蛇ノ牙:双剣
「おおおおおおッ!」
境兵は腹の底に力を込めて、ハンマーをゴルフのようにフルスイングした。
柄は長く、頭部を巨大に。この世ならざる霊体の槌は地面に潜り込み、現世の法則に阻まれることなく持ち手の思い通りに振るわれる。
地面から飛び出したハンマーの頭部が、
「グエ……ッ!」
「重っ!?」
両手に伝わる重量に思わず槌を手放した境兵は、ジャンプして地面から斜めに飛び出した柄の後ろ側を踏みつける。
梃子の原理で僅かに持ち上げられた大蝦蟇は、その凶刃を振り下ろした。
境兵は迎撃を選びかけたが、死の直感に従って真横に跳んだ。
二本の巨剣が地面に切り傷を刻む。
巨体を持ち上げていた鉄槌が消え、
ズンと地面を踏みしめる体に、炎の矢が二本突き刺さった。
境兵はインカムのマイクに叫ぶ。
「もっと撃て! なんか効いてるように見えないんだよ!」
「効いてない……?」
「蛙の顔とかわからねえけど、反応が薄い! うおっ!」
ぶおん。風を切る音が境兵の腹から数ミリ離れたところを薙ぎ払う。
直撃はしていないはずだが、シャツが裂けた。ひやりとしている暇はない。
「“御槌”!」
とっさに鉄槌を呼び出して蛙の懐に飛び込み、顎の下を殴り上げる。
クッションを殴っているような手応え。
雨水や泥に塗れて転がる。なんとか片膝をついた姿勢で顔を上げた境兵の視界いっぱいに、大剣を振りかぶる
「ちっくしょう、この化け物が!」
毒づきながら回避を試みて、気づく。
同じように地面に押し付けられていた前足は左右に開かれ、境兵を羽虫のように叩き潰さんとしている。
頭上からは突き下ろされる二本の剣。そして背後は敷地を区切るコンクリート塀。
境兵は、脳裏に浮かぶ“死”の文字を刹那の間に振り切った。
決死の抵抗、針の穴を通すような脱走を試みたその時、
背中を裂かれた大蛙は悲鳴を上げた。不意打ちを食らい、攻撃の軌道が歪む。
境兵は、地面に這いつくばるようにして濡れた土を蹴った。御槌で殴って無理矢理隙間をこじ開け、
背後では、振り下ろされた切っ先が、蛙の両腕を地面に縫い留める。
ごろごろと転がって距離を取った境兵は、息を荒げながら身を起こした。少し離れたところに雨に打たれながらも体の各所から紅蓮の炎を燃やす明日香が佇んでいる。
明日香は炎で出来た大剣を手に、自分の腕から大剣を引き抜く
「確かに、手応えの割にはリアクションが薄いわね。本当に聞いていないのか、やせ我慢してるだけなのか」
「やせ我慢だと思いたい! 結構殴ってやったのに、さっぱり効いてないってんじゃな……。ぐっ、痛ぇ……」
境兵は顔を歪めて、脇腹を抑えた。
シャツに血の染みが広がっている。先ほどの一撃で引き裂かれたのだ。
なんとか胴体を両断されずに済んだものの、浅い傷ではない。ただ、手当している暇も、泣き言を言っている暇も無かった。
明日香の手中で炎の刃が弓となる。
境兵は、蛙の下腹を打ち上げるために使ったハンマーを消し、やや柄の長い片手持ちの槌として再召喚。
下手に反撃を食らわないよう、ギリギリで距離を保ちながら、境兵は問いかけた。
「なあ、あのふたり、大丈夫だと思うか?」
「大丈夫じゃなかったら終わりね。それより、自分の心配をしたら? ヤクザの援軍がいつ来たっておかしくないのよ」
境兵はチラリと敷居の外に停めっぱなしの車たちを見る。
チンピラたちが乗っていたワゴン。ヤクザたちを乗せていた黒塗りの乗用車。
それらは沈黙し、動く気配もない。
