みつつ。安曇は深呼吸して、それを読んだ。

「は……?」

 ぽかん、とした声が出た。意味がわからない。このメールは、何を言っているのかと。見上げた大和の険しい表情がなければ、質の悪い冗談だ、ということだろう。

「こないだの、新聞社の奴。覚えてます?」

「黄衣の王の出版関係を調べてくれた人だよね?」

「そいつに頼んどいたんです」

 福島を死に至らしめたあの彫像の行き先を。長田は然るべき場所に納めた、そう言ったけれど。

「大和君――」

「すみません、疑ってました。安曇さんには、気に入らないことだったと思います」

 だが、鵜呑みにした結果が怖かった、率直に言う大和に返す言葉を安曇は持たない。いまとなっては、大和こそが正しい。

 メールには、彫像の行き先が記されていた。安曇にはすぐにわかる。それは、戎神社と関係が深い社のひとつ。長田がたびたび出向いている神社だ。安曇も荷物持ちとして同行したことがあるほど、馴染み深い。

「……あんなものを、納めるにはさ、神社とか、最適だと思わない?」

「安曇さんは思ってます? 俺は思いませんよ」

「どうして」

「神社は正しいのかも。それは、認めます。あんな呪いとしか思えない代物です、別の神さま頼りってのは、有りかなと思いますよ」

「……でしょ?」

「でも、だったらどうして安曇さんに言わなかったんです? いまの安曇さんの顔見ててわかりましたけど、この神社、知ってるんですよね?」

「まぁね」

「なら、もし何もおかしなことがないなら、教授は安曇さんに『あの神社にお願いしたよ』って言うんじゃないですか」

 大和の言うとおりだ、安曇は目を閉じる。以前の長田ならば、そうしたのではないか。否、もしかしたらずっと、自分はそのように欺かれてきたのか。

「安曇さんにとって、教授が恩人で恩師なのは間違いないです。安曇さんが大事に思ってるのも、間違いないです。ずっと教授だって安曇さんを大事に可愛がってきたんだと、俺は思います」

「……大和君」

「いつからとか、考えちゃダメですよ」

 微笑んだ大和の手が安曇の頭に置かれては、そっと髪を撫でおろす。指先で解きほぐすよう、何度も梳かれる髪。温かな大和の手をまざまさと感じて安曇は息をつく。

「……うん」

「で、話。進めますよ?」

「いいよ、大丈夫」

 無理をして笑みを作ったとは大和にもわかっている。が、安曇にはまだ読んで欲しい個所がある。ここだ、と示した大和に彼は眉根を寄せた。

「どういう意味なんだろう……」

 メールには「彫像は古き印によって封印されている。封印を解かない限りは安全である様子」とあった。あの悪夢が蔓延することはない安堵と共にやってくるのは、茫漠とした感情。

 ――封印が、できた。だったら。

 福島は。なぜ。安曇は口に出さなかった。大和も問い詰めることはしなかった。




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