魂喰夜蛇
親父はろくでもなかった。
酒に溺れ、なんだか言う宗教に貢ぎ、その金を母にせびった。
昔は情熱に満ちた政治家だったらしいが、少なくとも兄が生まれた時にはもう、そんな姿は露と消えていた。そう語る母の横顔には、深い皺が刻まれていたのを覚えている。
母は働き、兄は母を手伝った。ふたりは夕を愛してくれたし、兄は家族を守るために父と喧嘩をしていた。
父が死ぬのはいい。母と兄が死んだのは、今でも受け入れられない。
受け入れられないから、死ぬのを恐れた。
痩せ衰えて、干からびた蚊が鳴くような声で謝り続けて逝った母。現在でも思い出せば嘔吐するほど、無残な死体を晒した兄。
姉代わりとして育ててくれた女性もいたが、気づけばいなくなっていた。
みんな、みんな、消えていった。
そして今、夕もまた、死のうとしている。醜い怪物に襲われて。
「―――っっっぁぁぁあああああああ!」
火花が散るように弾けた死のイメージを、夕は首を振って振り払った。
幸い、目の前の闇は、怪物の口腔に広がるものではなく、森のもの。流れていく景色は判を捺したように変わり映えがしない。
だが何かを考えることをはおろか、感じている暇すらもない。背後から聞こえる木々の砕けていく音が、頭を恐怖で塗りつぶしていく。
どうしてこうなった? ありきたりで問いすら、向かい風の中で吹き飛んでいく。死にたくない、その一心でひたすらに足を動かした。
突如湧いて出た怪物はなんなのか。何をどこで間違ったのか。ただ夢を見ているだけなのか。疑問は全て、背後へと置き去りにする。明確な“死”が追ってくる、それだけが真実。
すぐ真後ろで、まるで枝を折るかのようにまた樹が一本薙ぎ払われる。
振り向くと、手を伸ばせば触れられそうな距離に怪物の顔面があった。
唇を押しのけるようにして、歯茎が迫り出してくる。開いた歯と歯の間を伝う唾液の糸、その奥で蠢く超巨大な寄生虫じみた舌が、原初の恐怖を呼び起こす。
食われる。死ぬ。
「う、ああああああああああああああああああああああああッ!」
怪物の咆哮が、夕の絶叫を吹き飛ばした。
顔に跳ねる雫の感触が全身を冷やし、皮肉にも正気を微かに取り戻させた。
死にたくないと、とにかく足を前へ踏み出す。
なんとしても生にしがみつこうとする夕の進路を、不格好な化け物の両手が塞いだ。
肉の壁が前から迫ってくる。夕は空気が粘ついた液体に変わったかのような錯覚に捕らわれた。
一瞬先の未来が見えた。まるで映画を見ているかのように。
怪物の両手に捕らえられ、口の中に押し込まれ、噛みつぶされて死ぬ。
おかしい。今日もいつも通りヤクザの仕事をこなした。それで少なくとも、明日の命は保証された。何もかも呑み込んだ。死にたくなかったから。
なのにどうして、死のうとしている? 一体どこで間違えた? あの初老の男を殺したせいか、それとももっと前、頭を床にこすりつけ、床舐めてまでヤクザの使い走りになった時か。
あるいは、生まれてきたのがそもそもの間違いだったのか?
自分が絶望の叫びを上げているのだと、他人事のように認識していた。
暴力は、より強い暴力を持つ者に屈服させられる。だから夕は豪に、ヤクザに、何を思っても従い続ける他に無かった。
森の闇の奥に立つ自分自身が、冷たい嘲笑を投げかけてくる。結局、立ち向かうことさえできない。暴力に潰されるだけ。玉無し野郎にはお似合いの、無様な死に方じゃないか。
夕はぎゅっと目をつぶった。まつ毛の先から涙が飛び散る感覚さえも、鮮明に感じられる。
死にたくない。死ぬのが怖い。兄と同じか、それ以上の苦痛を味わって死ぬのだろうか。一瞬で、何も感じなくなるのだろうか。どっちでもいい。こんな人生を、認めたくない。
その一心で、カッと熱くなる両目を開いて、なんとか活路を見出そうとする。
時間は未だにゆっくりだ。それでも怪物の手は、夕が拳を突き出せば容易く届く程度の距離に。牙に至っては、踵に軽く触れていた。
どうすれば、生き延びられる?