「……の、割には降りてこないよな。あの六人で全員だったか?」
「援軍を乗せた車が湧いて出るかもって話をしているのだけど」
「それは勘弁してほしいところだけども。じゃあ、俺たちは一度退くか?」
「却下。こいつがあのふたりの方に行かないとも限らない。ここで潰すわよ」
「ハードだな……服も靴もびしょびしょなんだけど」
ぼやく境兵の前で、
背中は明日香の炎がくすぶっており、じりじりと魂で出来た体を焼き滅ぼしつつあるが、まだまだ余裕そうだ。
雨は強くなり、遠くで雷鳴まで鳴る。
先ほどまで姿を隠していた明日香の出現も加味して戦術を立てているのか、
「とっととこの蛙を仕留めるしかなさそうだが、こいつ、めっちゃ重いし硬い……!」
「ええ。それに、物理的な破壊力も備えている」
剣に引き裂かれた廃ドラム感や、風穴の空いたビルの壁を横目に、明日香は矢を番えた。
夜葬旭での物質破壊は、不可能ではない。
しかし、それにはかなりの好条件がそろっている必要がある。
どんなに派手な攻撃に見えたところで、所詮は霊体。質量については謎だが、少なくとも普段から人気のない街外れ程度では、式神がコンクリート塀を破壊するなど不可能なはず。
もっとも、夜葬旭の知識は全て、陽菜乃からの受け売りなので、一概には言えないのだが。
境兵は浅く息を吐くと、剣道家のように両手でハンマーを持ち直す。
ふたりの臨戦態勢を読み取ってか、
汗の全てが、雨に溶けて流されてゆく。
「やっぱ、こいつを夕に任せるべきだったか? 蛇だし」
「覚醒直後だったら、出来たかもしれないわね」
葬者は覚醒直後が最も強い。
火事場の馬鹿力というやつだろうか。死に瀕する寸前で目覚めた夜葬旭は、物質にも魂にも強い影響を及ぼすが、以降その力は大幅に弱まり、鍛錬によって少しずつポテンシャルを取り戻していく。
では、
考えられるのは、阿黒が持ち去ったという、あの機械の箱。妖魔を強化するらしい、あのアイテムの力を、式神に使ったのだろうか。
そこで明日香は思考を打ち消した。
「疑問は後。あっちはあの子たちに任せるとして、私たちはこの閉ざされた街で、早晩ヤクザに追い詰められて殺される羽目になる。あの子の兄がそうだったように、それはもうこっぴどく痛めつけられてね」
「そいつは……御免だな!」
闘志を燃やしたふたりが強烈なオーラを身にまとった。
ピシャッ、と遠くで雷鳴が光ったのを合図に、ふたりは
示し合わせたわけでもない、即興の挟撃だ。明日香は炎の矢を放つ。
途中で矢じりが爆ぜ、いくつにも分裂した炎の矢を、
反対側に行った境兵は、御槌を如意棒のように伸ばした。
こちらも刃に弾かれてしまう。弾かれた鉄槌を消し、小さな金槌を作って投げつける。
事も無げに刀身で防がれるものの、構わず再召喚を繰り返して金槌を連投。明日香も一定の距離を保ったまま、炎の矢を連射する。
両者ともに大剣の間合いの外。片方を攻撃すれば、もう片方をフリーにしてしまうのは必至。
攻撃を冷静かつ的確に弾きつつも、互いに決定打に欠ける戦況。リスクを承知で攻撃するか、反撃狙いの我慢比べか。
しばしの拮抗の途中、
体をねじって、あらぬ方向に目を向ける。
視線が外れたその一瞬を狙って、明日香と境兵は
それを読んだかのような、横薙ぎの斬撃。明日香は跳び下がり、境兵はハンマーで刃を殴るも弾き飛ばされる。
踵で地面を蹴って、追撃の間合いから逃れた境兵は、悔しそうに呻いた。
「フェイントまで仕掛けてくるのかよ、こいつ!?」
