第8話


 まだ祭りの熱気は残っていた。深夜の祭祀とは関係なく夜店で遊ぶ人々の姿。あまりにも普通で、だから普通ではないなど胡乱なことを考えている己を安曇は内心に嘲笑う。

「安曇君、こちらだ!」

 境内に向かえばさすがにこちらにまで夜店は出ていない。少しだけ静かになった空間に長田の声が響いた。軽く手をあげ安曇を呼ぶその姿。

 ――なんだ、あれは。

 変わらない長田だと、大和は思いたい。だが違う。祭りの興奮か。神職としての装束をまとった長田、あり得ない話ではない。式年祭という、戎神社にとって重大な祭事に神を奉ずるものが昂ぶっていてもなんの不思議もない。

 ――違う。

 大和は断ずる。決してただの興奮ではない。近づけばほんのりと赤くなった頬、酒でも入っているのかもしれない。神職と思っていなかったら、あるいは長田という知人でなかったら、違法薬物でも使っているのではと疑った。

「教授、こんばんは。お加減はもういいんですか」

 安曇もまたそんな長田に警戒が強まったのか、頭を軽く下げただけ。代わって大和がにこりと笑って見せる。

「おう、心配かけてすまなかったね。大和も今日は見学して行くといい。なんといっても式年祭だからな。一世一代と言っても過言じゃない盛大な祭祀だぞ。どうだ、研究者魂が疼くだろう」

 熱意ある長田の言葉に安曇は唇を噛んでいた。疑いと躊躇と。安曇の返答を待つことなく長田は拝殿へと向かってしまった。

「安曇さん……」

「ここで、帰るわけにも、いかないよね」

「そうしてもいいとは思いますけどね」

「できないよ」

 頼りなく首を振り、安曇は長田の背中を追った。一瞬だけ大和を振り返りかけ、言葉を飲み込む。大和は戻ってもいい、言いかけた安曇を大和は笑顔で止めた。自分がいる、そう無言のうちに告げれば安曇のほっとした吐息。

「大和にもすっかり迷惑をかけたなぁ」

 編入してきてから色々なことがありすぎた。そう言うわりに長田の声は朗らかだ。いったいこれは、と大和は訝しくてならない。祭祀に浮き立つにしても。

「教授、どちらに?」

「安曇君も入るのははじめてだったね。この向こうが言ってみれば本当の拝殿だ」

 言いながら長田は拝殿の奥の扉を開けた。つん、と鼻をつく匂い。馴染みがあり、かつ違和感のある匂い。潮の香だとすぐにわかった。

 扉の先は古風に松明を掲げた下り階段となっていて、長田は慣れ親しんだ道なのか足取りに迷いがない。二人もためらいつつ従った。少しずつ、少しずつ、潮の香りが強くなる。地図を思い浮かべた大和は正しくいま、海へと向かっていることを知った。

 一歩進むたびに、足が重くなる気すらした。気づけばいつの間にか、周囲は自然洞穴へと。戎神社にこんな場所があったなど安曇もはじめて知った。すでに祭りの喧騒は遠い。かすかに届く太鼓の音。

 そして二人は長田の向こうに明かりを見た。否、そこは海だった。洞穴の入り口から月光が入り込み仄かに照らす。ひたひたと波が寄せているのさえ見えていた。

「なんて……」

 美しい、安曇は知らず目を奪われる。夜の海ならば見ている。月明かりならば見ている。けれど、これは、あまりにも。突然に握られた自分の手、大和のぬくもりに息を吸う。

「ありがと」

 小声で言えばかすかな固い笑み、大和もまた飲まれそうな心持ちになった様子だった。

 再び安曇が視線を海辺へと戻したとき、不意に気づく。長田の背後に何かがあった。暗がりに目がようやく慣れ、見えるようになったもの。目を凝らし、安曇は鋭く息を吸う。

「な……、あれは。なに」

 うずくまった人影、と見えた。大和にも同時に見えたのだろう、握られたままの右手が痛みを覚える。振り返った長田の表情は逆光になって見えなかった。

「あれ、とは酷いぞ。安曇君。うちの父には会っているだろう?」

 眩暈がした。くらくらと視界が揺らぐような気がした。長田の薄く笑った顔がなぜか見える。その長田の背後にある人影は、断じて「人」ではなかった。それなのに、それは立ち上がる。長田に並べば小柄な。老人のせいかとわずかに思い、己の過ちを知る。背がかがんでいた。人間ではあり得ないほど屈曲した体。それでいて、それは浄衣をまとう。まるで戯画だった。

