第7話


 研究室は閉鎖中とはいえ、学部生の大和には講義がある。安曇を一人にするのを嫌った彼ではあるけれど、安曇本人から授業にはきちんと出ろと諭されて出かけて行った。

「本当に、もう」

 それほど自分は頼りないだろうか、笑ってしまう安曇だったけれど現状では致し方ないとも思う。もう少し、しっかりしたい。せめて大和が存分に頼れるくらいには。そう思う彼の口許は満足げだった。

 そうして数日、大学から帰ってきた大和の様子が今日は違う、そんな気がする安曇だ。張り詰めていると言おうか神経質になっていると言おうか。それを安曇は問えなかった。

 そして祭りの当日がやってくる。安曇は日中から手伝いに行く予定だが、同行すると言い張る大和を安曇は講義に向かわせた。

「――じゃあ、行ってきます。けど! 何かあったら即座に呼んでください。遠慮だとか……」

「しないから。いいから行きなさい。遅れるよ」

 祭りには行かねばならない、安曇は言う。長田を疑っているだろうに。行かせてはならない、そう思うのに止める言葉が大和にはない。

 午後遅くになって大和が部屋に戻ったとき彼はまだ帰っていなかった。手伝いに時間がかかるのは、わかる。

 ――探しに、行きたい。

 行き違いになる恐れが高いからこそ、耐えられた。それくらい大和の緊張は高まっている。肌に殺気を感じるとは言い過ぎだろうか。だが大和にはそうとしか言えないほどに寒気がしていた。

「あれ、大和君の方が早かったんだ?」

「サボってませんからね!」

「真面目な学生さんだって知ってるよ」

 ふふ、と笑った安曇の表情に疲れを見る。祭りの準備など力仕事なのだからと彼は言っていたけれど、それだけなのだろうか。

「さすがに式年祭だからね、大がかりだったよ」

「そんな違います?」

「相当にね。――大和君が楽しみにしてたご飯にするよ」

 あまり疲れを語りたくない様子の安曇だった。二日ほど前に大和は土鍋を買ってきた。二人で鍋をつつきたいと笑っていた。

「え、マジすか!?」

 買い物袋を下げた安曇の手元を見れば確かに鍋の材料が一式。思わず大和は目を丸くする。

「食べたいって言ってたじゃん」

 笑いながら安曇は台所に立っていた。あれこれと大和も手伝うからあっという間に支度はできる。ふとぬくもりを覚えた。気づけば寒気も消えている。

「なんかさ、いいよね。こういうの」

「炬燵とか欲しいですよねー」

「それいいね。今度買おうか」

 安曇に大和は微笑んでいた。全部終わったら、こんなことが片付いたら。安曇は言う。それがいつになるのかは本人もわからないのではないだろうか。

「大和君はさ――」

「なんです?」

「ん、いいや。ほら、豆腐も食べな」

「うい。って、気になるでしょ」

 ついでとばかり白菜だの葱だのを入れられて世話を焼かれて。大和も安曇の皿に取り分ける。そんなことが無性に楽しかった。

「僕としてはさ、研究室が再開するまでに引っ越しちゃいたいくらいなんだけどさ。――大和君にはさすがにドン引きかなぁとかさ」

 ぼそぼそと言う安曇に大和は言葉もない。嬉しいのだと、わかってもらえるだろうか。ちらりと見やってきた安曇の驚きの顔、そして面映ゆそうにそらされた目。通じたのだと思う。

「なんかさ、大和君とは知り合ってそんな時間が経ってるわけでもないのにさ」

「ずっと一緒だったような?」

「ずっと一緒にいたいような、かな」

 照れて笑ってごまかす安曇がふと大和を見る。口許が緩んでいた。

「なんだ。僕だけじゃなかったんだ」

 大和もまた同じことを考えていたのか。言葉に大和はそっぽを向く。くすくすと笑う安曇と鍋の湯気。いまだけは、温かな。すぐにもまた何かがやってくる、二人して理解している証のよう、このときばかりと楽しむように。

 食事を終えても何をするでもなかった。例の本を調べた結果のノートをまとめてみたり、翻訳文を直してみたり。安曇ができたのはその程度。この数日の間に少し解読は進んではいたけれど、役に立つような何かが見つかったわけでもなかった。海に関するなんらかの神の記述が妙に多い、それがわかっただけ。

「この辺が面白いんだよね」

「ん、なんです?」

「明らかに別の神格だっていうのはわかってるんだけど、シュメールの漁業神と同じ名前が出てくるんだよ」

「シュメール……ダゴン?」

「そうそう。この本の著者にとっては信仰対象っぽいのかな」

「ちなみに主神格ってなんなんです? 神話ならありそうなもんですけど」

「またきた『コレ人語?』だよ。なんて読むんだろうね、クトゥルフ、かなぁ」

「なんだそれ、ですね」

「ほんとだよ。どこの言語なんだか、まったく。――ねぇ、この本がさ、教授の書庫にあったのってさ、このダゴン、じゃないかな」

「はい?」

「戎神社も漁業神を祀ってる」

 短い安曇の言葉。二人の間にひやりと漂う。彼は奇妙なことは言っていない。比較宗教学の研究者として長田が関連性があると所持していても何ら不思議はない。むしろ面白い研究素材だろう。だがしかし。