この化け物の手を飛び越える? 無理だ。背を伸ばした大の大人一人を飛び越えるだけの脚力が無ければ。
では、反撃する? 樹木をゴミのように破壊できる怪物に?
じれったいほどゆっくりになった時間の中で必死に頭を巡らせるほど、答えが明確になっていく。
死。このなんだかわからぬ怪物に、訳も分からぬまま食われて、死ぬ。
残った答えは、あまりにも無慈悲なものだった。
「ああああああああああああああああ! 兄貴ぃぃぃぃぃぃぃ!」
噴き出した涙が視界をぼやけさせた。諦めたくないのに、これではもはや、何も見えない。
どうしようもなく迫ってくる怪物の手が泣き叫ぶ夕を捕まえる。そうなる直前、虚空から真っ赤な矢が
夕の真上を飛び越えたそれは、怪物の複数ある目のひとつに直撃する。勢いのついた怪物の手は止まらなかったが、組み合わされた指が、焼けつくような光によって切り開かれた。
引き裂かれた怪物の両手が、夕の左右をかすめていく。
目を丸くした夕は体勢を崩して、山の斜面をごろごろと転がった。
眼球に衝撃を食わえられ、勢い余って自分の両手に齧りついた怪物は、醜い悲鳴を轟かせる。
森の地面に投げだされた夕は何が起こったのかわからず、うつ伏せになったまま目に涙を浮かべて荒い息を繰り返した。
「はあっ、はあっ、はあっ! い、生きて、る……!?」
「ええ。だから、早く立ちなさい。拾った命を無駄にしたく無ければね」
返答は、夕の後ろからだった。
振り返ると、そこには真っ赤な髪をなびかせる、黒衣の少女がいた。
喪服を仕立て直したような黒いセーラー服を着て、右手には炎で形作られた剣のようなものを握っている。よくみれば、それは矢じり部分が巨大化した矢のようだ。
さっきまで確定していたはずの死の中にいた夕は動転して口を金魚のようにパクつかせる。黒衣の少女は振り返らず、痛みに暴れる怪物を見据え続けていた。
その傍らに、白い影が降り立つ。
「おい、南条! 関わるなって!」
「苗字で呼ばないでって言ったでしょ。関わりたくないなら、先に行ってて」
「先に行けって、どこにだよ!?」
「あなたが助けを求めた人のところに」
「オレ一人でか!?」
「そうだけど。それが?」
赤髪の少女のつっけんどんな態度に、白い影が抗議する。
よく見れば、それはふわふわと宙に浮かぶ、白い髪の女だ。瞳は銀色で、少し鈍いように見えたが、月光を吸い込むほどに透き通った白磁の肌には不思議とマッチしている。簡素なシャツとジーンズというラフな服装が彩るのは、うっかり見惚れてしまうほどに整ったプロポーション。
銀色の瞳に睨まれると、夕は数秒前まで死にかけていたことを忘れて見入ってしまった。
夜の森に、妙な女がふたり。現実離れしていて、漫画でも見ているかのようだ。だが、森の闇を跳ねのける赤い炎と白い光は、絵画のように美しい。
夕の内心を知ってか知らずか、白髪の女は、眉をひそめて低く告げる。
「……ん? もしかしてオマエ、オレが見えるのか」
「な、なんだよお前……? 幽霊!?」
「大体合ってる。合ってるがその反応……。クソッ、こんだけ
「髪と目を見ればわかるでしょ。学生服も着ているし、一般人よ」
「どうだかな。個人差あるからな、こういうのは」
「制服に個人差は無いわよ」
淡々とした赤毛の少女と、なおも疑わしい顔の白い女。
夕は頭をまっさらにされたまま、うつ伏せになって、動けなかった。
怪物は暴れるのをやめたが、目と指をやられたのが無視できないらしい。指を咥え、うなりながら震えている。
もう少し会話をする余裕があると見たか、赤毛の少女は夕に冷徹な眼差しを向けた。
