遠き呼び声
朝月刻
青い夢
第1話
研究室の扉を開けると途端に注目を浴びた。ぎょっとして立ち止まる彼に笑顔を見せたのは壮年の男性。この部屋の主、長田嘉之教授だった。
「やぁ、よく来ました。君が小林君?」
「あ、はい。今日からお世話になります、小林大和といいます」
「こちらこそよろしく。新人さんを紹介するよ、みんな」
気安い人物だった。比較宗教学などという一見わかりにくい学問を扱っているせいか、会話がうまい。様々な人にどんな学問か興味を持ってもらおうと講演をするせいに違いなかった。
都津上市は難読地名として知られているが、とつかみ、と案外素直に読む。近隣の大きな市に隠れがちだけれど、企業誘致のおかげか財政も潤い公立の都津上大学は有名大学に負けないほどの学生数を誇る。卒業後の人脈が欲しければ都津上大学へ、とも言われるほど。そのせいもあって学部も多岐にわたっていた。
「じゃあ、安曇君。頼んでいいかな」
「わかりました」
「こちらの安曇君は研究室の影の立役者と言ってもいい男でね。この男がいないと私の研究はまったく捗らないとも言える」
おおよその紹介を終えて最後に連れて来た青年の肩をぽん、と叩いた長田だった。すでに大学院博士課程も終え、いまは助手として長田の研究室に勤めている、と教授は言う。
「よろしく、安曇かずきです」
にこりと微笑んだ安曇はどちらかと言えば線の細い青年だった。若き学者、と言われて誰もが想像するような。
「安曇君はちょっと面白い字を書くんだよ。千の希望と書いて千希、と読ませるんだ」
「はぁ……」
「教授。それ、反応のしようがありませんから」
「ん? なるほど。そうかぁ」
からりと笑う長田と仕方ない人だろうと肩をすくめる安曇に小林の緊張も解けていくようだった。
「何はともあれ、まず大学構内のことがわからないでしょう?」
「まぁ、そうなります」
「案内するよ」
そう言って研究室を出る安曇に小林は慌てて従う。安曇が言うのももっともだった。小林は他大学からの編入組になる。清掃の行き届いた床に陽射しが反射して眩しい廊下を歩きつつ、よかったら動機を聞かせてくれないか、安曇が言った。
「いやぁ。立派な動機と言えるようなものではなくて。なんと言うか。いままで民俗学やってたんですよ、俺」
「あれも楽しい学問だよねぇ」
「ですね。ただ、色々やってるうちにあっちこっち色んな信仰があるもんだなぁ、比較宗教学面白そうだなぁ、と」
「あぁ、それはいいな」
「え?」
「楽しそう。それが動機は強力じゃない?」
ふふ、と笑った安曇につられるよう小林も笑った。研究の徒などみなこのようなものなのかもしれない。互いの目にそれを読み取っては親和へと繋がった。
「そうそう、小林君」
「あ、はい」
「さっき紹介された中にも小林がいたでしょ」
「いましたね」
小さく笑う小林だった。確かに名字ランキング上位の名前ではあるけれど、長田研究室には三人もいたのだから。いま彼も加わってまた増えた。
「お隣さん……宗教社会学の研究室は小林教授だしね」
「それは、多いですね」
「だよね。だから学生はみんな名前の方で呼んでるんだ。嫌かな?」
「かまいませんよ。高校の同級生とかはそうですし」
「じゃあ、大和君。まずは学食ね」
かすかにくすぐったそうな安曇に小林大和こそ、気恥ずかしいような気がした。案内された学食は広々と立派でメニューも多い。さすが大きな大学とあって学食だけで三ヶ所あるという。
「ここが一番近いけどね。医学部の近くのやつはレストランみたいだよ。味も値段も」
「観光に行きたいなぁ。いつか、人の金で!」
「いい根性だ。いいね、そういうの」
あはは、と笑う安曇は大和に比べると頭ひとつぶんほど小柄だった。安曇が小柄というよりは大和が大柄といった方が正しいか。
「大和君、なにかスポーツやってるの」
「高校三年間だけですね。ラグビーやってました」
「それでかぁ。腕とか僕の倍くらいあるんじゃない?」
「そこまでないですよ!」
実際そう言いたくなるほどの肉体だった。よくぞ高校三年間でこれだけのものになったと言うべきか。肩幅は広く胸は厚い、すぐさまにも大学ラグビー部から勧誘がかかりそうだった。
「ラグビーとか、痛そうでさ。よく頑張れたよね」
あちらが図書館、と示しながらだった。研究室にも書籍は置いてあるけれど主要なものだけであってほとんどは図書館頼りだと。数多くの文献も扱う学問だけに納得がいく言葉だった。
「それがね、騙されたんですよ」
「うん?」
「同級生が部活やってて、なんとなく見てたらやってみないかって」
「それでやったなら素直な男もいたもんだね」
「いやいや。痛そうだから嫌だって言ったんですよ。そしたら痛いポジションばっかじゃないからって」
「そんなのある?」
「……と、引き込まれまして。はじめは確かに痛くないとこだったんですよ。ウイングっていう、走るとこですね」
「あぁ、わかるわかる。見るのは好きなんだ」
「走ってたら案外と面白くなっちゃって」
「最終的にどのポジションだったの」
「フランカーです」
「一番痛そうなとこじゃん!」
「ですよね。騙されました」
