食うもの、食われるもの
「ぐうっ、ううううううっ!」
夕はくぐもった呻き声を上げて、黒の中で藻掻いた。
何が起こったのか、自分でもよくわからない。境兵と戦っている最中、急に後ろから伸びてきた髪の束に口を塞がれ、体中を締め付けられて引きずられている。
目に映るのは、真っ暗闇。首を絞められて苦しい。必死に
足元の方に目を向ける。そこで扉が閉ざされ、べたべたと無数の手痕がつけられた。
―――くそ、くそっ! 離せ、この!
もがもがと喚きながら、拘束を振りほどこうとする。
だが、腕や足、胴体に絡みついた黒い糸束は、ますます力を込めた。
呼吸が出来なくなる。背中をめいっぱい反らせて酸素を求めるが、ままならない。
思考を堰き止められた夕の頭上、墨汁を溜めたような色合いの天井に、いくつもの眼球が、水に浮かぶ球のように現れた。
大小さまざまな形のそれが、夕を見下ろしている。
心臓が跳ね上がる。その眼差しが何を求めているのか、一瞬で理解してしまった。
目玉が輪状に配置を移し、中央の暗黒がガバリと開く。
よだれを滴らせる丸い大口が、ゆっくりと夕めがけて落下してきた。
“家具や金品に荒らされた形跡は無く、現場に残された手がかりは一切なし。警察は早々に捜査を打ち切ったが、不動産会社の社員が確認のため部屋に赴くと……”
“大量の毛髪に左腕を食われたと、錯乱状態で逃げ帰ってきたそうだ”
こいつだ。
この部屋に住み着いた、人食いの怪物。今度は獲物を逃がさないようにと、策を弄して待ち構えていた。
食欲の矛先は今、夕に向いている。
「んーっ! んんん、んーっ、んーっ!!」
夕は涙目になって暴れまわった。
天井からゆっくりと下降してくる口は円筒形で、夕に近づくほど径が太くなっていく。
丸呑みにするつもりなのだ。
こんな化け物に食われて、死にたくなどない!
「ぐうっ、うう、ん、んんんんんーっ!」
全身に残った力を振り絞って、拘束から脱しようとする。
試みは、たった数秒で終わった。強まる拘束と、酸欠。何より、筋力が無いことが原因だった。
夕は床に敷き詰められた毛髪に体を沈めた。
荒い鼻息を吐きながら、胸の奥が恐怖と悔しさで埋め尽くされる。
―――こんな……髪を千切るだけの力もねえのか?
―――パンチも打てねえ、縛られても抵抗できねえ。
―――女にされたからって、まともに喧嘩も出来なくなっちまったってのかよ?
―――嫌だ!
「んぐおおおおおおおおおおおおっ!」
あらん限りの力を込めて体を出来る限り起こし、右腕に力を込める。
肩から先が白い炎に包まれ、魂喰夜蛇が姿を現す。腕に巻きつく形ではなく、拳を包む白い炎が丸ごと頭部となるような形で。
それを見た白夜が目を大きく開いたが、夕にそちらを気にする余裕はなかった。
―――蛇っ!
夕の心の叫びに応じて、魂喰夜蛇が牙を剥いた。
拳を出来る限り上に向けると、魂喰夜蛇の体は巨大化し、妖魔の口吻を逆に飲み込むほどになる。
妖魔が……部屋を埋め尽くす髪の毛が、電気を流されたみたいに波打つ。天井に浮かんだ目玉は血走り、危機を感じ取っていた。
行ける。夕が確信すると共に、魂喰夜蛇は、来た時は逆に素早く引っ込む妖魔の口吻を食らおうと跳ねた。
その朧な輪郭を、四方八方から突き出された無数の黒い槍が刺し貫いた。
髪の毛だ。魂喰夜蛇を危険と見なした妖魔は、部屋を埋め尽くす自身の髪を束ね、攻撃したのだ。
―――あ……。
夕の時が凍り付いた。
魂喰夜蛇の苦しみは、不規則に飛び散る白い火の粉が代弁している。しかしそれを、動きにも、声にも表せない。
白い大蛇は、己を刺し貫いた髪束の槍に引き裂かれ、散った。
―――あ、あああ……!
夕の胸を、黒い水が満たしていくようだった。
反撃されかけてなお、妖魔は夕の拘束をほどかない。抵抗に驚きはしたが、夕を解放するほどではなかったのだ。
むしろ、締め付けはきつくなる。
脳への血流が制限されて、意識が遠のく。万が一の反撃も許さぬよう、殺してから食うつもりだろう。
白夜が慌てるが、そちらも強く縛られて、のたうつことすら出来なくなっていた。
口吻は下りてこない。眼球は夕を凝視している。
だが、夕にはもはや、反撃する気力は残っていなかった。
決死の一撃を無下に散らされ、抵抗も無意味。妖魔に、もはや油断は無い。絶望が、夕を引きずり込もうとしていた。
―――嫌だ、いやだ……死にたくない……!
