事故物件・決死の計

 スマホをほんの強く握ると、微かな振動が伝わってくる。


 耳に当てれば、羽虫の羽音のような、ラジオのノイズのような、耳障りな音が聞こえてきた。


 一二〇九号室を離れた陽菜乃は、十二階を一通り周ってから、十一階と十三階を行き来していた。


 力をつけた妖魔の巣には有りがちだが、ふたりを送り出した時点で、一二〇九号室の扉は開かなくなってしまった。夕は携帯を持っておらず、境兵は両手を使って戦うので、連絡は控えている。ひとり手持ち無沙汰になった陽菜乃は、不安な感情を押し殺すように散策していた。


 現在は十一階。一二〇九号室から最も離れた場所にいる。


「……妙だな?」


 スマホ画面のメーターを見ながら、首を傾げた。


 青、黄、赤の三つに区分けされた目盛りのエリア。赤い針はその青と黄色の境目から、やや青寄りの位置で揺れている。


 測っているのは、霊壌れいじょうの濃さ。つまり、この辺りの“魂の濃度”である。


 霊壌が濃くなる条件は、三つ。夜であること、命の密度が低いこと、そこで死んだ者が多いこと。


 今は夜であるが、それなりに人口の多い棚途市の、それもベッドタウンにある居住施設の中。ならば、メーターは間違っていない。実際、十二階も十三階も似たようなものだった。


 問題は、一二〇九号室の扉を開けた瞬間だけ、メーターの針が“振り切れた”ことにある。


 空気と同じで、霊壌も濃くなる場所、薄くなる場所、籠もる場所、流動する場所がわかれる。


 室内は、魂が籠もりやすい。長く無人であったり、日光が届き辛かったりすると、妖魔にとっては好物件だ。


 それだけ、安心できる縄張りを作りやすくなるからである。


 ―――だが、魂は魂。空気は隙間を閉じれば密封できるが、物質ならぬ霊魂はそうもいかない。


 ―――まして、マンションの一室だけ、超高密度で滞留することなどあり得ない。


 ―――その場合は、最低でも十二階全域にイエローアラートが出て然るべきだ。


 ―――だというのに、一二〇九号室の外は青。市内の平均値とそう変わらなかった。


 ―――なんだ? 一体どうなっている?


 陽菜乃は口元を手で覆い、深刻に考え込む。


 全く何もわからない、なんてことはない。ヒントはいくつも持っているし、組み立てれば大まかな全貌は見えてくる。けれど、虫食い穴はいくつもあって、そこにピタリと当てはまるピースが無い。