「でも、なんでこんなところにいるの? ここは学生の来るところじゃないはずだけれど。肝試し?」
「え? あ……」
「まあ、いいわ。“覚醒”もしてないみたいだし、用はないわ。行って」
夕はろくに口も利けず、動けなくなる。
思考回路は完全にショートしていて、次から次へと湧いてくる感情や情報を処理しきれない。
白い女は、そんな夕をじろじろと眺めている。
「消えろっつったのが聞こえねえのか? オレたちのこと、誰にも言うんじゃねえぞ。いいな」
「白夜、構えて。来るわよ」
「オレもやるのかよ……テキトーにいなして逃げるんじゃねえのか」
「あんなの、無視できるわけないでしょ」
ダメージをなんとか克服したらしい化け物が、自分の手から逃れた獲物と、新たに現れたふたりを見つめた。
煉瓦のように埋め込まれた甲殻の隙間から肉が膨らみ、赤く染まる。両手で地面を乱打して吠え猛る。轟と周囲の梢を揺さぶるその声は、憤怒に震えていた。
白い女が浮遊したまま、後ろに数センチ後退する。
「チッ、あのダメージでやる気充分だと? しかもあのデカさ、どんな力持ってるかもわからねえ。追い回されたら事だぞ。だから無視しろって言ったのによ!」
「恨み言を言ってる暇があるなら、せめてその人を連れて離脱して。引き付ける」
「引き付けるって、だから、お前に死なれたら困るんだって!」
「死なないわよ」
赤毛の少女は言いながら、矢を手の中で回転させた。
左手の平から炎が両方向に伸びて、弓を形成する。矢じりの大きさはそのままに、長く伸びた炎の矢を番え、宣言した。
「こんなところで、死ぬわけにはいかないもの。必ず生きて帰る」
「だーかーらー! ……ああもう、わかった! おいガキ、立て! オレはお前を助けたりしないからな! 勝手についてこい!」
白夜と呼ばれた白い女は、荒っぽい口調で告げると、夕の頭上を飛んで行ってしまう。
ようやく我に返った夕も立ち上がる。緊張の糸が切れたせいか、壊れたように力の入らない足を殴りつけ、よろよろと走り出した。
「もっと早く走って。次は逃げきれないだろうから」
「はあ、はあ、言われねえでも……!」
夕は力なく答えながら、どうにかその場を離れようと這い進む。
なにがなんだかよくわからないが、とにかく命拾いした。もう何が起こっているかなんてどうでも良かった。九死に一生を得た、それだけで充分だ。
無様にその場を逃れようとする夕の背後では、怪物が身構えた少女と、逃げていくふたりを複数の目で見つめる。
指を切り裂かれた両手からは、陽炎のような煙が上がっている。潰された目からもだ。怪物はやがて、喉を鳴らすと、音もなく跳んだ。
「!?」
落ち葉を僅かに巻き上げて跳躍した怪物は、予想外の反応に驚く少女の頭上を飛び越える。醜い両手で空を引っかき、人魚のように地表近くを泳ぐ白夜と夕を狙って、急降下した。
白夜が気配を感じて振り返る。
「げえっ、こっち来やがった!?」
「えっ?」
夕はポカンと頭上を見上げる。
月光と星空が、異形の巨体に遮られていた。怪物は大口から迫り出した上下の歯で、白夜もろとも夕に食らいつこうとする。
「だーもう、クソがよ!」
白夜は空中で体を捩じって方向転換すると、夕を真横に蹴っ飛ばし、自身は逆方向に飛んで噛みつきを回避した。
地面が抉れ、高々と頭を振り上げた怪物に飲み込まれる。歯と歯の間から、哀れなミミズが藻掻いているのが見えたが、すぐに怪物の口へと消える。
反った怪物の背中に、巨大な矢じりの炎の矢が突き刺さる。
身をゆすった怪物は、背後から走ってくる赤髪の女に、裏拳を繰り出すように腕を薙ぎ払って回転した。