「教授の、お父様、ですか……」

 なにを言っているのだと、自分でも思う。握られた手だけにすがり安曇は目を見開いたまま。大和も長田の父を凝視していた。

 完全に、人間ではなかった。いまにしてわかる。潮の香だけではなかった。ここに漂うのは腥さ、魚のような、饐えた臭いが、周囲一帯に充満している。長田の父。浄衣の袖から覗く手には水掻きが、顔の皮膚は爛れたようになり、鱗が見てとれる。目は大きく突き出しあたかも魚が人間の姿をとったかのようでいて更に、否、想像を絶する悍ましい姿。

「教授、なんなんですか、これは!?」

 そして、長田の父にとどまらなかった。ひたひたと寄せる波のよう、異形が増えていく。洞穴の影から、あるいは海の中から雫を垂らし寄せてくる異形の群れ。

「なんだ、とは酷い言い草じゃないか、大和」

 長田の哄笑が洞穴に響いた。福島の悪夢より、黄衣の王のあの禍々しさより、人の形をしている長田だからこその悍ましさ。繋いだ手にじわり、汗が滲んだ。

「安曇さん、合図したら逃げて」

 そっと囁いたのは遅きに失した。さりげなく窺った背後にも異形が。唇を噛みしめる大和に安曇が寄り添う。触れ合う肩と肩。洞穴の中に二人きり。浄衣をまとった異形どもが彼らを囲んだ。

「化け物が――!」

 安曇を引き寄せ、大和は彼だけはなんとしても逃がそうと視線を走らせる。一瞬でいい、隙が欲しかった。

「化け物? なにを言うんだ、大和。彼らを化け物だと言うのならな」

 からからと笑う長田がいた。傍らで父もまた体を揺らす。さも愉快げに異形どもが長田に従う。

「――安曇君はどうなる? うん?」

「なにを……」

「あぁ、君は何も知らない。安曇君も知らなかったかな? そうだとも、知らなかったはずだ、そうだね、安曇君」

「教授……なにを、いったい、これは。――戎神社の式年祭に多くの人が亡くなっている、と聞きました。人身御供の噂は、本当だったのですか。僕は」

 人身御供として、ここにいるのか。震える唇を噛みながら安曇は言い切る。自分は仕方ない、長田に救われた身だ。だが、大和だけは。彼だけは。

「人身御供? あぁ、そのことか。なに、大勢が『亡くなる』のは事実だがね、簡単なことだよ安曇君。彼らだ。彼らが消える老人たちなのだよ」

 長田の眼差しが周囲の異形へと。それで二人は悟ってしまった。この異形は、かつて人間だったのだと。長田の父も、彼らも。年月と共にこの姿へと変異したのだと。

「そのとおり。そして時が至れば我々は海へと還るのだ。安曇君、君もだ」

「そんな馬鹿な!? 安曇さんは人間だ、あんたらと一緒に――」

「いまはまだ、人間の形をしているだけのこと。そう、安曇君こそ、我らの希望。安曇千希、我ら深きものの希望、千年に一度の希望よ」

 両手を広げ長田は安曇をまるで招くようだった。大和が握りしめていなくとも、安曇は決して動きはしなかった。動けなかった。吐き気と嫌悪感と。

 ――言えない。

 大和にこそ、言えない。いま、己の中にある他者へと異物感が消えていた。確かに自分はあれらと同じなのだと、頭脳ではないどこかが認知していた。

「五十年に一度の式年祭、それに合わせて安曇君を変異させようと衝撃を与えたのだがね。中々うまくはいかないものだ」

 けれど時至れば変異するのだから問題は何もない。屈託のない長田の言葉に真相を知る。知らなければよかった。安曇は思う。大和も長田を見据えたまま唇を噛んでいた。

「さぁ、こちらにおいで。安曇君。君こそ、我らの新たなる司祭」

 ぞわりとした。あの本の献辞として書かれていた文言。あの本すら、自分に与えられたものだったと知る。自分の人生のすべてが長田に操られていた不快感、虚無感。

「安曇さんは安曇さんだ」

 化け物の仲間などではない、言い切る大和に安曇の目に薄く涙が張った。いま考えたことを彼に否定してもらったような。

「安曇、安曇。そう、安曇だ。大和にはわからんな? 君はまだ学問が足らん。安曇氏は海神を祀る氏族、安曇君はその末裔なのだよ」

「そんなのなんの関係がある」

「あるに決まっている。見よ――」

 両手を広げたままの長田だった。不意に背後の海が立ち上がる。息を飲むことも忘れて呆然としていた。気づけば異形どもの声が。聞き取れるのは奇妙な「いあ、いあ」との声、そしてダゴンの名。響めきが洞穴を圧する。