「いえ、多分違う」
「違うって、何が!」
インカムから聞こえる声に怒鳴り返しながら、踏みしめる。
そこで、気が付く。
腕は霞のように輪郭をぼやけさせ、やがて消滅した。
後には、むき出しになった蛙の肌が残された。
境兵は突然の出来事に眉をひそめる。
「……なんだ、あれ?」
「わからない。式神が維持出来なくなった、とかでは無さそうね。夕の方に何かあったのかしら」
「うーん……。ま、でもチャンスだよな」
「ええ」
明日香と境兵の目がギラリと光った。
前後左右をカバーできる巨大な刃と、それを持つ腕が一本消えた。
その場所はがら空き。空白地帯、突くべき隙。
「出来る限り気を引いてみる。空いた場所を狙ってみて」
「OK、いつでもいいぜ!」
明日香の炎の弓が巨大化した。
空っぽの手に作り出した炎の槍を番え、腕の無くなった大蝦蟇の眼球に狙いを定める。
ドウ、と目にも止まらぬ速さで射られた炎の槍が、刃とぶつかり、火の粉を散らして切り払われる。
境兵は孤を描く形で動き、
呼び出したのは一二〇九号室で獲得した
「どらぁッ!」
残った尻側の剣が防御しようとするが、ギリギリ間に合わない。
槌刃は狙った場所を引き裂き、濁った血のような何かを吹き出させた。
巨大な蛙は苦痛を覚えながらも、境兵には目もくれず明日香に剣を振り下ろした。
―――――――――――――――
夕が右拳を思い切り振りかぶる。
白い炎の大蛇と化したそれが、パンチを繰り出すと共に一気に伸びて阿黒を襲った。
阿黒はボクシングスタイルで身構えて、走り出す。
大口を開けて迫る大蛇の頭。それが半身になった阿黒の胸板を掠め、後方のアスファルトにかじりつく。
体をひねり、魂喰夜蛇の横腹を殴りつけた阿黒は、両膝を思い切り曲げて加速した。
「素人が!」
「威張ってんじゃねえよ、蛙野郎!」
次に左拳を繰り出す夕。
打撃は決して届かない距離。その差を埋めるのは白夜の尻尾だ。
トゲの如く尖った先端が、阿黒の胸板を貫きに行く。
しかし、阿黒は恐れない。裏拳で尾を弾き飛ばしてさらに詰めて来ようとする。
白夜は弾かれた尾をしならせると、空中から斜めに刺突を突き落とした。
軽く屈めた阿黒の頭上を鋭い一撃が掠め、道路を穿つ。
若頭補佐は脇を締め、拳を引き絞った。
「パンチってのはな、こうやって撃つんだよ!」
「!!」
夕は右腕の魂喰夜蛇を手元まで縮め、両腕を交叉した。
式神を纏った右腕を前にした防御姿勢。しかし鉄拳は、放たれる寸前でほんの少し角度を変えて、カバーしきれていない夕の腹を鋭く抉った。
「ごあ……っ!」
「へっ」
スニーカーを履いた足が地面を離れ、大きく開いた口から唾が報られる。
阿黒は革靴の足でアスファルトを踏みにじるようにして、夕を殴り飛ばした。
吹き飛ばされた矮躯が、転がりながらバウンドする。
すぐに追いついた阿黒の蹴りが、サッカーボールのように夕を遠くへ転がした。
胃袋に熱した鉄の塊を押し込まれたかのような苦痛が夕を苛む。だが、夕は腹に力を込めて堪え、両手の平を地面についた。
アスファルトが粗いヤスリとなって柔らかな手を傷つける。なんとかそれ以上引き離されるのを阻止し、爪先をついた夕が顔を上げると、すぐ目の前に阿黒のキックが迫ってきていた。
「ぶがっ!」
「弱いじゃねえか、お嬢ちゃんよお!」
鼻血を散らして斜めに仰け反る夕を嘲笑いながら、阿黒は蹴り足を戻した。