―――にい、ちゃ……。
視界が滲んだ。
今わの際に、今朝の夢を思い出す。
厳しくも優しく諭してくれる兄の顔が思い出せない。
振り返った首が無い。あんなに背中を追いかけていたのに、朗らかに笑う兄が好きだったのに、輪郭さえもわからない。
夕の意識が途切れる寸前、破砕音が轟いた。
嵐の如く振り回された鉄槌は、動きを阻む壁をすり抜け、妖魔を蹴散らし、リビングに続く扉を破砕。
顔面の半壊した妖魔が、境兵の足にむしゃぶりつき、足止めしながら捕食を試みる。境兵は顔をしかめて、ハンマーをバトンのように回転させた。
床をすり抜けて一回転した鉄槌が、今度こそ妖魔の顔面を吹き飛ばす。
残った体躯が首から陽炎のように虚空へと溶けて消えていくが、死にざまを見送る者は誰もいない。
境兵は既に、リビングの天井にへばりついた大量の毛髪と、その中に浮かぶいくつもの眼球を見ていた。
夕を食らおうとしていた妖魔は、消耗させてから食おうとしていた、強そうな獲物に注意を向ける。
視線が交錯した。
鉄槌の式神が瞬きのうちに柄を縮め、頭部を射出するように伸ばす。
妖魔の反応は間に合わなかった。とっさに防御しようと毛髪を天井から垂らすが、飛来する矢を暖簾で防ごうとするに等しい。
夜葬旭“御槌”は、怪物の眼球をひとつ潰した。
「夕っ!」
円錐型の口吻から迸る絶叫を無視して、境兵はリビング中央に倒れた夕に駆け寄ろうとする。
拘束された夕は意識を失い、左腕に巻き付いていた蛇も合わせて消失している。
まさに
しかし、境兵の行く手を、床から鉄柵のように伸びた髪の毛が塞ぐ。御槌で薙ぎ払おうとするが、絡めとられてしまった。
止む無く夜葬旭を解除して、後退する。境兵のいた場所を、髪束が何本も貫いた。
天井から垂れ下がる口が湾曲し、境兵に口腔を向けて吠え猛る。
眼球も、豆電球みたいに髪に包まれて、天井から下りてきていた。瞳は当然、境兵ひとりを凝視している。
逃げる気配は無い。
―――操られていた雑魚はともかく、目玉潰されて怒るとはな。
―――よっぽど強さに自身があるのか。それとも、逃げられない理由でもあるのか?
新しく御槌を出し、振りかぶった状態で臨戦態勢を取る。
妖魔も下手に突っ込んでくる類の相手ではないらしい。束ね、捩じって、先端を鋭く尖らせた毛束を何本も用意しながら、境兵をリビングに入れまいと牽制している。
膠着の隙を突いて部屋を見回せば、家具らしき凹凸をいくつか確認できた。それらは妖魔の髪に飲み込まれており、境兵の乱入に伴って、壁や家具にもいくつか目玉を生やしている。
―――なるほど、部屋そのものと一体化してる説、部屋に覆いかぶさってる説の二択だな?
―――髪ばっか……元は人間の妖魔なんだろうが、ほぼ原型留めてねえ。
―――さっきの手痕ついたドアはコイツの仕業か? でも手とか無いしな。
―――明日香か海羅が必要だろ、これ! 御槌じゃ手に終えねえぞ!
「でも年下の女の子置いて逃げるの、だせえよなあ。やるしかねえかー……!」
溜息混じりながらも、境兵は瞳に闘志を燃やす。
震脚でもするかのように強く一歩を踏み出すと、髪の毛束は一斉に襲い掛かってきた。
ジャンプし、御槌を床に向かって全速力で伸ばす。
頭部が床を打ち、境兵を棒高跳びさせた。
両足を伸ばし、出来るだけ体を地面と平行にして、髪の刺突を越える。
天井から振ってくる何本もの髪槍。髪の毛だらけの床を転がるのはリスクが高い。夕の二の舞になる。
頭を下げ、両腕で後頭部とうなじを守って突き刺さる痛みは気合でこらえた。
「痛っ……てぇぇぇぇぇ!」
髪槍を押し上げるように腕を動かし、リビングに着地。
すかさず足を絡めとろうとしてくるが、なんとか跳んでかわし、柄を縮めた御槌を頭上の眼球に放り上げた。
髪の毛に吊り下げられた眼球は御槌をかわす。先ほどの痛みが身に染みたのか、妖魔の注意がそちらに向いた。
その隙に夕へ駆け寄り、引き起こそうとするが、床にがっちり固定されている。
「がっつり縛りやがって! ヘアサロン行って来い!」
叫んだ境兵の手に、新たな御槌が現れる。
その形状は、ハンマーというより斧に近い。
思考を飛び越え、とっさに作り出された御槌は、頭部を鈍器から刃へと変じさせていた。
素早く
今度は、境兵が遅れを取った。床と一体になった毛髪が螺旋を描き、境兵の足を締め上げたのだ。
妖魔が咆哮して怒りを示す。せっかくの獲物を、よほど奪われたくないらしい。四方八方から髪で編まれた槍を突き出してきた。
「どけえええええっ!」
境兵は夕を肩に担ぐと、
腕を振り回して部屋中から襲ってくる刺突を、次々と切り払っていく。
切断され、飛び散る毛くずが雪のように宙を舞った。
折を見てさらに柄を伸ばし、天井際も切りつける。眼球をまたひとつ、掻っ捌いた。
妖魔は限界までひっこめた口で苦痛を叫び、攻勢を一層強くする。
一見、互角に見える戦い。だが、圧倒的不利に立たされているのは、境兵の方だ。
―――足の髪、斬ってる暇がねえ!