赤髪の女は両足に炎をまとわせたジャンプで避けて、炎の槍を生み出し、怪物の顔面に投げつける。
先の不意打ちとは違い、正面切っての攻撃は、頭を覆った怪物の両手に防がれた。赤髪の少女は構わず、重ねられた手の甲の上から飛び蹴りを繰り出して、反動で真後ろに跳ぶ。
「白夜、無事?」
「無事だよ! ありがとうとでも言ってほしいか!?」
「要らないわよ」
憎まれ口を叩き合いながらも、赤髪の少女は再度炎の弓矢を出して射かける。
怪物は腕を掲げてこれを凌いだ。その目は白夜に向いている。白夜は、ついさっきまで見知らぬ少年を狙っていた怪物が、自分に目を付けたことを察した。
矢を防いだのとは逆の手が、白夜を捕まえようとする。白夜は高く跳ね、競技選手のように体をひねると、怪物の反対側で倒れたまま目を白黒させる夕の下に降り立つ。
「おいガキ、ひとりで逃げろ」
「え……?」
「ムカつくけど、予定変更だ。あいつの狙いはオレだ。一緒に逃げたら、オマエも食われる羽目になる。南条とふたりがかりで止めてやるから、オマエは逃げろ。死にたくなかったら立て!」
死にたくなかったら。その一言が覿面に効いた。
夕は萎えかけた体に鞭打って立ち上がると、三度走り出す。
白夜はその背中を蹴って転がした勢いで斜めに飛翔し、縦に振り下ろされた怪物の手を逃れた。
「南条……いや、明日香!」
「下の名前だけで呼んで。何?」
「仕方ないからバケモノ退治に協力してやる! オマエのせいで巻き込まれたんだ、オマエが責任を取れ!」
「わかった」
短く答えた赤髪の少女、明日香は炎の弓を引いた。
巨大な怪物が、両手を伸ばして白夜と明日香を捕らえようとする。
照準が異形の手のひらに隠されたことにも動じず、明日香は
「
矢の後端から、ロケットブースターのように炎が吹き出し、矢じりが伸びた。
爆音を伴う炎のレーザーが、怪物の顔面に迫る。怪物は眼球を狙ってくる炎の一撃に複眼全てを集中させ、ギリギリで顔をずらして回避した。
「おい、南条!」
空に下がって掴みかかりを避けた白夜が叫んだ時には、明日香の体は怪物の手のひらを食らって吹き飛ばされていた。
天地がぐるぐると回転する。草地を吹っ飛ばされ、転がった明日香はなんとか膝立ちになって転倒を堪えた。
「ぐ……っ!」
胴体全体に凄まじい衝撃の余韻が走り、背中を丸める。鎖骨や肋骨が潰れてしまいそうだった。
明日香の背筋に戦慄が走る。なんてパワー、それに耐久力。
いつもならばあの一発で、いやそれ以前に、眼球を潰した時点で、少なくとも逃走はしていたはず。
この力、この凶暴さ。うすうす感じてはいたが……強い。
「南条、立て! 来るぞ!」
「見えてるわよ……!」
ズズン、ズズンと地響きを響かせて、怪物の巨体が突進してくる。
明日香は胸を抑えたまま、横にジャンプしてかわそうとする。
だが、車に跳ねられたようなダメージが動きを鈍らせ、それが足首を牙に捕らえられる失態を生んだ。
怪物の複眼の半分が明日香に、もう半分が白夜に向かう。
白夜は舌打ちすると、戦闘機のような挙動で、再度伸ばされてきた手をかわし、怪物の目玉のひとつに跳び膝蹴りを繰り出した。
白い流星の一撃が、魔物の眼球をシャボン玉のように爆ぜさせる。
痛みに叫んだ怪物の口から、明日香の足が零れ落ちた。
地面に投げ出された明日香は、地面に背中を向けて、掌底を食らった時に消えていた炎の弓矢を再び生み出す。
しかしそれが放たれるより早く、明日香の体は闇雲に振り回された怪物の手によって、怪物の後方へと吹っ飛ばされた。