 非常階段に繋がる扉はガラス張りで、棚都市がある程度見渡せる。


 空はやはり、星も月もない。塗りつぶされたような黒も馴染んで、それが普通であるかのようだ。


 硝子に映る薄い鏡像を前に立ち尽くす陽菜乃の懊悩は、金切声にも似た警報にかき消された。


 音源であるスマホに目をやると、呼吸が止まる。


 境兵と夕が消えてなくなった旨が、メーター画面を上書きしていた。


「豊来君、夜刀君!」


 目の前の扉を跳ね開け、急いで階段を登る。


 カンカンと空虚な足音と共に、陽菜乃は祈るような気持ちでコール音に耳を澄ませた。


―――――――――――――――


「おわあああ―――っ! 御槌みづちぃぃぃぃぃ!」


 妖魔の喉を落ちながら、境兵は手の中に式神を呼び出し、柄を伸ばした。


 アクション映画なら、これで落下は止まっただろう。残念なことに、柄尻と頭部は肉壁のぬめりに負ける。


 既に入口は見えない。同時に、出口もまた見えない。どっちかに向けて全力で柄を伸ばしたところで、助かるだろうか。


 肩に担いだままの夕は、助かるとは考えていないらしい。


 頭を抱えて、絶望と恐怖に彩られた悲鳴を上げている。


「夕、しっかりしろ! なんとか……ええい、クソ!」


「あああああ、ああああああああああ!」


 怪物の口の中を無限落下している現状と、式神を破壊されたショックで、夕は恐慌に陥っている。


 頬でも叩いて正気付かせてやりたいが、足場がない今、ろくに動くこともままならない。


 せめて、めくれあがった上着のポケットで震える携帯を取り出すことが出来れば。この状況では、最悪紛失しかねない。そうなれば本当にお終いだ。


 万事休す。そう思ったところで、夕の左肩から白い蛇が顔を出した。


「うおおおおい!? なんだここ、なんだよこの状況! 一体どうなってる!?」


「その声、白夜か! ちょうどいい、食われたんだ、なんとかしてくれ!」


「ああァァァ!?」


 白夜は仰天したが、すぐに気持ちを切り替えた。


 そばを通り過ぎていく肉壁に噛みつき、胴を伸ばしながら減速する。


 同じく伸びた尻尾で境兵と夕を括りつけて、固定。


 やがて境兵と夕は、白夜から五メートルほど下がった辺りで落下を止め、宙ぶらりんになった。


 境兵の肩に、カタカタと夕の体が震えるのが伝わってくる。


「ふう。白夜、ナイス! そのままでいてくれよ……!」


「ぐ、ぎっ!」


 白夜は妖魔の食道に牙を立てながら、離すまいと全力を出す。目覚めたばかりで何が何だかわからないが、絶体絶命のピンチなのは確かだった。


 境兵はぶら下がったまま、ポケットからスマホを取り出した。電波が無いのに、非通知着信。迷わず応答する。


 聞き慣れた声が飛び込んできた。


「豊来君、無事か!? どうなっている!?」


「あー、えーと……すみません、先生。食われました」


「食われた!? 夜刀君は!?」


「一緒に食われて、今は妖魔の胃袋に直行コースですね」


 冷や汗をだらだらと掻きながら、陽菜乃の声に返す。


 白夜は二人分の体重を支えている。彼女自身は問題ないが、彼女が噛みつく妖魔の喉の肉は、そうでもなかった。


 白夜のすぐ目の前で、メリ、と肉が剥がれる。すると、真下から苦痛の叫びが生臭さと一緒になって突きあげてきて、三人を襲った。


 音量、臭気、粘膜の感触が、白夜の意志力を削いでくる。なんとか抵抗し、尻尾を巻きつけたふたりを持ち上げるが、境兵はその動きで長くは保たないことを察した。


「先生、ちょっとこの物件の妖魔、練習相手には強すぎました。っていうか、俺の“御槌”と相性が悪い! 明日香か海羅が要る!」


「……私の失策だ、済まない。明日香は譚抄山たんしょうざんに調査に行っている。海羅は変わらず音信不通だ」


「ここから山まで、どのくらいかかります?」


「未知数だな。私が車を飛ばしても二時間はかかるし、明日香と合流するとなると……」


「それまで保たすのは無理そうですねぇ……! 先生、なんかいい案ないですかね?」


「今、部屋の前にいるが、君たちを送り込んだ時点で扉が開かなくなってしまってな。自力でなんとかしてもらうしかない」


「マジかー……!」


 境兵は頭を抱えたくなったが、あいにくと両手は埋まっている。


 夕は何かトラウマでも思い出したのだろうか。縮こまり、境兵の服を握って怯えている。白夜はしがみつくので精一杯のようだ。


 ―――“覚悟”、決めるしかないな、これは。


 境兵は内心で呟くと、陽菜乃になんとかするとだけ伝えて通話を切った。


 スマホを落とさないよう、ズボンのポケット深くに押し込んでから、夕の体を揺する。


「夕ちゃん、しっかりしろって」


「っ!」


 過剰な反応が、腕を伝ってくる。境兵は生臭い空気を吸って、この状況にそぐわないほど穏やかな声で言った。


「下りるぞ。しっかりつかまってろ」


「下り、る……?」


「ああ。白夜、聞こえるか? 離していいぞ!」


 噛みついているせいで白夜の口は塞がっていたが、激しくうねる体とくぐもった声は、明らかに抗議の表れだ。


 夕は相変わらず怯懦したまま、


「下りるって、どういうことだよ……!? このまま食われるのか!?」


「もう食われてるから下りるんだよ。それに、こいつ自ら無防備な体内に招き入れてくれたんだ。胃袋ぶち破って外に出る! 外から倒しづらけりゃ“体内なか”から殺す! ゲロ塗れにはなるだろうが、死ぬよりはマシだ!」


「待て、待て待て待て待て!」


 夕が強張った体をばたつかせた。


 言いたいことは色々あるはず。なのに、言葉がひとつとしてまとまらず、駄々をこねる子供のようになってしまう。


 境兵は肩に担いだ夕の足を引いて、胸板で夕の体を抱き止めた。


 振り落とされると思って暴れかけた夕は、なんとかしがみつく。不規則な荒い息を吐く夕に、境兵は言った。


「しっかりしろよ、昨日の負けん気はどこに行った?」


「んなこ、言われたって……!」


「気をしっかり持てよ。お前は生きてる。白夜も生きてる。なら、式神だってまた出せる! 大事なのはな、“絶対に死んでたまるか、こいつを殺して生き延びてやる”っていう、強い気持ちだ!」


