第6話
「安曇さん……」
本を読む彼の顔色、先ほどより悪くなってはいないだろうか。蔵の赤みを帯びた薄明かりのせいだけでは断じてない。大和の声にのろりと顔を上げた。
「あぁ、うん」
「大丈夫です?」
「何が……って、うん。変な感じは、するね……」
思い出したよう安曇は自らの腕をさすった。今更ながら肌が粟立っている、と気づいた様子。それが不安になる大和だった。
「ここだと、さすがに読みきれないな。辞書があるから、部屋に戻ろうか」
「あんま迷信っぽくて言いたくないんですけど。コレ読んで平気なんですか」
「うーん」
腕組みをして唸る安曇だった。彼自身、確信は持てないらしい。ただの本であるというのに。だが二人ともこれが何事もない書籍だとは感じていなかった。
「でも、さ。福島君。なんとか、したいじゃん」
彫像に関することが載っているらしきこの書籍。辞書を使えば解読だとてできるだろう。ならばやることはひとつ、安曇は思う。
「大和君は――」
「付き合いますからね?」
もし気分が乗らないのならば。言いかけた安曇に大和は悪戯っぽく笑っては片目をつぶる。その仕種に安曇は小さな笑い声を上げた。そして自らの緊張に気づいたのだろう、苦笑している。
「とりあえず蔵から出ようか」
ふと安曇は考えてしまっただけだった。こんな本がこの書庫にはあったのだと。すべての本を知悉しているなど豪語はしない。だが、研究に利用したことも多々ある蔵。それでもまだ知らない本があった。
――これ一冊だけなんだろうか。
まさかと思う。まだあるに違いないと思う。あって欲しくなどない。けれどしかし、この蔵にはまだまだ多くのこのような書籍が。あるいは。
「安曇さん」
出ましょう、促されて安曇は大きく息を吸った。古い書籍の醸し出す時間の匂いが好きだった。いまは、わからない。扉を閉める軋んだ音が耳障りだった。
「僕の部屋に辞書があるから」
「ラテン語の辞書持ってるんですか。すごいな」
「けっこう必要だからね。格変化なんて滅びればいいのにね!」
肩をすくめて屋敷へと戻る安曇の横顔は少し色が戻ったような。ただ明かりの色が変わっただけかもしれない。
温かいものが飲みたい、そう言って安曇は台所で茶を淹れてきた。そこだから、と先に彼の部屋で待つ大和は興味深げに室内を見回す。和室を使いやすくしているのだろう、畳敷きではあるけれど机に椅子、テーブルと設えは洋室のよう。何よりいかにも学者の部屋、といった佇まい。あの蔵を見たあとでは小規模に見えるけれど安曇の本棚も立派なものだった。
「お待たせ。ほうじ茶だけど」
「お。けっこう好きなんですよ」
「淹れといて言うのもなんだけど、渋い趣味してるね」
笑う安曇の顔色を窺ってしまう。それと気づいた彼が大丈夫だよ、と微笑んだ。
大和が覗き込めるように、と安曇は机ではなく畳の上に置いた低いテーブルへと本を広げる。明るいところで見ても、不安感は薄れなかった。
「気のせいじゃなさそうだよね」
「安曇さんもですか。やだなぁ」
「止める?」
「まさか」
ふっと笑った大和にこそ力をもらった気分の安曇だった。背後の本棚から大きな英語の辞書とラテン語のそれを引き出す。
「めんどくさいなぁ」
言い回しが凝りすぎていて何を言いたいかさっぱりだ。ぼやきながら翻訳するのはたぶん、寒気が止まらないせい。覗き込んだ大和も同じ気分だった。
――悍ましいってのは、こういうことか。
安曇の手元と本とを行き来しつつ背筋が凍って仕方ない大和だった。
「知っている、いない? 何これ」
「んー、知られざる、とでも翻訳するんですかね」
「あぁ、それか。うん」
顔を顰めて翻訳する安曇を大和は手伝っていく。英語の辞書を大和が担当し、ラテン語は安曇が引く。それでずいぶん捗った。
「うん、やっぱりこれだね」
手元にメモを取っていた安曇がわけのわからない単語の連なりだったものを理解できる日本語へと直していく。安曇の指先を追う大和の目、次第に険しくなっていった。
「知られざる異次元の門の守護者。海底に封じられし者」
声に出して読み上げた安曇を大和は止めそうになった。何がどうではない、ただひたすらに悍ましい。安曇の声であったとしても、まるでそれは海の底から轟く忌まわしい響きのよう。
「彫像と夢のことも書いてあるね。ここだ」
本とメモとを示しつつ安曇は言う。固く唇を引き結んだまま大和は聞いていた。福島に、このとおりのことが起こっているのならば、彼は。
本には、記されていた。海に封じられし神の像を持つものに訪れる夢を。海底の神殿の夢。福島が語ったとおりの夢が書き記されている。ざわり、肌が騒ぐ。知らず二人して腕をさすった。
「夢が続くと……」
「うん、神話に過ぎないって、言いたいけど、ね」
「あまりにも合致しすぎて笑えねー」
言いながら大和は笑う。無理にそうしていると安曇にもわかるほど固い笑み。伸ばした腕がぽん、と大和の肩先を叩いた。
「夢に引かれたものは神に彫像を返すべく捉われるって、どういう意味ですかね」