「くぁ……っ!」
「南条!」
一瞬明日香の方に気を取られた白夜は、慌てて怪物の頭上を飛び越す。
彼女を捕まえようとする手が虚空を切った。
白夜は、震えながら四つん這いになる明日香に素早く接近し、首根っこをつかむ。
「逃げるぞ! もうあのガキをこの場を離れた頃だろ、これ以上相手してやる義理はねえ!」
「だから……うっ、あなただけ逃げればいいって……」
「オマエがいなくなったら、こっちはお手上げなんだっつーの!」
口論している暇もあればこそ。
方向転換した怪物が飽きることもなく白夜たちに突っ込んでくる。
白夜は一秒迷った末に、明日香の首根っこを掴んだまま、怪物から逃れようと飛翔した。
しかし、ほんの少し引っ張ることが出来ただけで、明日香と共に空を舞うようなことは出来なかった。
「重てえ!? クソッ!」
背後を振り返った白夜の視界を、肉の壁が覆い隠した。
明日香と白夜に向かって、勢いよく伸ばされた手に指は無い。
結果、それは強力な張り手となって、ふたりをまとめて吹き飛ばす。
風船の割れたような音が、夜の森に響き渡る。
数メートル先の地面に転がされた明日香は、衝撃のあまり、仰向けに倒れて動けなくなった。
白夜はというと、砲弾のように山の斜面に沿って弾き飛ばされ、明日香から遠く引き離される。
手足をばたつかせて、なんとか姿勢を制御しようとするが、上手くいかない。
怪物は不思議そうに指のない手を見つめた後、気を取り直して白夜を追跡して山を走り下りていく。
戦闘不能を察してか、明日香には目もくれない。
明日香は霞む視界を必死で保ちながら、自分を置き去りにしてゆく怪物の背中を凝視した。
あくまでターゲットは白夜ということだろうか。思えばさっきから、自分を狙うのは白夜のついでのようだった。彼女は一体何者
鉛の布団をかけられたように動かない体に、なんとか力を込めて起き上がろうとする。
見上げた空は、月も星もない、暗幕のような黒。
明日香が己の不甲斐なさに歯噛みをし、力無く藻掻いている間に、怪物の両目は飛翔を続ける白夜を再度補足した。
ひとり重力のくびきを外れた白夜は、ともかくこの飛翔を止めようと手を振り回した。
木でも草でもなんでもいい、何かに触れることさえ出来れば、止まることが出来る。
そう思った矢先、彼女の背中に何かがぶつかり、白夜の勢いを削ぎ切った。
「のぁっ!?」
「だっ!? ……あ、オマエ! まだこんなところに居たのか!?」
動きの止まった白夜が振り返ると、そこには逃げたはずの夕が地面に倒れ伏していた。
恐らく、気力体力が限界に近いのだろう。覚束ない足取りで立ち上がった学生服の少年は、汗だくになりながら白夜を振り返り、表情を恐怖に強張らせた。
怪物が、大口を開けて迫ってきていた。
白夜はとっさに、夕の腕をつかんで怪物の噛みつきを回避しようとする。
だが、怪物には、何度も同じ手を食わない程度の知能が備わっているようだった。
異形の腕が巨体の中に入り込み、異形の手のひらが魚のヒレを思わせる形で怪物の左右を塞ぐ。
白夜と夕は怪物の掌にブロックされた。車に跳ねられるのにも似た凄まじい威力がふたりを襲う。
夕、そして彼に全霊をかけてしがみついた白夜は、もつれ合いながら草地を転がる羽目になった。
「だっ、がはっ!」
「ぐあっ!」
ごろごろと転がり、横向きで止まった夕は、痛みが連れてきた恐怖と絶望に体が飲まれていくのを感じた。
頭の中は、すっかりパニックで満たされている。
逃げて、逃げて、ようやく離れることが出来たと思ったのに、どうしてまた怪物に追いつかれている?