その勢いを地面に押し付け、逆の足で今度は脇腹を蹴る。ピシッ、と冷たいヒビの走る感触が夕に伝わった。
真横に吹っ飛ばされ、背中がガードレールに打ち据えられる。夕は衝撃で動けなくなるが、白夜は違う。
白夜は夕の意識が飛びかけたのを見て取ると、鋭い尾を阿黒に突き出した。
せめてもの抵抗は、手づかみで防がれる。白夜は舌打ちすると、つかまれた尻尾を波打たせた。
鋭いトゲがいくつも飛び出して、阿黒の拳を無理矢理開く。
掌や指を切り裂かれた阿黒は、不愉快そうな顔で一度距離を取った。
「夕、大丈夫だよな? まだやれるよな!」
「当たり前、だろ……っ!」
白夜の囁きに掠れた声で返事をしながら、夕はふらふらと立ちあがる。
鼻からぼたぼたと垂れた血が、パーカーの袖口を、スニーカーの爪先を汚す。
脇腹の痛みに体が震える。過去、阿黒に蹴られたことは何度かあった。だがそれよりも遥かに効いた。
奴が葬者となったからか、それとも夕が女体化したせいで、骨まで脆くなったのだろうか。
阿黒は余裕でステップを踏んでいる。まるで早くかかってこいと挑発しているかのように。
―――クソ。これじゃあ、何も変わらねえじゃねえか。
息を切らしながら阿黒を睨みつけると、軽やかなステップワークが不意に止まった。
阿黒は肩をすくめ、軽薄な呆れ笑いとともに首を振る。
「無理するんじゃねえよ、お嬢ちゃん。一体いくつだ? 中坊、下手したらまだ小学生か? そんなんで
「黙れ……!」
「反抗期かよ。けどな、感情任せにキレてないで、現実を見ろ。お前も御大層な力を持ってるようだが、肝心のお前がフラフラだ。パンチの打ち方だけは悪くねえが、それ以外はてんでダメだ。お前もそう思うだろ?」
「黙りやがれっ!」
夕は乱暴に右腕を振った。
鞭のように伸びてしなった魂喰夜蛇がアスファルトを砕くが、阿黒は素早い足運びで回避している。
動くと、亀裂の入れられた肋骨が痛みで抗議してきた。
「ぐ……っ!」
「はは、ガキの喧嘩って具合だなあ? こっちには
嘲笑いながら、阿黒はゆっくりと孤を描くように移動する。
夕の右側から、左側へ。右手の蛇は大きくて厄介だが、左の蛇は細い。カッターナイフほどの刃渡りでも、刺されれば人は死ぬ。だが、カッターナイフと車の追突では、どちらの方が防ぎやすいだろうか。そうした計算も抜かりない。
一撃も有効打は与えさせない。蹂躙し、嘲笑い、無力感を教え込む。極道の威厳とは、そういうものだ。
「大人しく降参しろ。ついでに、お前のお仲間を売れ。そうすりゃ、命だけは助けてやるし、なんなら便宜も図ってやってもいいぜ。近頃はお前みたいな
夕は脇腹を抑えたまま、阿黒を睨みつけ続ける。
陽菜乃は、夜葬旭の有無だけを考えれば、こちらが有利と考えた。
しかし、いくら霊的な存在を従えたところで、葬者は人だ。歴然たるフィジカルの差は覆しがたい。
男の頃でさえ敵わなかった。ナメられないように拳の打ち方を教えるという名目で、何度も殴り倒された。
唯一、ヤクザをお咎めなしで殴ることのできる場でありながら、夕は一撃も加えられなかったのだ。
肉体的に“か弱く”なった今となっては、言うまでもない。
それでも、もう退けない。この場を放棄してしまったら、今度こそ夕の心は死んでしまう。
死ぬまで戦うというつもりもない。あの薄ら笑いを、兄と同じように苦痛でぐちゃぐちゃに歪めなければ、死んでも死にきれない。
夕はありったけの息を吸い込んで、腹に押し込む。
それで痛みを堪えると、夕の左手側に移動した阿黒に正面を向けた。