 鬼木原先生の受け売りだけど、と付け加えて、境兵は微笑む。


 夕はなすすべもなく、境兵の顔を見上げ続ける。若く精悍で、明るそうな顔立ちは、忘れかけていた兄の顔を、鮮明に思い出させた。


「あ、にぃ……」


「ってわけで、行くぞ!」


 境兵は白夜の胴をつかんで、思い切り引っ張った。


 牙を突き立てられていた妖魔の喉肉が引きちぎられる。生ぬるい奈落から突き上げてくる絶叫が、夕の悲鳴と白夜の罵声をかき消した。


 境兵はどれにも構わない。空いた手で手繰り寄せるのは、つい数分前の感覚だ。


 本能的に呼び出した槌刃ついじん。戦いに集中していて深く意識もしなかったそれを、今度は自分の意思で呼び出す。


 夜葬旭は葬者の魂。そして、葬者の生きる意思。


 戦い、生き残る覚悟を決めた主を、魂が裏切ることは、ない。


「夜葬旭“御槌みづち”……“かつ”!」


 握りしめた掌の中に、一条の光の筋が生まれる。


 奈落を照らす光芒が散ったその中にあるのは、頭部を平たく潰して刃に変えた、異形の鉄槌。


 境兵は確かな手応えを感じると、それを妖魔の粘膜にためらいなく突き刺した。


 滑るように切り分けられる粘膜。妖魔の咆哮がなおも轟く。


 境兵は夕を落とさないよう、強く抱きしめると、槌刃の柄を縮めて肉壁に接近。キックを繰り出して、妖魔の喉を走り始めた。


「うおおおおおおおおおおおっ!」


 槌刃を手の中で返し、刃の腹を粘膜の方に向け、肉壁をえぐり取っていく。


 帯状に切り取られていく濡れた肉は、リンゴの皮のようだった。


 白夜は境兵の耳元に口を寄せ、妖魔の絶叫に負けないぐらいの音量で叫んだ。


「正気かお前ぇっ! どこまで続いてるかわからねえんだぞ! 妖魔の作った空間に、物理法則なんてねーんだぞ! 永遠にこのままかもしれねーんだぞ!? 何が何でも脱出すべきだろうが!」


「一寸法師って知ってるか!?」


「知らねえ! 今言わなくちゃいけないことか!?」


「知らねえなら覚えとけ! これが古き良きジャパニーズタクティクスって奴だァ!」


 妖魔の絶叫に負けないほど高笑いしながら、境兵は奈落の底へとひた走る。


 食道は抉られる痛みに耐えかね、激しくうねり、えずき始める。


 境兵は肉の洞穴の動きに逆らわず、飛び跳ねながら槌刃を振るって肉をどんどん引き裂いていく。


 外では、妖魔が凄まじい叫び声を上げて、髪の毛を無秩序に暴れまわらせていた。


 自身の声すら痛みに変える何かが体内に暴れている。吐き出さねば危ない。


 妖魔は大口を開けると、部屋中の髪を飲み込んだ。


 ほどなくして、境兵の背後から黒い奔流が追いかけてくる。


「髪だ! 耐えかねたんだろ、あれに乗れば外に……!」


「いいや、出ねえ! なおさら突っ込む!」


「イカれヤローがぁぁぁぁぁ!」


 白夜の罵声に鼓膜をやられつつ、境兵は妖魔の喉奥に向けて槌刃を伸ばす。


 刃は形を変え、頭部の片方を平べったい釘抜きのようにした。薄く潰されたそれは、今や鋼の爪でしかない。


 充分だ。境兵はフック型の刃を妖魔の喉に突き刺し、伸ばした柄を縮めた勢いで加速していく。


 柄尻にも同じ形の刃を作り出し、回して伸ばして片方を突き刺し、縮めて進んで繰り返す。


 ゴオッ、と嫌な音が喉中に響いた。


「効いてるな。どれぐらい喉をやれば殺せるかは知らねえけど、やれるとこまでやってやる! 血ゲロ吐きやがれ!」


 槌刃ついじんを振り回して周囲の肉壁を斬り刻む。


 そして、妖魔に限界が来た。永遠に続きそうな奈落の奥底で、ごぼ、と音がしたかと思うと、黄色と白が混ざった濁った液体が津波となってあふれ出してきた。


「夕、息を止めろ!」


「っ!」


 振り落とされないようにするだけで必死だった夕は、目と口をぎゅっと瞑って、より強く境兵にしがみついた。


 ふたりをえた匂いの液体が飲み込む。


 妖魔は部屋中に作り出した大量の眼球から涙を流し、取り込んでいた髪の毛を引き抜いた。


 続いて、吐瀉物の噴水が吹き上がり、部屋の中を汚し尽くす。


 体内から追い出された境兵は、夕を抱きしめたまま床を転がって、なんとか片膝を突いた。


 その脳天に、硬く、重いものがガンとぶつかる。


「痛ってえ!?」


 顔を上げると、そこには白い機械の箱が転がっていた。


 妖魔に乗っ取られた部屋の中にあって、どうにも似つかわしくない物体。境兵は何故か、考えるよりも先に、それを御槌で殴ってリビングの外に叩き出した。


 夕をお姫様抱っこして走り、機械の箱を蹴りつけながら玄関を目指す。


 妖魔はまだ、嘔吐をしていた。眼球と、弱った髪の毛のいくらかが、境兵を逃がすまいと床を這ったが、追いつくことは出来なかった。


 扉に無我夢中でタックルして、転がり出る。


 外で扉を開けようと四苦八苦していた陽菜乃が吹き飛ばされ、尻餅をついた。


 彼女は隣に倒れ込んだ境兵と夕の姿を確認すると、すぐに立ち上がって玄関を閉じる。


 黄色みがかった白濁液に塗れた夕は、訪れた静寂を察して目を開ける。


 体を起こすと、廊下に大の字で倒れた境兵が、疲れた顔で笑っていた。


「どうだ……! い、生き残ってやったぜ。へへへ……」


 誰も、しばらく何も言えなかった。

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