だが楽しかったからよしとしている。大和はおおらかに笑っていた。安曇は内心でほっと息をついている。三年生で編入、しかもメジャーでもない学問の研究室に即入るという学生に研究室のみなが緊張していた。どんな人間が来るのかと、ずいぶん前から噂が飛びかっていたけれど、このぶんでは既存の面子ともうまくやっていけるだろうと。
「初対面であれですけど。安曇さんっておいくつです?」
「二十八。去年、博士課程終えたばっかなんだよ」
「あー、それで助手? っと、すいません」
立ち入ったことを、と頭を下げて見せた大和に安曇は微笑む。気にすることはないのに、と。そのとおりだったのだから。
「僕は学問だけしていられれば幸せなんだよ。どうも講義を持ってとか教授になりたいとかなくって」
だから准教授を目指す気すらはじめからなかった、安曇は言う。だが食べて行かなくてはならないからお世話になった教授の元で助手になった、と。
「そういう人生もいいなぁと思うんですけどねぇ。将来設計が不安で」
「給料安いからね。もやしが大好物じゃないとつらいかもしれない」
「もやしは日持ちしないからダメです」
「甘いね。買ってきてすぐ茹でるんだよ。それで一週間は持つ」
ふふんと自慢げな安曇に大和も完全に緊張が解けた様子。二人して自炊のあれこれを語りつつ構内を行く。相性というものかもしれない。初対面というわりにすんなりと話題は続き、あるいはそれていく。その噛み合い具合に安曇の口許がほころんでいた。
「あぁ、よかった。戻ってたね」
一通り見てまわったあとのことだった。研究室に戻った安曇が呟く。彼の視線を追えばそちらには学生と思しき青年が一人。ちょいちょい、と安曇が手招くのに青年は小走りになっていた。
「新しく来た小林君」
「また小林っすか?」
「ほんと多いよねぇ。大和君、彼は福島君。四年生だから一つ上だね」
「福島です。福島正則」
にっと笑った福島が手を差し出す。留学経験でもあるのか、堂に入った握手の仕種だった。それを戸惑いつつ大和は握り、口許で笑う。
「福島正則さん、ですか?」
「悪目立ちだろ? おふくろが戦国ファンなんだよ」
「歴女ってやつですか」
そうそうと笑う福島に大和も笑い返す。闊達な印象のある研究室だった。教授の人柄なのか人間関係も良好な様子。すんなりと入り込めそうで大和も安堵していた。
「安曇さん、歓迎会するんでしょ」
「するよ」
「幹事だれ?」
誰某だ、と言えば福島は軽く手を上げて向こうへと。それから立ち止まっては大和を振り返る。
「お前の歓迎会だからな」
「ありがとうございます」
「ま、飲み会だけど。アレルギーとかあるか?」
にやにやしつつ言う福島に大和は微笑む。そんなことを尋ねられたのははじめてだったと正直に言えば「教授が気配りさんなんだ」と教えてくれた。
「いい人たちだなぁ」
ぼそりと呟く大和に安曇の目が和む。自分の所属先を褒められてやはり嬉しいのだろう。その目に大和は知らず慌てていた。特に理由もないというのに。
「一応は今夜を予定してるみたいだけど、大和君の都合は?」
「問題ないです。あれば嬉しいなぁと思って空けてあるんで!」
「正直なやつだな」
くすりと笑う安曇に大和もまた照れ笑い。フィールドワークに出ることもある長田研究室では大和の明るさは歓迎されるものだったらしい。
書籍の場所やコンピュータの使い方、搭載されているソフトなどを教わっているうちにあっという間に陽が暮れていた。
「すごいな……」
教授の薫陶よろしきなのかデータベースは見事に整いソートをかけるだけでも飽きない。見ていて楽しいデータだった。それを見ている安曇の眼差しもまた楽しげ。
「こういうデータで楽しめるなら学者向きだよね」
「そうですか?」
「研究は楽しいものだからね」
それは安曇さんだからだ。どこからともなく声が上がっては笑い声になっていく。それもまたこの研究室の日常らしい。大和はよいところに来たな、と笑んでいた。
「そろそろ行こうか。教授は?」
「さっき図書館行くって――」
「噂をすれば影ってやつだね」
ちょうど戻った長田がきょとんとし、話題が自分であったことに気づいたのだろう、笑顔になっていた。
「なんだ、人がいない間に悪口大会か?」
「まさか尊敬してます教授」
「そりゃ飲み会の費用を出すからだろう」
からりと笑う教授にすり寄る学生たち。もう少し感情を込めて褒めたまえ、とふんぞり返る教授をわいわいと持ち上げる様にぷっと大和が吹き出していた。
「悪いね、大和君。うちはこういうところなんだ。驚いただろう」
「賑やかなのは好きなので。毎日楽しくなりそうでいいです」
「それはよかったよ。さ、行こうか」
軽く大和の肩を叩いて長田は微笑む。大騒ぎをしながら学生たちが室外へと出たのを確認し、長田自身が鍵をかけた。
「けっこう厳重なんですね」
たかだか大学の研究室、といってはならないけれど、大和は驚く。不正コピーが難しいと言われるディンプル錠だったのだから。
「これかい? 前に盗難に入られてねぇ。うちの研究室なんて金目の物は何もないんだが」
気分は悪いし警察の相手は面倒だしで換えたのだと長田は肩をすくめていた。
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