「兄貴にも……そんな風に“取引”を持ちかけたのか?」
「あ?」
「三年前、お前らを殺しに行った兄貴にも、そういう風に言ったのかって聞いてるんだよ……!」
「三年前……」
片方の眉をピクリと動かした阿黒は、記憶を探る。
数秒と経たず、記憶は掘り起こされた。三年前に、隈取組に
「あいつか? いや、あいつに居たのは弟だけのはず。妹もいたのか? そんな話は一度も……」
「どうなんだよ!」
独り言を怒声が遮る。
阿黒は記憶漁りをやめて、再度身構えた。
白い火の粉の乗った暴風が、押し寄せてきたからだ。
純白の業火が、夕の全身を包み込む。
「お前らは兄貴にもそう言ったのか!? それで兄貴は俺を売ったのか!? んなわけねえだろ! 兄貴は……お前らなんかに屈しやしねえんだ!」
「ケッ、まあいい。だったら念入りに牙を抜いてやるよ! あいつの弟みたいにたっぷり躾けて、タマ無しの
そこで阿黒は片頬を吊り上げ、皮肉っぽく呟いた。
「っと、お前に元々
「テメェエエエエエエエエッ!」
夕が右腕を突き出すと、電車ほどに巨大化した魂喰夜蛇が飛び出してきた。
首を九十度ひねり、阿黒を左右から挟み込む形。
流石の阿黒も一時たじろぐ。それが決定的な隙になった。彼の背丈よりも幅広い蛇の口が勢いよく閉じるのを、左右に両手を突き出してなんとか防ぐ。
巨大な万力にかけられたが如き圧力に、阿黒の腕が軋む。蛇の力をなお強く、容赦なく捉えた者を潰しにかかった。
完全に油断していた。先ほどの攻防でも魂喰夜蛇は巨大化していたが、それが限度と勘違いした。今度は先より遥かに大きい。
阿黒は中腰になり、両足と腕に力を込めて呑み込まれまいとする。
魂喰夜蛇の口内は以外にも普通で、肉の色をしていた。これに呑み込まれたらどうなるのかなど、想像もつかない。
「ぐおおおおっ!」
「ぶっ殺してやる! ズタズタにして、蛇のクソに変えてやる! テメェの首を、兄貴みてえに切り落としてやるッ!」
憤怒の言葉をまき散らしながら、夕はかぎ爪のように強張らせた右手の指をさらに強めた。
魂喰夜蛇は突進の勢いを殺しておらず、阿黒は凄まじい力で真後ろへと引きずられていく。
踏ん張った革靴のソールが削れて煙を上げ、足裏にまで熱を伝える。融けたゴムの異臭は、阿黒の嗅覚を重くする前に蛇の喉へと呑み込まれていた。
徐々に徐々に阿黒の腕が押し負けていく。肘が折れ曲がり、上下の顎が迫ってくる。
阿黒は己の油断を自覚した。
―――このガキ、こんな力隠してやがったのか!
―――蛇に頼りっきりだと思って油断したのが間違いだった!
廃ビルの最上階と、さっきまでの攻防を経て、阿黒は魂喰夜蛇を“便利だが戦闘には不向き”と考えていた。
しかし、葬者になりたてながら、死に瀕したことがない阿黒は知らなかった。
夜葬旭は、葬者の心ひとつで、強くも弱くもなるのだということを。
「おおおおおっ!」
夕が右腕を振り上げると、魂喰夜蛇も頭を上げた。
鼻先が暗黒の夜空に向けられたことにより、阿黒の足が地面を離れる。
重力は、蛇の喉へと彼の背を押す。阿黒の全身が冷たくなった。
隈取組に入ったばかりの頃、へまをして組長に“気合を入れられた”時とはまるで違う恐怖。
生物が持つ原初の恐怖。捕食されることへの恐れ。
踏ん張りの利かなくなり、蛇の顎を抑えていた腕が滑る。
魂喰夜蛇の口が閉じ、赤みがかった闇が阿黒を包んだ。
そのすべてが、酷く緩慢に感じられた。
―――死ぬ?
