ありえないと信じたいけど

 夕の眠りは浅い方だ。


 電気を消して、静けさの中に身を置くと、様々な音が耳に入ってくる。


 親父が適当に投げた酒瓶が転がって、風が妙に気になって、家具から異音に縮こまる。眠れなくなり、夜更かしをする。


 父は夜になると、どこかに出かける。おかげで、夜の間だけ自宅は夕だけのものだった。


 キッチンに立って、遅くまで働いて帰ってくる母や兄のために、不格好な夜食を用意する。兄の恋人から教えてもらった甲斐もあって、味は悪くない。母も兄も喜んでくれた。


 だから、夜になって父の消える時間を待ち、夜食を作る。


 その日もそうだった。家計のために遅くまで働く兄を労うために、キッチンに立つ。


 手応えはまあまあ。味もそれなり。けれど、兄は喜んでくれる。


 準備を終えて、あとはリビングでぼーっと待つだけ。


 そして、夕は扉の開く音を聞いた。


「兄ちゃん、帰ってきたのか?」


「ああ」


 母が死に、とっくにふたりっきりの家族になっていた夕は、用意していた味噌汁を温め直す。


 前より少し上手く作れるようになったそれから目を離し、玄関口に行く。


 おかえり。飯を用意したから食ってくれ。それだけ言うつもりで顔を出した。


 扉の見える位置に踏み出した足が、硬直する。


 穏やかな笑顔を崩さなかった兄は、異様な表情をしていた。


 玄関の電気も点けずに、玄関口の物置を漁る。


 声音も、どこかおかしかった。


 夕は不安を覚え、ぐっと口の中の空気を飲み下し、おずおずと問う。


「兄ちゃん? 飯出来てるよ。食うだろ……?」


「ああ」


 生返事。はきはきした兄とは、随分違う。


 よほど疲れているのだろうか。そう思って電気のスイッチを押した途端、家がドロリと溶けた。


「な……っ。なんだよ、これ……!?」


 天井が黒いスライムとなって垂れ下がり、壁もドロドロと溶け崩れていく。


 床も気持ちの悪い柔らかさになって、夕の足を飲み込み始めた。


 玄関口の兄は、気づいていないような素振りで立ち上がる。夕は不安定な足場を必死に堪えながら、兄に向って手を伸ばした。


「兄ちゃん、兄ちゃん! なんか変だ! 兄ちゃん!」


「……夕」


 暗がりの中、不明瞭なシルエットになった兄が、ゆっくりとこちらに向き直ってくる。


 家の扉を、白い光が引き裂いた。


 雷だろうか。そんなことは頭に入ってこなかった。


 夕は心臓を掴まれたような気がして、動きを止める。


 兄は、何かを左手にぶら下げていた。あれは、人の頭か?


 右手からは、雫が滴る。そして、兄に顔は無かった。首から上が消えていた。


 沈んでいく足に何かが当たる。兄の顔は、夕のつま先にあった。


「夕……」


「兄、ちゃん……?」


 眼球のない両目から、白い炎が吹き出した。


 それは縄のように伸びて夕に絡みつき、黒い泥沼の中へと引きずり込んでゆく。


 夕は藻掻き、暴れ、悲鳴を上げた。


 腹が、胸が、兄の頭と一緒に闇の中へ飲まれていく。首まで引っ張り込まれて、顔に泥が覆いかぶさり、耳元に生暖かい息がかかる。そして。


「兄ちゃんッ!」


 夕は布団を跳ね飛ばした。


 脳が氷水に置き換えられたみたいに冷たい。息を荒らげる頬に、太陽の温もりを感じる。


 随分長い悪夢を見せられていたような気がする。釘を打ち込まれたような頭痛と、臓腑の底に重い鉄球を沈められたような気分の悪さがそれを助長し、今だ夢の中にいるんじゃないかという不安を夕に抱かせた。


 手足が引き千切られたかのように痛い。ほんのわずかに動かせる指先の感触が無ければ、本当に四肢を失ったと思っていただろう。


 夕は首を振り、目をつぶって額に手を当てる。


 胃袋から吹きあがりかける反吐を、腹に力を込めて抑え込みながら、改めて目を開いた。


 そこでようやく、今いる場所が自宅ではないことを知る。


 月明かりの差し込む夜のような、暗い青色でまとまった部屋だ。


 生活感はあまりなく、やけに家具が少ない。ベッドの近くに置かれた、スライムランプが妙に目を引く。夜にしか使わないと言わんばかりの内装。何に使うのか、目の前の壁には大型の壁掛けモニターがあった。


 ―――誰の部屋だよ、ここ。俺のじゃない……。


 ―――どうして、こんなところに?


