第5話
大学生の大和はやはりよく食べた。体格もあるのだろう、旺盛な食欲が見ていて楽しいほど。
「よく食べるねぇ」
「いや、すいません」
「うん? 健啖な人って、見てて楽しくない? 大食いの選手とか」
「一緒にしないでください!」
どこか悲鳴じみた、けれど明るい大和の笑い声に安曇もしばし憂慮を忘れた様子。それも食卓を片付けるまでのことだった。
「さぁ、やろうか」
「うい」
にっと笑った大和に安曇は目を細め、そして家の奥へと。そちらに書斎があるのかと思っていた大和だったけれど、安曇は唇で笑う。
「いま明かりつけるから」
暗い廊下だった。こうしてあちこちと見てまわると家ではなく、屋敷と言いたいほど。おかげで明かりのついていない場所はひどく寒々しい。
「あ……」
ぽ、と灯った赤みのある電灯の光。まるで横溝世界だ、大和が呟くのを安曇は見ていた。
「はい、サンダル」
見れば廊下の奥は扉になっている。明かりの薄さに気づかなかった己を恥じる大和の前、安曇はさっさとサンダルに履き替えて扉を開けた。
流れ込んでくる夜気。そこは庭だった。どうやら屋敷の裏手にあたるらしい。そしてすぐそこに建物があった。
「蔵、ですか?」
「うん。教授は書庫にしてるよ」
元々が物をしまっておく場所だから保管に都合がいい、安曇は言う。書物に光はよろしくないから窓は潰して電気を引いてあるのだとも。
「すげぇ」
感嘆以外に言葉のない大和だった。その彼を驚かせることを安曇は言う。
「あっち。もうひとつ蔵があるの見える? 向こうは稀覯書が納められてるんだ」
だから教授がいないと開けられない、そんなことをさらりと言われてしまった大和はぽかんとするばかり。確かにここは郊外ではある、だがしかし都津上市内。これほどのものがあるとは、まさかとも思うのだろう。大和の表情に安曇はどこか自慢げだった。長田の蔵書に驚かれて自分まで嬉しいのかもしれない。
安曇が蔵の扉を開ける。大振りな鍵はまるで時代劇のよう。扉もすんなりとは開かずに軋んだ音を立てた。
「油は差してるんだけどねぇ。古いから毎回すごい音するんだよね」
肩をすくめて、けれど安曇にとっては慣れた場所なのだろうと窺わせる態度だった。一連の動作で明かりをつければ一面の書架。そして本の壁。見事なものだった。
「安曇さんもここで研究したり?」
「するよ。正直、大学の図書館より必要な本が多かったりするしね」
「すげぇ」
それしか言えなくなってしまったような大和をくすくすと安曇は笑っていた。
「福島君、海の夢って言ってたよね」
だいたい分類はしてあるのだけれど、多岐にわたる文献であり、かつ正確な分類が可能な分野でもない。海の神話が山奥に残っている、など日常茶飯事だ。
「大和君」
「なんです?」
「彫像の写真、もう一度見せてくれる?」
福島から見せてもらった像の写真をスマホで示せば安曇は難しい顔をして書架の間を進んで行く。目当てはある様子だった。
「そういえば、聞いてもいいですか?」
「なに?」
「福島さん、教授からお借りしたって言ってたんですよ。安曇さん、見たことなかったのかなって」
「あぁ、なるほどね。回答は『ない』だね。たぶん、想像だけど、隣の蔵にあったんじゃないかなぁ」
長田は福島に期待している、と安曇は知っていた。何くれとなく面倒をみているし、時折は安曇も共に食事に行ったりもする。長田にとっては可愛い教え子なのだろう。
「だから、せっかくの卒論だしね。貸したんだと思うよ」
貴重な彫像であっても福島ならば丁寧に扱う、と長田もわかっているのだろう。それだけの信用が彼にはあった。
「うん、とりあえずこの辺から見て行こうか。大和君はそっちの端からお願い」
「了解」
短い返事に安曇の目が和んだ。大和も文献調査の嗜みはあると見えて、安曇よりは手間取っているものの次々と本を見ていく。だが蔵書量が半端なものではない。なにしろ大和と安曇、端と端に別れて調べていると一向に近づいた気がしないほどだ。
「あっと……」
一冊の本を書架から引き抜いたときだった。ぼんやりしていたつもりはなかった大和だけれど、書架に挟まっていたのか本の間にあったのか、何か薄手のものを床に落としてしまっていた。
「何かあった?」
ちょうど拾い上げたとき、安曇がこちらにやってくる。そして大和の手の中の紙片へと目を向けた。
「なんで、こんなところにこんなものが? 間違って入れちゃったかなぁ」
ぼやく安曇は正体を知っているのだろう。それは封筒だった。定形外郵便の大きめのそれで、どうやら中には冊子と思しきものが入っている様子。差出人は戎神智会、となっていた。
「なんすか、これ? めちゃくちゃ怪しいってか、新興宗教?」
「先入観はよくないね」
「いやだって」
「比較宗教学はいずれの宗教にも加担せず個々の差異あるいは共通点を明らかにする学問だよ」
「あ……はい。すみませんでした」
「ま、その名前はないなって、僕でも感じるけどね」
悪戯っぽく笑った安曇だった。それにつられるよう大和も笑みを浮かべ、そして再び手の中に視線を落とす。