 そして、それは現れた。海を割り、立ち上がるあまりにも巨大な姿。水掻きも鱗も突き出た目も異形どものよう。だが、違った。圧倒的というもおろかな存在感、魂すらすり減るような巨躯の異形、正しくこれは神なのだと卑小なる人間の精神に叩き込まれ。海水を滴らせたそれは、いまだ上半身しか、見えてはいなかった。人の身が露ほども知らぬ神なるものがそこにいた。

「見るがいい、ひれ伏すがいい。我らが父ダゴンの御姿に。――安曇君、この方こそ、君の父だ」

「え――」

「安曇氏の娘と我らが父なるダゴンの子。君は生れながらにして大いなるクトゥルフの司祭なのだ。感じるだろう。君の血が大いなるクトゥルフの声を聞くだろう。さぁ、安曇君こちらにおいで」

 長田の言葉に異形どもが足を進めた。大和を捕らえようと、あるいは安曇を引き寄せようと。震え激しく首を振る安曇を大和は強く引き寄せる。そして。

 ぱん、と血がしぶいた。遅れてからんと音がする。おずおずと見やる安曇の眼差しの先、倒れる異形が。そして鼻を刺す火薬の臭い。

「やま、と。くん……?」

 呆然と呼ぶも大和は答えず。安曇を片腕で抱いた大和、反対の手にはエアガンが。エアガンであるはずもない。エアガンならばこんな臭いはしない。

「……何者だ」

 ぞわり、異形が包囲を狭める。大和は再び三度銃を撃つ。倒れる異形、倒しきれぬ異形。向こうで目を眇める長田が。

「公安だ」

 銃口を長田に向けた大和だった。のろりと安曇の眼差しが大和へと。何を言っているのだとばかりに。大和は彼を見なかった。答えられなかった。

 いつまで耐えられるか、大和にもわからない。安曇の安全を確保する。いまはそれしか考えられない。頭に血がのぼっているのは自覚していた。

 異形に襲われ、気づかないうちに大和は血塗れになっていた。腕に抱いた安曇に大きな傷はない。異形にとって安曇こそ取り返すべきなのだと嫌でも理解する。片手でリロードを繰り返し、撃つ。長田まであと少し。射線が通ったのは一瞬だった。その一瞬が大和には必要だった。

「な……?」

 異形の圧倒的優位を確信していたのだろう長田だった。いずれ倒れる大和の足掻きを面白く眺めていた彼だった。その額にぽかんと穴が空き、とろりと血が流れ出したのはその後。

「教授――?」

 せめて最期は見せまいと安曇の目を覆う。異形どもが長田を振り返り、そして倒れる彼を見ていた。何が起こったかわからないのかもしれない。いつの間にか長田の父は倒れ伏している。撃った覚えもなかった。

 そして、それを見ていたのは二人だけでも異形どもだけでもなかった。海水から半身を晒した巨躯がいまだそこに。大和は逃走を決する。いまならばと。だが、その必要もなかった。轟とした咆哮は怒号だったのか、それとも嘲笑だったのか。それだけを残し巨躯は海へと戻って行く。生き残りの異形を引き連れて。それはもしかしたら、再会を約した轟きだったのかもしれない。それと悟った安曇の悲鳴、途絶えた。

「安曇さん、安曇さん」

 腕の中の安曇はどこを見てもいなかった。大和が揺さぶるたびにくらりくらりと首が揺れる。

「俺が――」

 腥い潮と血と臓物の臭い漂う洞穴に大和は膝をつく。両手で安曇を抱え、言葉もなく。




 警視庁公安部公安総務課・宗像一生、都津上大学に小林大和名義で潜入捜査中失踪。死亡と見做す。以下は失踪時に残されていた手記抜粋。


 ――あの日から安曇さんは正気をなくしたままだ。

 X月X日。約束したの覚えてるかな。コーヒー淹れたよ、安曇さん。

 X月X日。黙っててごめんなさい、安曇さん。本当の名前、呼んで欲しかったな。ほんとは俺のが年上だったんですよ。俺、童顔なんだ。

 X月X日。俺はずっと安曇さんの側にいるから。奴は変異を早くするために衝撃を与えたとか言ってたけど、本当だったのかもね。変わっても、安曇さんは安曇さんだ。

 X月X日。安曇さん、大好きな安曇さん。安曇さん。

 X月X日。なんだ簡単なことだったな。馬鹿みたいだ。そうだ、血だ。血だ――


 宗像氏は安曇氏と並んで代表的な海洋系氏族、海人族である。




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遠き呼び声 朝月刻 @asagi_ryo

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