「つ……っ」


 脳がズキズキする。


 瞼は一度くっつくとなかなか離れず、体に力が入らない。


 記憶を辿ることもままならない。痛みを払うように首を振っていると、部屋の扉が開いた。


 そちらを横目で見た夕は、ハッと顔を上げる。


 入室者には見覚えがあった。喪服にも似た黒い服。憤怒を顕し燃え立つ赤髪。夕とそれほど歳の違わない少女が、スーパーのビニール袋を手に下げ、イメージとは裏腹の冷たい眼差しで夕を見ていた。


「お前は、確か……」


「動かないで」


「あ゛……?」


 剣呑に命じられ、夕は眉間に皺を寄せた。


 赤い髪の少女は荷物を足元に落とすと、右手を銃の形にして夕に向ける。細くスッと伸びた少女の人差し指に、炎のトゲ。否、よく見れば、立てた親指の先に向かって糸のような炎が波打っている。


 あれは、炎の矢だ。


 夕の体が強張った。


「やっぱり、私の炎が見えるのね」


 答えに窮する。思考は動きを止め、恐怖に体が竦んでいる。


 少女の瞳を見るに、問答無用で殺しに来るつもりはないようだ。が、必要とあらば殺る。そう思わされた。


 ここ数年で“調教”された夕の本能は、あらゆる思考を堰き止め、目の前の少女に従順になる。背中を伸ばして、恐ろしくとも目をそらさない。


 少女はゆっくりと口を開く。


「あなた、名前は?」


「……夕。夜刀よがたなゆう


「それが本名? それとも、偽名?」


「は?」


 少女の発言を、すぐに飲み込むことが出来ない。


 彼女が何を尋ねてきているのか、考えようとする。そんな夕の頬を、赤いものが横切った。


 つられて、少女のいる方向とは反対側の、部屋の奥を見る。しかし、壁には何もなく、変わったところもない。だが、気のせいではないと、肌に残った熱が教えてくれる。


 少女に向き直ると、人差し指の炎が消えていた。


 親指が人差し指に触れる。指先が燃え上がり、親指と人差し指が離れると、また新しい矢になった。


「質問するのは私。この炎が幻で、虚仮脅しに過ぎないと思うのなら、次は頭を撃ち抜いてあげてもいいわ」


 夕はゾッとして、頬に手を当てた。


 バーナーで軽く炙られたような熱感。遅れて、ひりひりした痛みがやってきた。軽く火傷したのかもしれない。


 恐怖が、夕の思考を少しずつ動かし始めた。


 ―――なんだ、今のは。あの指の炎は。マジックか?


