第2話


 歓迎会は研究室の雰囲気のままに賑やかで盛況だった。ただ酒が入ってもさほど下品にならないのは教授のおかげかもしれない。あとは好きにしたまえ、と席を立った後でも学生たちが羽目を外し過ぎることもなかった。

「飲み過ぎてない? 大丈夫?」

 気を使ってくれているのだろう、隣には安曇がついてくれていて、大和は安心して楽しんでいられた。それを言えば目で笑う安曇がいる。どことなく体の内側が騒めくような感覚だった。

「安曇さん。卒論のことなんだけど……」

 ちょっと相談に乗って欲しいと席を移って来た福島に大和は立とうとする。が、福島本人にいずれ遠からず書く羽目になるのだから聞いておけ、と笑われてしまった。

「じゃ、参考にさせてもらいます」

「うちの教授は厳しいからなぁ」

 半端なものでは読んでもくれない、諦め顔の福島を安曇が笑う。半端なものを提出する方が悪いだろう、言われた福島の眉が下がった。

「そうは言っても……なんか調子悪いんですよ」

「どこがどうなのか言ってくれないと――」

 助言のしようもないじゃないか。言いかけた安曇に福島は顔の前で手を振った。否定のようでいてかすかな不安が浮いていたよう、大和は見た。

「悪いのは……なんだろ。体調?」

「はい?」

「いや、体調は悪くないかな……。メシもうまいし酒もうまいし」

「だったら何さ? いいから言いな」

 ぞんざいな安曇にふと大和は口許を緩めていた。そんな彼と気づいたのか福島がぱちりと目をつぶる。案外と楽しい人だろ、とでも言うように。

「夢」

「ん?」

「夢、見るんですよ」

 ぞわりとしていた、安曇が。なぜと理由はない。福島は悪夢とすら言っていない。それなのに、不思議と。だが福島はその様子に気づかず話を続ける。じっと自分の手を見ていた。

「海、かなぁ。泳いでるってかそこにいるだけっていうか……。水の中だってことはわかるんだけど」

「福島君、郷里は海の側だっけ?」

「いえ。山ん中ですよ。だから海水浴の思い出ってわけでもない」

 何しろ海までは高速を使っても半日以上かかる土地だったおかげで夏のビーチに縁はなかった、福島は笑う。夏といえば湖水浴だったとも。

「でもあれは……淡水じゃないんですよ」

「ふうん? わかるものかなぁ」

「なんででしょうね。なんか、わかる」

 それは、怖いかもしれない。大和は黙って話を聞きつつ知らず腕を撫でていた。

「海の底っぽい夢で、しかもなんか神殿っぽいのがあったり。ファンタジックでしょ。ガラじゃないっつの」

 自ら笑い飛ばした福島の目許が痙攣していた。単純な悪夢ではない。けれどそこはかとなく漂う冷気にも似たものを感じる。

「毎晩それっすよ? 気持ち悪くて」

 肩をすくめた福島だった。初対面の大和にはわからないだろうけれど、確かに安曇も感じてはいた。ここ数日で福島の頬に影が差していると。論文に無茶をしているのだとばかり、思っていた。

「いつくらいから、見てるの?」

「十日くらい、かな……」

「毎晩!?」

「毎晩」

 ひくりと笑う福島に安曇は唇を引き結んだまま酎ハイを作りはじめる。若い学生ばかりの飲み会とあって飲み放題にしていたから各種揃っていた。

「飲んで、寝る。酔っ払って寝たら夢なんて見ないだろ」

 焼酎とソーダの配分のおかしな酒だった。泣き笑いのような顔をして福島は酒をあおる。一息に飲み干しては仲間のところへ戻って行った。

「伊藤君。福島君ちょっと飲み過ぎだから、面倒見てやって」

「いいっすよ。泊めた方がいい?」

「君のアパート近所だっけ。頼むよ」

 了解、片手を上げた友人に福島のありがたそうな顔。振り返って安曇に頭を下げていた。何もなかったかのような顔をして安曇は笑い返しただけ。

「僕はそろそろ帰るけど。大和君どうする?」

「あー。帰っていいんですかね?」

「これ、付き合ってると朝までだよ」

「さすがにちょっと……」

 自分の歓迎会ではあるのだけれど、すでにただの飲み会にもなっている様子。ならば問題ないかと大和は座を窺う。主賓は疲れただろうからさっさと帰れ。笑われてしまった。

「遠慮なく。初日は緊張しましたし!」

「どこがだ!」

「可愛い新人なんですよ、いじめないで!」

「誰がだ!」

「わぁ安曇さん。先輩がいじめるー」

「はいはい、すっかり馴染んで助かるよ。じゃお先。二日酔いはともかく三日酔いにはならないようにね」

 みなに手を振り安曇は背を返す。大和もまた一礼してそれに続いた。律儀なやつ。新しい仲間たちの笑い声が二人の背中に。

 店を出た途端にすぅと肌寒さを感じた。夜風、という以上に。酒席を離れたいま、福島の夢の話が妙な現実感を持って脳裏に焼きついていた。

「変な、話だよね」

 ぽつんとした安曇に大和もうなずく。奇妙な話、それが一番近い感想だろう。が、到底それだけで言い表すことのできない異質さを感じてもいた。

「切っ掛けとか、あったんですかね」

「あぁ。聞いてみればよかった」

「明日にでもさりげなく聞いてみます?」

「うん。僕よりいいかもしれない」

「なんでです?」

 相談されたのは安曇だろう。首をかしげる大和に安曇の苦笑。酔いを感じているのか、大きく息を吸っていた。そんな安曇と見た大和は一歩を下がり、そして彼の反対隣へと位置を変える。

