第3話
福島の顔色が日々酷くなっていくのに大和も安曇も気づいてはいた。むしろ研究室のみなが気づいていた。だが、あの晩打ち明け話をしてしまったのがかえってよくなかったのか、福島の方がそれとなく二人を避ける。
「大和君、どう?」
「ダメっすね」
「だよね……僕も気になってるんだけど」
照れている場合ではないだろう、安曇は思うのだけれど、その確信はいったいどこからやってくるのかはわからない。ただ、放置してはならない、そうとわかるだけ。
「なんとか話しかけてみますよ」
ごめんね、安曇の申し訳なさそうな顔に大和はからりと笑う。歓迎会を経てすっかりと研究室に馴染んだ大和だった。元からいた学生もうっかり大和は編入組だというのを忘れそうなほど。たった数日というのに。
そして大和がなんとか福島を捕まえることができたのは歓迎会から一週間後のこと。学食でもそもそとカレーをつついている福島の隣、大和は笑顔で腰をおろす。
「よ、福島さん」
一学年上ではあるのだけれど、研究室からの付き合いであるせいか、あるいは長田教授の人柄か、こうして上下を意識しない関係を築けている。
「あぁ……」
返答だけした福島だった。投げるよう汚れたスプーンをテーブルに置く。カレーは減った気配もない。長い溜息が彼の唇から漏れた。
「調子悪そうですよ」
「わかってんだろ」
「ま。あれですか、まだ見る?」
「……自分でもさ、おかしいってわかってんだよ!」
声を高めた福島に学食の視線が集まる。それにも彼は気づかないのかきつく唇を結んでいた、まるで噛み締めていないと叫び出しそうだといわんばかりに。
「ちゃんと寝れないってクルじゃないですか。イライラして当然ですって」
「……悪い」
「ほい、水。あと口んとこ、カレーついてますよ」
にっと笑った大和には福島も毒気を抜かれたようかすかに笑い声を漏らした。それだけ彼はいま、精神的に不安定なのだと大和は察する。感情の起伏が激しいすぎた。
「あんま思い出したくないかもですけど。なんか切っ掛けとか、ありました?」
悪夢に切っ掛けなど。言いかけた福島だった。そして彼はあの夢を悪夢、と感じている己と再確認したのだろう。額に脂汗が浮かんだ。
「わかんねぇ。……だいたいさ、ただの夢だよな。別に怖いとかねぇし。殺人鬼に追っかけられるとかだったら俺だって怖いけど」
「それは普通に怖いです」
「なんだよ普通って」
「いやだって怖いじゃないっすか。俺だったら人殺しーって悲鳴あげて起きるな。で、周りに怒られる」
明るい大和に福島は救われたよう笑った。それにぱちりと片目をつぶって見せる大和なのだから、ついには吹き出す。
「安曇さんがね、すげぇ気にしてるんですよ」
「そっか……安曇さんが」
「まだ一週間そこそこの俺が言っていいかわかんないですけど、あの人、学生と距離感じてるみたいで。なんか寂しいっぽいですよ」
「あぁ……」
「思い当たるとこ、あります?」
「うん。安曇さん、院生のときからみんなと距離あったってか、ちょっと一歩引いちゃうんだよ」
だが、老成した雰囲気がかえって頼もしくも思われている、福島は言う。本人が感じているほど距離はないらしいと大和は思う。
「人付き合いが苦手なのか、うちの連中がうるさくやっててもちょっと下がってにこっとしてるような人だからなぁ」
本題からはずれていた。けれどこれが福島の日常でもあるのだろう。研究室の話題は彼を充分に落ち着かせていく。楽しげに聞いている大和のおかげもあったのかもしれない。
「そんな安曇さんが、俺の心配、してくれたんだ……」
「そうっすよ。毎日朝昼晩、福島君と話せた?って俺に聞いてきますもん」
「そっかー。て、お前。安曇さんと仲いいんだ?」
「編入組ですし。気ぃ使ってくれてるんじゃ?」
「いや、そういうんじゃないと思うな。相性いいんだろ」
たぶんな。笑う福島はずいぶんと顔色もよくなってきていた。話題を戻せばまた酷い顔になるのでは、案ぜられて申し訳なくも思う大和だ。しかし聞かないことには動けない、そうも思う。
「夢のことだよな。わかってる。俺だって怖いし気味悪いし。俺一人じゃどうにもなんねぇし」
「俺が聞いてどうかできるわけでもないですけどねー」
「こういうときは嘘でも『任せて先輩』くらい言えよ!」
「無理」
即答する大和を悪戯に打つ福島は、思い出したようスプーンを取る。少しは食欲も戻ったらしい。合わせるよう大和も定食を食べながらだった。
「今日なに?」
「トリチリ定食っすよ」
「は?」
「エビチリじゃなくて鶏。って福島さん、ずっと都津上でしょ!」
「俺、好き嫌い多いんだよ」
肩をすくめた福島に大和はそんなことでは大きくなれませんよ、ともっともらしく言う。笑ってしまった福島の目がそれ以上に和んでいた。
「お前――」
「ん?」
「なんでもねぇよ。切っ掛け、か……」
スプーンを咥えた行儀の悪い姿のまま福島は天井を見上げていた。そこには何が映っているのか。残りのチリソースをご飯の上にかけて大和はかき込む。
「って早ぇなおい」