「……わからない。ただ、ろくなことには、ならない気が、するんだ」
「……ですね」
しばしメモに視線を落とし無言になった二人。同時に深く息を吸い、顔を見合わせてはかすかに笑う。はたと気づいたよう安曇が時計を見た。
「ごめん、こんな時間だ」
「いいですよ、気にしないでください」
「うん……。その、さ」
なんです、と首をかしげて促せば視線を外した安曇だった。
「ちょっとさ、怖いんだよ」
向こうを向いたままの彼の呟きめいた言葉。笑い飛ばすことは大和にはできなった。
「俺もです」
ゆっくりとうなずいた大和にほっとした安曇の気配。宗教学を修めているというのに本の記述を恐れていては話にならない、そう自嘲するかのよう。
「やっぱ怖いもんは怖いですよ」
「……ありがと」
「いやだから、俺も怖いんですって!」
福島の恐怖が感染してしまったかのよう。否、目の当たりにしたかの。他人の語る夢を克明に記述として読んでしまったからこそ、言い知れぬ悪寒を覚えた。
「大和君さ、よかったら、その。泊まっていかない?」
ぼそぼそと言う安曇に大和はほんのりと眼差しを和ませる。いまだけは恐怖も薄れたとばかりに。
「助かります。一人で部屋帰って寝るのかと思うとすげぇイヤだった」
「夜道とか、怖いよね」
「なんで言うんですか! もう」
冗談口を叩き合うのは、それでなんとか常態に復したい、そんな思いであるのかもしれなかった。
「布団、取りに行くの手伝って」
ふふっ、と笑った安曇が立ち上がる。客用布団は別の部屋だ、と言われた大和は毛布でも貸してもらえれば充分なのに、と思う。
「ご大層なもんは要らないですよ?」
「残念だったね」
「あ、最初から……」
「逆。この家に粗末な客用布団なんてないんだよ」
「だから客用布団なんて」
廊下を行きながら戯言をかわす。それもこれもまだ恐怖の残滓があるゆえに。
「だからってじゃあ僕の布団で一緒に寝るの? そんなに怖い?」
「安曇さん!!」
「大和君、図体のわりに怖がりだったんだねぇ」
「怖いって言ったの安曇さんじゃないですか。いいっすよ? 俺、帰っちゃいますよ?」
からかったつもりだった大和の袖口、掴まれてから双方共に驚いた。照れ笑いを隠しきれなかった安曇がずかずかと行き、引き戸を開ける。首だけ突っ込んで覗いた大和は呆気にとられるところ。
「旅館だ……」
床の間つきの和室など旅館以外で見たことはない。本当にここは民家か、と言いたくなる。同感だよ、安曇が笑った。
押入れに片付けてある布団を担いだのは当然にして大和。このくらいたいしたことではない、と敷布団ごと掛け布団までくるんで肩へと乗せた。
「さすがだね」
くすりと笑った安曇は枕だけを両手に抱く。ぬいぐるみでも抱えているかのようだった。
安曇の部屋に並べて布団を敷いても二人はまだ眠らなかった。明かりを消そう、その一言がまだ言えない。隣あって横たわり、他愛ない話をぽつりぽつりと。
「安曇さん、学食のメニュー何が好きです?」
「秋刀魚の蒲焼丼。たまにメニューに乗るんだよ」
「いいな、それ。蒲焼とかの甘辛い味付け好きなんです」
「あとね、金曜日の夕方に行くと特製プリンがある」
「なにそれ! 知らなかった!」
「農学部の卵で作るんだよ。牛乳も。おいしいよー」
「金曜日っすね、何時ごろ?」
「それがわかれば並ぶんだけどね!」
決まっていない、笑う安曇は少し気分もよくなってきた様子だった。件の本は辞書共々片付けてある。部屋の本棚に入れただけではあったけれど視界に入っていないだけで心持ちが違った。
少しずつ会話が途切れがちになり、うとうととしてはまた話す。繰り返すうちに安曇は眠ったらしい。それを確認し大和は明かりを落とす。暗くなった瞬間、安曇は目を開いたけれど、体の上を子供のようにぽんぽんと叩かれるとかすかに微笑んで眠った。
その晩、何度となく安曇は目を覚ます。飛び起きたあと、体を両腕で抱える。震えていた。
「安曇さん」
「ごめん、起こしたね」
気にするな、言う手間も省いて大和は彼の腕を引く。不思議そうに従った安曇を布団に引き込めば小さな笑い声。
「おやすみなさい」
腕に抱くというよりは、同じ布団に並んでいるだけ。それでも大和は温かかった。時折痙攣する安曇の体の上、なだめるよう大和が腕を置く。それだけでずいぶんと心が休まる。そんな自分を内心に笑い、けれど安曇は眠りに落ちる。もう目覚めなかった。
――安曇さん。
奇妙な本の翻訳がどれほど負担だったのか。目覚めはしなかった安曇だけれど、体はまだ震えていた。あるいは夢を見ているのかもしれない。
もう少しだけ、こうしていよう。大和は思う。安曇の寝息が穏やかになるまでは。
夜も更け、郊外は音もない。人も獣も眠りにつく未明。夜明け前のひときわ静かなころ。二つの蔵に侵入者があったと気づくことはなかった。
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