動けない。肩や足が外れてしまいそうだ。もはや立つことも出来ない。
なのに、怪物が歩くたびに生まれる地響きだけは、全身で感じ取れた。電気を流されているかのようだ。
怪物は待ちわびたように、ゆっくりと口を開き、舌をはみ出させる。気配だけで、これから貪り食われるのだとわかった。抑えきれない喜色が、見えない波となって夕を押し寄せてくる。
夕はカタカタと震えながら、呟いた。
「なん、で……?」
曖昧な問いに答える者など、いなかった。
だが、同じことを思っている者なら、すぐそばに居た。
「クソが、なんでこんなバケモンがここに! オマエ、なんであんな奴に追われてる!? アイツさえいなけりゃ、今頃……!」
「俺だって知らねえよ……!」
枯れた声で返事をしながら、夕は地を引っかいた。
言われるまでもない。だが、体が痛みで上手く動かない。呼吸も途切れそうだ。
なんとか膝を折り曲げ、頭をちょっと持ち上げるのが精一杯。その無様を見下ろした怪物は、口から歯茎を迫り出させる。
巨大な舌が、ゆっくり、ゆっくりと伸びてきた。イボに塗れた、紫色の、濡れた不気味な肉の塊が。
夕からそれが見えないのは、果たして幸いなのだろうか。死の気配が迫ってくることには、代わりがない。
夕は目をつぶり、祈るように呟く。
「死にたくねえ……っ! なんで、俺たちが死ななきゃならねえんだよ……! なんで、俺たちが、こんな……っ! 兄貴……!」
涙と、現実と、凄惨な思い出がごちゃ混ぜになる。
必死になって歯を食いしばった。
家族のように死にたくないから、殺されたくないから、ヤクザに媚びを売ったのに。その結果がこれだなんて、受け入れられない。
そう口走った夕を、白夜はじっと見つめた。
息を吸い、吐く。様々な打算を一瞬で脳に巡らせた彼女は、夕の体を揺すった。
見上げると、その表情は決然としていた。その表情に見覚えがあるような気がしたが、思い出せない。
「おい、オマエ! 目を開けろ。死にたくないなら、オレを見ろ!」
夕は我に返った。見慣れた幻影が晴れて、見慣れぬ白い髪の女が見える。
現実感も、思考回路も、非日常に全てを持っていかれた夕は、言われたとおりに白夜を見つめた。
幽霊のようにふわふわと浮いていた彼女は、今や夕と同じように地に臥せって、真っ直ぐに視線を合わせている。
夕をつかむ腕が硬く強張る。
「死にたくないか。まだ生きてたいか!?」
「……死にたくねえ。まだ死にたくねえ……っ!」
「奇遇だな、オレもだ。こんなとこで死んじゃいられねえ……! だからっ!」
白夜は夕の顎をつかみ、額と額を押し付け合った。
腹とみぞおち当たりから発生した凄まじい苦痛が脳を殴りつけ、あわや意識を失いそうになる。腹に力を込めて、生への執着一筋でどうにか持ちこたえた。
これは賭けだ。理論上、出来るらしいが、やるのは初めて。失敗すればどうなるか、白夜本人にもわからない。
しかし今、やらねばならない。
怪物に殴られたせいで肋骨が折れたのが、手触りでわかった。トラックに撥ねられた人間は大抵即死する。同程度の衝撃を受けてこれで済んだのは、白夜が普通の人間とは違うからだ。