境兵は必死になって槌刃を振るいながらも、強い危機を感じる。
両足を縫い留めた髪は、既に膝まで達している。仮に攻撃を乗り越えたとしても、この髪を裂かねば脱出出来ない。
にも関わらず、妖魔の攻撃は激しくなる一方である。これほどの凶暴性を見せた妖魔を、今まで見たことが無かった。
―――明日香が山で会った奴も、こんな感じだったのか?
―――だったら確かに手に負えないな。
―――だが!
「んなところでお前に食われて死ぬのは御免だ! うおおおおおおおおお!」
壁も、床も、天井も無秩序に引き裂く斬撃の嵐。妖魔は口と眼球を毛髪の中にしまい、防御する。
互いに遮二無二、なりふり構わない攻勢に出た。
その状況にあってなお、境兵の負け筋は明確だ。
腿まで伸びた髪が、両腕の動きを止めれば御槌を振るえなくなる。そのまま殺され、食われてエンドだ。
そっちまで手は回らない。片腕は夕を担ぎ、床に落とさぬよう、しっかりと支えているのだから。
「夕、起きろ、夕! このままじゃ、ふたりそろって妖魔の夜食だ! 起きろ!」
滝のような汗を流しながら叫ぶ。
部屋中を斬り刻んでいるが、手応えは繊維を裂く感触のみ。
眼球と、歯の生えた口がどこに行ったのか、もはやわからない。
ふと足元に目が行った。髪に囚われた両足。その間に小さな眼球と口が、いくつか開いていた。
瞳は期待に輝き、口は前菜を食べているかのように動く。
境兵は、妖魔の策を理解した。
―――こいつ、安全地帯に急所を移して、俺が動けなくなるのを待ってやがるのか!?
―――そうだよな、
「夕ぅ―――ッ! 白夜でもいい! どっちでもいいから起きろ―――っ!」
「……う」
必死の呼びかけが届いたか、それとも
両目が霞み、頭がぼーっとする。
酸欠から解放されたばかりの脳が激しく揺さぶられ、夕は眉根を寄せた。
「ん、俺は……?」
「起きたか。頭上げるなよ。寝起きで悪いんだが、俺の体についてる髪の毛、なんとかしてくれないか!」
夕の目線が下を向き、正気付かせる。
境兵の腰までが、髪の毛によって縛られていた。
同時に、自分を縛り付けて食らおうとする存在を思い出す。夕はとっさに、右拳を突き出した。
「蛇―――…………」
腕に白い火が走った途端、ギクリと心臓が嫌な音を立てた。
食われる寸前で、決死の抵抗として呼び出した、巨大な魂喰夜蛇。それが何もできずに貫かれ、引き裂かれた光景が蘇る。
絶望の残り香が、夕を引き留めた。
脳裏に浮かぶ、首から上の消えた兄の夢と、頭部を引き裂かれて散った魂喰夜蛇が重なり合う。
「どうした!?」
「だ、ダメだ。蛇は……やられた。俺は……」
境兵の足元にいくつもの小さな眼球が湧き、ぎょろぎょろと動く。
たくさんの視線が夕に集中する。ひとつだけある口の動きに、夕は激しい恐怖を覚えた。
「俺、俺には……俺……!」
「ちょっ、しっかりしろ! お前が生きてりゃ式神も生きてる! ……うおっ!?」
境兵が夕に気を取られ、
千載一遇の好機を、妖魔は見逃さなかった。
壁や天井から何本も伸びた髪の束が、
とっさに武器から手を離した境兵は、空中に放り出されたような浮遊感に襲われた。
妖魔が境兵の足元で、大口を開けたのだ。
境兵の足を抑えていた髪の毛がほどけ、ふたりは肉の色をした奈落に突き落とされる。
生暖かく、
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