「大和君?」

「酔ってるみたいだし。車道側だと危ないかな、と」

「よく気がつくねぇ。ありがとう」

 ほんのりと目が笑った。率直な礼に大和は瞬く。そうしてから自分が照れたのだと気がつくありさま。空咳を安曇が笑った。

「止むを得ず、だったんじゃないかな。福島君」

「相談してきたの?」

「うん。友達に泣き言は言いたくなかったんだろうし」

「それは、わかるなぁ」

 だが止むを得ずとは不可解だ。眉を顰めた大和を見上げ安曇は微笑む。屈託のない澄んだ目だと大和は見ていた。だが愕然とする。

「僕は人付き合いもよくないし、身内もいないし。相談、しやすいってわけじゃないと思うよ」

「……はい?」

「あぁ酔っ払ったかな。なんかわかりにくいこと言ってるね。――基本、僕は研究してるか教授の仕事してるかどちらかだから。気軽に相談持ってくるような相手だと学生は思ってないみたいなんだよ」

「そりゃ助手さんですし」

「相談乗るのも仕事のうち、なんて研究室もあるんだけどね。僕はどうも……。やっぱり響いてるのかなぁ」

 夜空を見上げ、そんな陳腐な自分を笑うかのような安曇だった。歪んだ口許が、けれど本音のよう大和には見える。無言で促せば肩をすくめて彼は続けた。

「身内がいないとね、どうも感情の機微に疎くなるのかなとかね」

「身内?」

「天涯孤独って言うとかっこつけすぎだけどさ。施設育ちなんだよ――あぁごめん」

「はい?」

「初対面でする話じゃないよなぁといま思ったんだ」

「酔った勢いってことで」

 にっと笑った大和に安曇は救われたような顔をした。驚きが次第にほどけては緩やかな笑みへと変わっていく。最後にはくすくす笑いになっていた。

「本気で酔っ払いですかね」

「そこまで飲んでないよ」

「どうだかなぁ」

「酔っ払い扱いするなら話のついでに聞きなよ」

 はいはい、投げやりな返答を安曇は笑い、悪戯に肩先を打ってきた。が、本人が驚いたらしい。そんなことをする人間だとは思っていなかったかのように。

「あ、ちょっと待って」

 ちょうど自販機があったのをいいことに大和は飲み物を買う。お茶と炭酸水。どちらがいいかと選ばせれば安曇は炭酸水に手を伸ばす。

「ありがと。小銭――」

「いいですよ、これくらい」

「でも」

「じゃ、次は安曇さんの奢りで」

 ふっと笑った安曇だった。それに気をよくして大和はどこか自慢げ。酔いがまわっているのかペットボトルを開けられない安曇に代わってキャップをひねる。

「意外と手のかかる人だなぁ」

「うるさいなぁ。酔ってるんだよ」

「別に嫌じゃないですけどね」

 むっとしていた安曇だが、その言葉には吹き出していた。炭酸水を一口。熱を持ったかの口の中が洗われたよう。ぱちぱちと爆ぜる炭酸に潮騒を聞くのは福島の夢のせいか。

「けっこう優秀だったんだよ」

 唐突に話を戻した安曇だった。大和はどちらでもかまわない、と思っていた。いまでなくとも、いずれ話す。そんな気がしているからかもしれない。

「施設で?」

「うん。その当時って言った方がいいかな。学業優秀でね、ただ大学は資金もないし行かないで働こうと思ってた」

「奨学金とかあるじゃないですか」

「あれってただの借金じゃん」

 返せる当てなどないのに借りられるか、安曇は肩をすくめていた。高校卒業と同時に施設を出ざるを得なかった安曇にとって借金はそれほど重たい。

「なのにね、どこで聞いたのか……教授が拾ってくれたんだ」

「長田教授が?」

「そう。確かに高校時代にも民族学系の討論会とか出てたんだけどさ」

「すげぇな。そんな高校あるんだ」

「勉強は面白いものだって真面目に言うような高校だったよ。公立なのに珍しいよね」

 それで長田は安曇を知ったのだとあとになって聞いた。すでに都津上大学の教授であった長田は安曇のことを知るなりもったいないと手を差し伸べたらしい。大学が設けている学費免除の資格に充分、安曇は適っていた。ならばそれを使うべきだと。

「でも学費だけじゃ生きていけないしね」

「バイトかけもちとかしてもけっこうキツいですよね」

「だよね。だから教授は僕に家をくれた」

「はい?」

「あ、そんな意味じゃないからね!? 教授のご自宅に住まわせてくれたんだよ。今日からここを自分の家だと思いなさいって」

「すごい、な……」

「でしょ? 見ず知らずの他人だよ。なのに教授は『きっと君は私の後を受け継いでくれる』なんて言ったんだ」

 笑ってたけどね、言いつつ安曇も笑っていた。結局こうして好きこのんで助手として研究室に残っているのだから、あの日の長田の言葉は間違いではなかったのかもしれない、安曇はからりと笑っていた。




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