「早飯は癖なんですよ」
「腹壊すぞ」
「そんな軟弱な腹してませーん」
くつくつと笑って大和は皿をきれいにしていた。物の見事になくなった昼食に福島は呆れつつ自分のカレーを片付ける。なんとか食べ終えることができたのも大和が同席したおかげだろう。
「たとえば最初に夢を見た日って何してました?」
「そんなもん覚えてるかよ」
言いつつ福島は考えている様子。引き締まった唇に大和は黙って彼を待つ。ふと思い立って福島はスマホを取り出した。
「あぁ、卒論の資料もらった日だな」
「福島さん真面目! なに、そんなのまでメモしてるんですか」
「いやだって、教授に借りた資料だし。返すもんなんだからちゃんと書いとかないと、なくしたらマズイだろ」
「あー、確かに」
「文献がいくつかと、あと……あぁそうそう。彫像借りたんだ」
「彫像?」
「おう。ポリネシアの原始宗教の遺物じゃないかって話なんだけどまだ同定できてない彫像でさ」
「へぇ、どんなんです?」
「それがさー。すげぇ面白いんだよ。ぱっと見ギリシャっぽいんだ」
「はいー?」
「若い男の像なんだけどさ。月桂冠っぽいのかぶってんだよ」
「なのにポリネシア?」
「どうも外部から持ち込まれた形跡もないらしくってさ」
西洋圏から持ち込まれたものが現地の信仰に習合した、というわけではなさそうなのだ、福島は研究の話をしているときだけは目が輝いていた。
「ただ、なんつーか。ちょっと気味悪くはある。見た目は綺麗な像なんだけどな」
「そんなもんです?」
「比較宗教やってると見慣れない信仰とか礼拝対象とかはそれこそ普通なんだけどな。なんか……」
いままでのものとは感じが違う、ぽつりと呟く福島に大和は首をかしげる。短絡的にすぎるのかもしれないが、妙な夢ならばそれが影響しているのでは、と。
「けっこうインパクトある像なんです?」
「うーん。あるっちゃある、かなぁ」
「いま持ってたり?」
「さすがにねぇよ、貴重品だし。家だ家」
「そっか。見せてもらえたら、と思ったんだけど……」
「明日持ってくるわ。でも見せるだけな?」
卒論に必要なものであったし、何より教授から借りたものだ。又貸しは論外だろう、言う福島に当然だと大和もうなずく。
「お前と話してたらちょっと楽になったわ」
「そりゃよかった。話し相手くらいいつでもしますよ。安曇さんも心配してますしねー」
「お前から礼言っといて」
「自分で言ってくださいよ!」
「やだよ! 照れるだろ!」
「福島さん」
「な、なんだよ」
「その面で照れられると、ちょっと」
「おめーにだけは言われたくねーよ」
ふん、笑った福島は学食で見つけたときより格段に顔色がよくなっていた。そして翌日、福島が持参した彫像を早速に見せてもらった大和だった。確かにそれは美しい青年像。福島に聞いていなければポリネシアとは思いもしなかったに違いない。
「写真撮っていい?」
「おう?」
「安曇さん、見たがるかと思って」
長田の用事で生憎と席を外していた安曇だった。昨日のうちに大和は福島のことは告げてある。話が聞けた、というだけで彼の顔は和んでいた。どれほど福島を案じていたことか。それを福島に伝えれば彼は彼で照れた顔。
「ありがたいよなぁ」
学生と助手というだけであるのに、これほど心配してくれるとは。関係性は良好ながら親しいというわけではなかった安曇の思いに福島の体貌が柔らかい。
「安曇さん、優しい人ですよ」
写真を撮りつつ呟く大和にぷ、と福島が吹き出した。昨夜も夢は見たらしいけれど、こうして話ている方が楽だと彼は言っていた。
「なんです?」
笑っただろう、顔をあげた大和に福島の意地の悪そうな顔。怪訝に首をかしげる大和に再び福島はにんまりする。そして冗談とあからさまにわかりはしたけれど質の悪いことを言った。
「お前は小学生か。友達とられてムカついたって顔してたぞ」
「は……?」
「してたしてた」
まさか、大和は愕然としている。そのようなはずはなく、もし福島にそう見えたのだとすれば多大な勘違い以外にない、と断言できる大和だ。
「俺、そこまでガキじゃないですよ」
むっとして言い返す大和をけらけらと福島が笑っていた。気分が明るくなったのならばいいこと、かもしれない。釈然としなかったが。
「もういいか?」
「うい、オッケーです」
大和の返答に福島は丁重な手つきで彫像を片付ける。慎重に梱包する仕種にふと大和は違和感を抱く。あまりよい印象を持っていないらしいこの彫像。それにしては扱いが丁寧だった。それは教授から借りたものだから、という以上のもので大和は内心に眉を顰める。
「福島さん――」
去って行く後ろ姿を呼び止めることはしなかった。なぜだろう、自問して大和は首筋に冷たいものを感じた。まるで彫像に魅入られているようだ、福島の背中にそれと感じた大和は言葉を失う。きゅっと唇を噛み、安曇に見せるため福島から聞いた話と写真をまとめに入った。
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