「わからないね。――さぁ、そろそろ行こうか」

 もうすっかりと日も暮れた。長田からはせっかくの祭祀だから見学したらいい、と誘われている二人だった。夜を徹して行われる祭祀。中々目にする機会のない信仰の場を直接見学できるのは研究者冥利というもの。

「うい、わかりました」

 なのに、安曇も大和も不安が尽きない。大和はまだしも、安曇は己が恐ろしい。もう何度も戎神社の祭りは見ている。式年祭こそはじめてだけれど、恐れるようなものは何もない。

「大和君!?」

 出かける準備をしつつ唇を噛んでいた安曇は思わず大きな声をあげていた。そこにはホルスターをつけ銃を収めようとしている彼が。

「エアガンですよエアガン」

「ちょっと待ちな、なんでそんなもの」

「……怖いんですよ、何かあったらと思うと。安曇さんだけは、なんかあって欲しくない」

「それは――」

 だからといって、いったいどこからそんなものを用意したのか。唖然とする安曇に大和はサバイバルゲームが趣味なのだと苦笑していた。

「そっか。それで鍛えた体だったんだ」

「そこまでみっちりやってるわけじゃないんですけどね。まぁ、そこそこってところかな」

「ほんと、もう。君はさぁ」

「腕は悪くないですよ?」

「問題はそこじゃないでしょ! まかり間違っても人様に向けないこと、いいね?」

「わかってますって。万が一が怖いだけっす。臆病だって笑ってくれていいです」

 苦く笑う大和の胸元、安曇は額を寄せた。そのようなこと、思うはずもない。大和はこうして守ろうとしてくれている。自分には何ができるのだろう、考え込んでしまうほどに。

「安曇さんは安曇さんでいて。俺はそれで幸せです」

 ゆるりと背中を抱く腕の温かさ。硬いエアガンが衣服の下にあるのを安曇は感じ取る。少し怖い。が、これは馴染みのない道具に対する恐れ以上のものではない。正体のわからない何かの方がずっと恐ろしいのだと改めて知ってしまった。

 大和は、何か起こると感じているのだろう。安曇も、だった。五十年に一度の式年祭。大きなお祭りでしかないはずなのに。

「手伝い、どうでした?」

 運転するのは安曇だった。ハンドルを持ちつつ安曇は肩をすくめる。何事もなかったということだろう。ふと思い出したよう口を開いた。

「そういえば、教授のご機嫌がよかったね」

 あの打撃からはほぼ回復したのだろう長田だった。にこにこと嬉しげでいつになく上機嫌。

 ――それが、怖かった僕はどうしたんだろう。

 恩人で恩師で。何年も傍らにいた長田がいまは、怖い。大和がいてくれなければどうなっていたことか。あの化け物を呼び出し人間を喰わせた長田。いまから、彼の所に行くのだと。

「そっかぁ。あれ、お祭りの神主さんっていうのかな。教授なんです?」

「まだお父さんが現役だよ。言わなかったっけ」

「いやいや、聞きましたけど。ご病気っしょ? 徹夜で祭祀はつらいんじゃないかなぁと」

「だよねぇ。神道の祭祀はその辺が体力勝負だもん、ほんと大変」

 それでもまだ長田の父が神職としてこの式年祭を務めるのだと安曇は聞いている。会ったことはほとんどない。いまにして少し不思議だ。病身だから、とはいえ。

「教授も神職として祭祀の手伝いはするみたいだよ」

「へぇ、そうなんすね。だったらあれか、教授も神官さんっぽいかっこするんだ?」

「浄衣な」

 苦笑する安曇に照れて笑う。さすがに細かい用語となるとまだよくわからない。そんな大和に安曇が簡単にだけれど、と言って解説してくれた。

「大和君が想像してるのはあの白い衣装でしょ?」

 そうだとうなずく彼に、基本は白生絹の狩衣であること、指貫袴と立烏帽子が一般的であることなどを語る。もちろん様々な形はあると言いつつ。

「神道っていっても一本化された宗教ってわけではないからね」

「んー、その辺が……」

「神道っていうのは僕は狭義の宗教とは考えない。民族信仰というべきかな」

「わかんないっす!」

「だからさ、宗教の定義の問題だけど。宗教には教祖がいて聖典があって布教の意思がある。その三点が揃って宗教だと思うんだよ。神道は?」

 教祖というべき人はいない、聖典もなければ布教の意思もない。だから民族信仰だと安曇は言う。それが悪いのではなく定義の問題と繰り返しつつ。民族信仰であるからこそ、土地によって様々な形が残っている。それは比較宗教学としても興味深いものなのだと安曇は小さく笑っていた。

 ――こんな話してないと、安曇さん。怖いんだ。

 研究の話題で気を紛らわせている彼と大和は気づいていた。同じようなひりひりとしたものを感じている。戎神社に近づくにつれて。

「……あんまりね、聞かせたい話でもないんですけど」

 前置きをして大和は告げる。もう戎神社はすぐそこだ。祭り用の臨時駐車場が見えてきた。かすかに安曇のうなずく気配。

「前に人身御供がって話、しましたよね。安曇さんは毀誉褒貶くらいあるって言ってた。――あれ、事実っぽいです」

「はい?」

「新聞社の奴に、調べてもらってました。少なくとも前回と前々回の式年祭のとき、集落のお年寄りが亡くなってるらしいです」

 それも大勢が。大和は言う、畳みかけるよう、記録に残っていたそうですと続けた。




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