おそらく明日香も似たようなものだろう。追ってこないあたり、気絶してしまったかもしれない。白夜たちを食ったら、あの化け物は明日香も食うに違いない。そうなれば、ジ・エンドだ。
今、どうなるかわからなくとも、賭けるしかない。
「もっと強く願え! 死にたくねえって、生きてえって! そして……オレを“受け入れろ”!」
血反吐を吐きながら発せられた言葉が、霞みながらも反抗的に輝く瞳が、夕の心を強く射抜いた。
汚水塗れの灰に埋もれた、頼もしい声が呼び起こされる。
“俺は奴らを殺してくる”
“いいか、夕。俺は気付いた。生きることは殺すことだ。守ることも殺すことだ”
“相手が飢え死にしようが、食われて苦しもうが知ったこっちゃねえんだ。虫も魚もみんな承知で生きてんだ”
“みんな忘れちまったようでいて、実は覚えてることだったんだ。俺はそれを思い出した”
“だから、
記憶の声を頼りに、夕はきつく目をつぶる。
とにかく願った。とにかく祈った。
死にたくない、ただそれだけを。
「行くぞ……夜葬旭“
くっついたふたりの額の隙間から、白い光があふれ出し、膨れ上がって、白い光の柱を立てた。
暗い夜を切り裂き、暗黒の空を貫く一条の光。
今宵、暗がりの中で蠢く者たちは、
夕たちを追っていた怪物も、例外ではない。
臆することを知らなかった怪物は、ここで初めて身の危険を感じて跳び下がる。
しかしやがて、それが自身を攻撃してこないと見ると、指の切り落とされた両手を伸ばした。
救いを求める信者が、涙を流して崇めるように。
その眩い光の中で、夕は目を開けた。
体を縛る痛み、恐怖、重力。その全てが失われている。寒さと温もりが同時に体を包んでいた。
不思議な感覚だ。不安になるような、安心するような。
辺りを見回しても、一面の白。いや、よく見れば、目の前にあの白い女が浮かんでいる。
彼女は険しい顔で両手を伸ばし、夕の胸の中に差し入れる。
痛みはない。むしろ、体が湯舟の中で蕩けていくかのような心地よさすらある。胸の奥が暖かくなり、そこで眠っていた何かがゆっくりと溶けてゆく。
白夜は、心地よさと、少しの不安、それ以上の死を拒絶する意思を備えた夕の瞳を見つめて、頷いた。
「喜べ。賭けはオレたちの勝ちだ」
「賭け……?」
「今から少しの間、オマエの体を借り受ける。あの化け物を倒して、生き延びるぞ」
生き延びる。その言葉が、疑問を霧を払い去る。
散々に、無様を晒した。
情けなくて、でも反抗できなくて、そんな自分に苛立って、喧嘩や使い走りで発散しようとして、それさえより強い暴力の前に潰される。そんな日々。
悔しくて、苦しくて。それでもまだ、死にたくない。
まして、あんな化け物に、訳も分からないまま食われるなど、御免だった。
「……わかった。何をすればいい?」
「死にたくないって思い続けろ。思い続けながら、叫ぶんだ。オマエの魂の底に眠る、力の名前。夜にのさばる怪物どもを葬り去り、
心臓が、強く脈打った。
夕の全身に白い炎の筋が走る。それは頭髪を燃やし、
白夜は勢いをつけて、夕の胸の中に飛び込み、体の中に溶け込んでいった。
白い炎が全身を包む。内側から、声が聞こえる。
“迫りくる死を押しのけろ! お前の生きたい想いを呼んでやれ!”
“さあ叫べ! もうわかるだろ、その名は!”