―――おいおい、馬鹿を言うなよ。相手は毛も生えそろってないような
―――さっきまでいたぶってただろうが。俺の方が強かった。たった数秒前のことだ。
―――なのになんで、俺は死にかけているんだ?
轟々と激しい血流の音が阿黒の鼓膜を震わせる。
肉色の奈落に、様々な景色が映ったように見えた。
することもなく、暴力に明け暮れた子供の頃。
威厳に満ちた隈取組長と出会った高校時代。
盃を交わした後、ヘマをしでかした罰で半殺しにされた時、組長に説教されたこと。
“阿黒。極道ってのはなぁ、
“俺たちは絶対的強者だ。
“だから勝て。なんとしてでも勝て。
“俺と盃交わしたからには、
“わかったか、阿黒。相手が誰であろうが、お前は
阿黒は落下しながら目を見開いた。
両手で空気を握りしめる。憧憬、気骨、プライドが、赤銅色のオーラとなって彼の両腕を包む。
それはやがて、彼の全身にまとわりついた。
―――
「
決意の咆哮が轟いた。
夕と白夜にも、その声は届く。
蛇が口を閉じたのを確認し、僅か二秒が経過した時点の出来事。
白夜は本能的に危機を察した。
「夕!」
「クソ、死ねッ!」
夕は右腕を真上に振り上げて、ひねる。
頭上にそびえる白い火柱と化した魂喰夜蛇は、竜巻のように捩じれて高速回転し始めた。
白い竜巻、いや
これで呑み込まれた阿黒を圧し潰し、ミンチに変わる。そう確信したその時、魂喰夜蛇の横腹から銀色の刃が生えた。
胴体が縦に引き裂かれ、裂け目を内側から両手がつかんで、こじ開ける。
ぶしゅっ、という音を立てて、人影が虚空に飛び出した。
それが誰かなど、改めて教えられるまでもない。
数メートルの高さから斜めに落下した阿黒は、なんとか受け身を取って道路を転がる。
夕は思わず半歩足を引き、白夜は持ち上げた尾の先を震わせた。
「はは、はははははは……」
乾いた笑い声を上げながら、阿黒がゆらりと身を起こした。
その表情は、夕と白夜を心胆寒からしめる、凄絶な笑顔。
ささくれ立つ赤銅色のオーラに包まれた姿は、この世のものとは思えなかった。
「今時、抗争だの鉄砲玉だの、そんなものは中々ねえ。特に
「夕、あれ……」
「言われなくても見えてんだよ」
白夜が尻尾で示す先に、夕の視線が注がれる。
指し示すのは、阿黒の両腕。それはもはや、高いスーツに覆われたものではなかった。
時代錯誤な、赤い手甲。肩から指先にかけてを守る防具。そして両手に握られた、湾曲した刃の刀。
阿黒は刀を交叉し、不気味な笑みで吠えた。
「こいつを乗り越えたんならよお、俺も一端の
「避けろ!」
白夜の警告より早く、阿黒は銃弾のように弾けた。
X字に交わった刃が迫りくる。夕はキッと眦を鋭くして、右拳を繰り出した。
再生した魂喰夜蛇が再び阿黒を食らおうとする。アジトの最上階では、
しかし、今の阿黒が持っている剣は、あの時とは比べ物にならないほど小さい。
今度は夕が油断する番であった。
「ッシャアアアアア!」
奇声を上げた阿黒は、独楽のように回転し始める。
両腕を限界まで開いて、魂喰夜蛇の体を真っ二つに引き裂きながら夕に接近。
間近に迫ったところで剣を斜めに振り抜き、魂喰夜蛇の体内から容易く脱出してのけた。
「兄貴の首を落とされたって!? じゃあ今度はお前の首だなぁあああ!」
「阿黒おおおおおおッ!」
高い位置から振り下ろされる二本の剣。
夕は怒りに任せ、魂喰夜蛇の残り火を炎の渦としてまとった右手で殴り返した。
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