第6話


 今夜のところはここまでにしよう、再度大和に促され安曇はうなずく。これ以上は自分でも無理だと感じている。が、続けないのもまた怖い。大和がいてくれる、そう思っていなかったならばきっと続けていた。

「安曇さん、風呂沸かしたからどうぞ」

「あ、うん。ありがと」

 照れた眼差しに大和はうろたえる。そんなつもりではない、言いかけて、よけいに動揺した。幸いにして安曇はまったく気づいた様子もない。浴室に消えていく後ろ姿に息をつく。

「俺は――」

 何をやっているのだと自らを叱咤する。こんなことではならない、強く思うのだけれど、事ここに至ったならばあとはもう流されるよりない、そんな気もする。それではならないと理性では理解していた。何より。

 ――安曇さん。

 彼のために、ならない。それがわかっている大和だった。それだけは、安曇だけは死守したいというのに。

 それほどのんびりする気分にもなれないのか安曇は早々に風呂から上がってきた。交代する前、大和は念押しする。

「ダメですからね?」

 言えばわかっているよ、と不機嫌そうな彼がいた。大和はまだ不安が残りつつ例の本を見やる。安曇が「わかったから」と笑いながら本を片付けた。

「ほんと心配性なんだから」

 小さく呟けば声に安堵の匂い。大和がいる。それがこんなにも心強い。他人に対してここまで温かな気持ちを抱くとは安曇は想像したこともなかった。相性と一言で済ませていいのかはわからない。それ以上のものを感じる、と言ったら大和は何を言うだろう。

「中学生か、僕は」

 彼だけは特別。そんな甘ったるいことを考えた自分がおかしくなる。そうして笑って少し、気が楽になった。

 よほど心配だったのか大和は安曇よりよほど早く出てきた。

「大和君ってカラスだったんだ」

「長湯できる気分じゃないだけですよ」

「ふうん、温泉とか、好き?」

「もちろん」

「そっか。今度行こうか、一緒に」

 いいですね、笑う大和にふと安曇は違和感を覚えた気がした。するりと掠めて消えていったそれは確たる思いにすらなっていない。だからそれまでとなって彼の記憶には残らなかった。

「寝ますよー」

 ぽんぽん、と大和がベッドを叩いていた。綺麗に整え直している、らしい。首をかしげている間に「安曇さんはこっち使って」と言ってくる。

「大和君は?」

「俺はその辺で――」

「……ふうん」

「わかりました、わかりましたから怒らないで!」

「怒ってはいないよ。残念だなぁって思ってただけ」

 口許で笑う安曇に大和は両手を上げる。どうにでもしてくれ、と言わんばかりに。それをまた彼が笑った。こんな風に笑っていて欲しい。大和はそっと自らのうちに誓いを新たにしていた。

 明かりを消してしまえばあまりにも静か。住宅地のアパートだ、それほど閑静なはずもないというのに。それは二人の恐怖であったり緊張であったりがもたらしたものだったのかもしれない。

「教授さ」

 狭いシングルベッドに身を寄せ合って横たわっていた。大和の腕が自分の背中にある。そのぬくもり。安曇は彼の胸元にすり寄りつつ小さく言う。

「どうしました?」

「ずいぶんね、回復はしてるみたいだよ」

「そっか。よかったです」

 そのようなこと、思ってはいないだろうに。大和は長田を疑っている、安曇もまた疑いはじめている。それでも安曇の心を慮る大和の言葉に安曇はそっと笑った。

「まだね、仕事にはならないみたいだけど」

「まぁ……あんなことがありましたからね」

「うん。お祭りの後ごろには、研究室も再開できるんじゃないかな」

 ふと大和は忍び寄ってきた何物かの足音を聞いた気がした。運命だの破滅だの大層なことは言いたくはない、だがそれに酷似した何かの。

「お祭り?」

「知らなかったっけ。戎神社のお祭り。今年は大きなお祭りだよ」

「例大祭ってやつです?」

「それは毎年やるやつね。式年祭、戎神社の式年祭は五十年に一度だからね、教授もお手伝いするそうだよ」

「それは、すごいな。一代に一度くらいじゃないんですか」

「だよね」

 式年祭などと言われても大和は伊勢神宮だの出雲大社だのしか思い当たらないのだけれど、要は例年ではない、特別な祭祀と思えばいいのだ、と安曇は言う。

 ――嫌な予感がする。

 気のせいと断じられない。福島の件、劇団の件、続いているだけで偶然だと済ませていいのか。そのようなはずはない。安曇は言っていた、自分のせいのような気がすると。彼の周囲で起きている事件に間違いはない。安曇を中心に、何かが起こるのだろうか。いままでのすべては安曇になんらかの関係があるのでは。

 ――安曇さんのせいじゃない。それは、わかってる。

 だから大和は言わない。いまも腕の中で恐怖に耐えている安曇によけいなことは言いたくなかった。

「早く元に戻れるといいですね」

「……うん」

 元になど戻れない、安曇の含みに大和はうなずけない。福島はいない、伊藤もいない。元ではない。安曇の言いたいこともわかるのだけれど。

「戎神社のお祭り、一緒に行く?」

「安曇さんは行くんです?」

「そりゃ養い親みたいなものだし。行かないわけにもいかないでしょ」

「ですよねー」

「だから誘うわけじゃないくらいは、わかってる?」

 もちろん、言う代わりに抱きしめてくちづけた。きゅっとすがりついてくる腕に大和は胸を打たれる。この人だけは、なんとしても。

「ほんのちょっと先にちょっとだけ楽しいことがある。そう思ってると頑張れるよね」

 ぽつんと呟く安曇に大和は答えられなかった。あまりにも寂しい言い分な気がして。会話は途切れがちになり、うとうとと安曇は眠る。温かな体を抱く大和も眠りに誘われる。けれど。