 問い詰めたいことはあったが、つい先ほどの忠告が、夕の唇を縫いつける。


 少女は問いは続く。


「いいわ、夜刀夕、ね。山のことは覚えてる?」


「山……? 墓山……譚抄山たんしょうざんのことか?」


「ええ、そう。あの山で何をしてたの?」


「ヤクザの使いっ走りで、テストがどうとか……」


 たどたどしく答えているうちに、彼方へ消えていた記憶が徐々に蘇ってくる。


 譚抄山たんしょうざん、鉄砲玉のテスト。麻薬と宗教に溺れた借金苦のジジイを殺すだけの仕事。


 ……怪物に襲われたこと。


 夕はこの世のものではない咆哮と、醜い口が開かれる光景を思い出して顔を上げた。


「化け物。そうだ、化け物に襲われて、それで逃げて……ええと」


「そこまで。どこの学生? 学校の名前を、市立から」


「学校は、棚途市市立風涯ふうがい高校……一年」


 ひとつひとつ、手繰り寄せるように自己認識を組み立てていく。


 忌まわしい記憶の塊、どうしようもない人生の羅列が、今は夕が冷静さを取り戻すのに役立った。


 問題ない、全て思い出せる。ただ、借金塗れのジジイを痛めつけ、山に運び、銃殺してから先の記憶はどうにも曖昧だ。


「白夜って名前に聞き覚えは?」


「白夜? 無い……いや、ある……?」


 聞き覚えがあるような、ずっと耳にまとわりついて離れないものであるかのような、妙な感覚に襲われる。


 不気味な感覚だ。夕は目をきつく瞑って思考を止め、妙な感覚を追いやると、夕は自身を疑問の方へと駆り立てた。


「お、俺からも……いいか?」


「…………まあ、いいわ。何?」


 少女が指を上げると、炎の矢が消えた。


 案外すんなりと要求が通ったことに、逆に困惑しながら、夕はぎこちなくも言葉を紡ぐ。


「ここ、どこだ? お前は誰で、あの山で何があったんだ? 白夜って、誰だよ?」


「訊くならひとつずつにして。その前に……あなた、何か気づかない?」


「気づくって、何にだよ」


 赤髪の少女は疑り深い顔をして、スタスタと部屋の中に踏み入ってきた。


 足元に落としたビニール袋はそのままだ。クローゼットを引き開け、中から引っ張り出したのは、姿見である。


 それを夕の方に向けて……夕は、ポカンと口を開けた。


「……………………は?」


 夕は言葉を失った。


 鏡が自分の方に向いている。ならば、映っているのは自分の姿。そんな当たり前のことから、再認識する必要に迫られる。


 だが、再認識は、状況の理解に何一つ寄与してはくれなかった。


 本来、鏡の中にいるべきなのは、黒髪で、目つきが悪く、そこそこ背の高い男子高校生であるはずだ。


 しかし、実際に映っていたのは、一糸まとわぬ幼い少女の姿であった。


 髪は白く絹のよう。肌には一点の穢れもなく、もちもちとした弾力をはらんでいるのが見て取れる。


 瞳は銀色で、月の天体写真をそのままはめ込んだかのようだ。丸っこい顔は可愛らしく、思わず見惚れてしまうほど。唖然と開いた口は小さく、唇は薄くしっとりしていた。


 しんと部屋が静まり返る。鏡の中の白い少女は、その表情を青ざめさせ、自分の体を見下ろした。


 視界から姿見が外れていき、夕は自分の胸元に目を落とす。


 そこには、未発達ながら、柔らかく膨らんだ胸があった。加えて股間には、あるはずのものがない。手を伸ばし、まさぐってみるが、確かに無い。


「え? ……あ? は……?」


 ぱくぱくと口を動かし、赤髪の少女を見るが、彼女は訝しげな顔のまま、何かを推し量っているようだ。


 またしても、鏡の中の美少女と目が合う。声も随分と可愛らしくなっていることに、たった今気が付いた。


 嘘だ。そんなわけない。これは夢だ。脳がガンガンと叫んでいる。


 顔に手を当て、再度自己認識を繰り返す。


 夜刀夕。ヤクザの使い走りをやらされている高校生。今は実家に独り暮らし。授業にはほとんど出ていないが、ずっと男子トイレを使ってきた記憶があるし、学校では男子として扱われてきたことも覚えている。兄から言われた、父とは違う強くて優しい男になれという言葉も、覚えている。


 性別は男のはずだ。なのに、これはなんだ?


 困惑して固まる夕の頭に、別人の声が響き渡った。


「それが、オマエの今の姿だ」


 不機嫌そうな、男と言われても通じる、少し低めの声。


 同時に、鏡の中の右腕に螺旋状の白い炎が燃え上がった。


 実際に見てみると、確かに燃えている。赤髪の少女は姿見を投げ捨てて跳び下がり、夕は慌てて腕を振り回す。


「あ……う、うわああああ! なんだ!?」


「な、おいバカ! 振り回すな、やめろ! 燃えたりしねえから落ち着け、おい!」


 怒鳴り声がして、白い炎の先端が手首を離れる。


 丸く成形されたそれは、ルビーのように赤い瞳を備えた蛇の頭だ。おぼろげな輪郭の、紐のように細い白蛇は、牙を剥いて叫ぶ。


「落ち着けって言ってんだろ、クソガキ! 命の恩人をランボーに扱ってんじゃねーぞ!」


「い、命の恩人!?」


「そうだよ、山の中のことを思い出せ! オマエ、オレと一緒にバケモノに襲われただろ! オレのおかげで助かったんだからな!」


 新たに山の中の光景が、断片的に思い出された。


 蛇の声には聞き覚えがある。赤髪の少女とともに現れた、白い幽霊じみた女の声だ。しかし、これは一体?


 白蛇は首を振り、尻尾の先で頭を掻く。苦々しい感情の発露を感じた。


「あークソ、なんだってこんな……。起きてみりゃ、バクチの代償がこの有様かよ」


「その声。あなた、白夜?」


「よお、南条。オマエのせいで、オレはめでたくこのザマだよ。はぁ」


 白い蛇が溜息を吐き、警戒して小さな炎の矢を生み出した少女にぼやく。


 信じられない。あまりに現実離れした光景だった。


 だが、手を置いたシーツの柔らかさ、体にプツプツと滲む汗の感触。倒れた姿見に見える、真っ青な白い少女の顔。きめ細かく、すべすべとした、柔らかい肌。


 全て、憎たらしいほどリアルで、夕はただただ呆気にとられるほか無かった。

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