「教授はね、神社の神主さんの家系なんだよ」
「はい?」
「戎神社。その氏子の集まりが戎神智会で、それはその会報」
唖然とする大和の表情を安曇は楽しげに眺めていた。大きな体をしてここまで素直に驚かれると気持ちがいい、そんな気分になる。
「お父さんがいまの神主さんなんだけど、お体を壊しているみたいでね。あまり人前には出てこられないけど、まだまだ頑張ると仰ってるみたい」
「すいません」
「うん?」
「病人さんがいるところに無遠慮に入り込んじゃって」
身を縮めるようにして詫びる大和に安曇の笑み。よく気のつく子だな、と微笑んでいた。
「大丈夫。お父さんはここじゃないから。やっぱり神主さんなんだね。神社の側がいいって、そちらで療養なさってるよ」
実のところ安曇もあまり会ったことはない人だった。まるきり面識がない、というわけではなかったけれど、安曇が引き取られたころから体調は思わしくなかったと長田から聞いている。
「そうですか、よかった……って、よくはないんですが」
「ほんと、大和君は」
「ん?」
「なんでもないよ」
ふふ、と笑う安曇から大和は目をそらす。どうにも気恥ずかしかった。
「いずれ教授が神主さんを継ぐんだろうね」
それが遠いことを願っているけれど。安曇は優しげにそんなことを言う。恩人の家族と思うせいなのかもしれない。
「あー。それってありなんですか?」
「ん、何が?」
「ほら、長田教授って、比較宗教学の教授なわけじゃないですか。それが宗教活動って、どうなのかな、と」
歯切れの悪い大和だった。率直に尋ねてくれるのを安曇は嬉しく感じていたのだけれど。研究室の学生たちとはこのような話をした覚えがない。
「なに言ってるの、大和君」
「あ、やっぱ……」
「違うよ。って、あぁ、そうか。基礎のおさらいと行こうか?」
にやりと笑う安曇に大和は目を見開く。たかだか十日ほどではあるのだけれど、これほど闊達な安曇を見たのははじめてだった。
「原始一神教説はわかるね?」
「うい、わかります」
「提唱者は誰?」
「ヴィルヘルム・シュミット」
よく勉強してるね、安曇が微笑む。わざわざ他大学から編入してまでこちらの道に来たのだ、熱意は高いということなのかもしれない。
「そのシュミットだけど。彼はカトリックの神父だったよ」
「は?」
「神父だけど、宗教学をやってた。自分の信仰と学問は別、とするべきだね」
その辺りはさすがに知らなかったのだろう、大和が目を瞬いている。ましておさらい、と安曇が言ったとおり基本の学説になってはいるけれど現在ではそのまま受け取られることは少なく、宗教学の歴史として勉強することが多い。たいていの学生にとって「原始一神教説=シュミット」で終わらせてしまうものだった。
「だから教授が神主さんになっても別にいいんじゃないかな?」
「なるほど、そういうことなんですね。ふうん……」
「何か疑問点がある?」
「んー、たぶん俺は宗教がぴんとこないんですよ。むしろ信仰が、かな」
「でも君だって初詣は行くでしょ? それは立派な信仰行為だと僕は思うよ。信者だ!って自覚があるかないかはまた別の問題だしね」
「難しいっすねぇ。でも、そこが……楽しい」
にっと笑う大和に同感な安曇だった。学問は楽しい。それをこうしていると再確認するかのような。互いに笑みをかわし、なぜとなく慌てて書架へと向き直る。まだ調査は済んでいなかった。
それを見つけたのは安曇だった。端と端から探していた二人の距離が手を伸ばせば触れられるほどに近づいたころ。安曇が何気なく手に取った一冊の古びた書籍。
「安曇さん?」
ふと彼を見やった大和は眉を顰める。安曇が手にした本になぜと理由はなく忌まわしさを覚えた。そんなものを持つな、思わず言いたくなった。
「あ、うん……」
安曇自身、そう感じているらしい。表紙に題字は記されていない。中表紙にも。はらりとめくれば読みにくい掠れた活字。相当な年月を経ているか、あるいは少数部だけを刷った自費出版か。
「流通したのもではない、かな」
奥付にそれらしい文言がないことから安曇はやはり特定の人のためにだけ刷ったのだろうと考える。題字がないのも、それでわかるから。あるいは。
「時の政権に睨まれる類かも」
「禁書ですか?」
「かなって思う。政権には教会なんかも含めるけどね」
ざっと見たところ、ラテン語混じりの英語だった。一読する、というわけには行かなくて単語だけをとりあえず拾った安曇だ。
「あぁ、当たりっぽい、な……」
言いつつ顔色の優れない彼だった。大きめの書籍を持つ手に力が入っているのを大和は見てとる。単語を拾う間に、と彼に代わって本を持てば。
――なんだ、これは。
手の平に伝わる冷気、否、寒気か。触れているだけで背筋が凍るような心持ちになったのははじめてだった。うつむき加減で本を読む安曇が案ぜられてならない、たかが本だというのに。大和はけれど己の背中に冷や汗を感じていた。
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