「――っ」

 飛び起きかけた安曇を阻んだのは大和の腕。まだ抱きしめられている、これこそが現実と息をつく安曇の顔色の悪さ。何も問わずに大和は脂汗の滲んだ額を拭ってやった。

「ありがと。……夢、見てたみたいだ。あぁ、違う、福島君が見てたようなのじゃないと、思う」

 夢と言われて大和の体が強張ったのを安曇は感じたのだろう、慌てて言い足すのにほっと息をつく。

「でも、海の夢だったな。潮騒が聞こえた気がしたんだ。なんだろうね、起きるまでは、全然怖くなかった……むしろ、懐かしいような……。膨れ上がった鮫がまるで蛸みたいで細い翼が髭みたいな触手が深海の波にそよいで」

「安曇さん、しっかりして」

「え。あ、うん。大丈夫、心配させちゃったね」

 見上げて小さく笑う安曇だったけれど、彼は気づいていないのだろう。明かりを落とした部屋の中でもはっきりとわかるほど蒼ざめていることに。

「いま俺はここにいますよ、安曇さん」

「……ん」

「一緒にいますから。怖くないでしょ?」

「それじゃ僕が子供みたいじゃない」

「いいでしょ、誰が聞いてるわけでもないんだし」

 どこか拗ねた大和の言い振りに安曇は笑う。それで少し、恐怖が薄れた。薄れたことで、激しかったのだと改めて知った。大和の背中を抱けば自分の手指が震えていて、驚く。ゆっくりと背中を撫でてくれる大和の手に安曇は憩う。それだけでは、足らなくなった。

「安曇さん」

 彼の変化に大和もまた気づいた。戸惑うより、嬉しくはある。同じほどにためらってもいる。ふっと息を吐き見上げてくる安曇の眼差し。

「怖いからじゃないからね。大和君だからだよ」

「知ってますよ」

「大和君、偉そう」

 くすりと笑った安曇に飲まれた。内心に己を罵る。それでも体は安曇に伸しかかり、見下ろす。組み敷かれた安曇の口許、笑みがあった。


 都津上市中心部の繁華街、多くの人が行きかう街のファストフード店で二人の会社員が打ち合わせをしているらしい。

 テーブルに滑らされた資料に宗像は顔を顰める。ずいぶんな分量だった。依頼したのは自分だが、まとめておいてくれと言いたくなる。

「まとめて、それだ」

 宗像の内心を呼んだかのよう男は言う。件の情報収集に長けたあの相楽だった。ハッキングより楽しかったと嘯く声を聞きつつ宗像は資料を読む。

「なんだ、これは――」

「言いたくなる気持ちはわかる」

「カルトにしては古いな」

「この手のカルトは潜伏しがちだから仕方ない。こんなものだろう」

「大手を振って歩かれても困る」

「表に出てくれりゃ片付けられるんだがな」

 物騒な呟きに、けれど宗像は同意する。潜まれて、事件を起こされてからでは遅い。そのために日々活動している自分たち。事件が起きては敗北だとは上司の弁。

 戎神社の調査だった。今年、戎神社では式年祭がある。その辺りを重点的にと依頼しておいたのだが、とんでもない情報が上がってきたものだと溜息もつけない。

 五十年に一度の式年祭だという。これが、人身御供の噂の元であることは間違いない。前回もその前も、人が消えている。しかも大量に。

「情報の確度は」

「戸籍に間違いがない限り事実だ」

「お前の仕事ならそうだろうよ」

 できることなら疑わしいと聞きたかったものを。五十年前はまだ都津上村、といったらしい。いまとは違って村の中心部は地図で確認する限り戎神社周辺の様子。そして、式年祭のたびに人が消える。相楽の調査は明確で、戸籍の写しまで揃っていた。それに目を通せば消えたのは多くは老人か。

「失踪じゃないんだな……この大量死はどういうことだ……」

 戸籍上、祭りの前後に死亡したことになっている老人たち。相楽は役場ぐるみで記録を操作した形跡がある、という。嫌な話を聞いた宗像の剣呑な表情。

「百五十年前までは遡れなかったが、少なくとも大正時代の記録でも同様だ」

 相楽はおそらくは数百年単位で続いているのではないか、そう言う。長い宗像の溜息に彼もまた。

「妙な話だろう。むしろ、大事な話はこっちだな」

 そう言って相楽は資料をめくる。そこには大正当時の聞き込みの記録。とすれば、当時から目をつけられていた、という証左でもあった。いままで手を出せなかったのか、出してもあちらの方が上だったのか。そっと溜息を飲み込んで宗像は資料を読む。


 ――周辺の住民は決して都津上村に近寄らない。祭りのときにはなおさらに。例大祭のときですら戸を閉てて神仏に祈るという。近隣住民は祭りの都津上に近づけば死ぬより悪いことが待っていると信じている。

 都津上村と表記されるようになったのは戦後のこと。排他的な村でもあり、近隣では「とつかみ」とだけ知られていた――


 いままで気づかなかった音。とつかみ。それは、外つ神ではないのか。意味はわからず宗像の全身が粟立った。




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