「―――夜葬旭・“
光の柱が、内側から突き破られた。
怪物の複眼が動き、自分の真下を見下ろす。
気づけば、地面から遥かに離れている。白い光の柱を突き破った何かが怪物を跳ね飛ばし、胴体に食らいついて空中に連れ去ったのだ。
さっきまで捕食者だった怪物は、本能的に恐怖した。
叫び、自身の体に食らいついたものに、全力で両腕を振り下ろす。
バシッ、という打擲音とともに、怪物の体が宙に投げ出される。
それも束の間、怪物の全身をカバーするほど巨大な白い鞭が振り下ろされ、怪物を地面に叩き伏せた。
怪物はバウンドし、片手で地面を打って元の体勢を取り戻す。
そして複眼で空を見上げ、後ずさった。
目の前にいたのは、炎のように朧な輪郭を持つ白い大蛇だった。大きな翼を広げ、ルビーのようなふたつの瞳で怪物を見下ろしている。
その背には、さっきまで存在しなかったはずの幼い少女が、腰まで届く白い髪をなびかせ、白い炎のような衣を纏い、憤怒に染まった形相をしていた。
捕食者として生まれた怪物は、恐怖する。
背を向けないまま、一歩、二歩と後退し、距離を取る。もはやさっきまでの威勢はない。怪物には理解できない何かが起こり、立場が逆転したのだ。
「やってくれたよな、オマエ……!」
少女が口を開く。涼しさすら感じる声音からは想像もつかない、荒ぶる感情がほとばしった。
「オマエ、オマエ! オレを殺そうとしたよな……。よくもオレを! 殺そうと、したよなぁぁぁぁぁっ!?」
激昂した少女は空中を殴りつけるように左拳を振り下ろす。
主の意図を汲んだ大蛇は大口を開け、空気を鋭く裂く咆哮とともに怪物へと食らいかかった。
大口の中は、果てのない白き深淵。怪物は真後ろへと飛んで噛みつきをかわすと、そのまま背を向けて逃走を開始した。
バアッ、ハアッ、と醜怪な息遣いが口から漏れる。生物としての―――否、生物から零れ落ちた本能が、逃走以外の選択肢を投げ捨てる。
だが、怒り狂った少女が、見逃すはずはなかった。
虚空の少女は右拳を振り上げる。
少女の位置は空中で、怪物とは距離があり、決して拳が届かない位置。それを代わりに果たすのは、大蛇の尾だった。
「逃がすかよおッ!」
振り下ろされる拳に合わせて、大蛇が怪物に尻尾を叩きつける。
怪物の肉体から浮かび上がった黒い甲殻が防御するが、衝撃を防ぎきれず、怪物は地に叩き伏せられた。
大蛇は尾を振り上げ、鋭く突き出した尻尾の先で、怪物を地面に縫い留める。
怪物は両手で地を叩き、必死になって暴れるが、抵抗も空しく尻尾ごと空中に持ち上げられた。
「噛み潰せ!」
少女は両手を前に突き出す。
主人の命令を受けた大蛇は、裂けるように大口を開くと、逃げようと藻掻く怪物に噛みかかった。
神々しくも凶悪な白い光が夜空を貫き、さらにふた回り巨大化した蛇の口が迫りくる。
怪物は、呆気にとられたように口を半開きにして、蛇の牙を複眼で見つめた。
大蛇の開かれた大口を中心に、丸い極光が生まれている。その中央には、白い光を丸く凝縮されていた。
怪物は、ここに来て、決して逃れられない死を悟る。それでも一層激しく藻掻くそれに、少女はさっきまでの自分を重ねた。
心臓が沸騰し、噴火するような激情が脳を焼く。少女は制裁を加えるように、両手を力強く組み合わせた。
「死に、やがれぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇッ!」
大蛇が怪物一口で飲み込み、口の隙間から白い光線をほとばしらせる。
凄まじい光が、蛇の口内で、怪物の巨体を跡形もなく消し飛ばしていく。甲殻も、もはや意味をなさない。
星無き空を引き裂いた白い境界は、数十秒続いた後に消滅する。げっぷをするように口を開いた蛇から零れるものは何もなかった。
終わった。少女の両肩から力が抜け、腕が垂れさがる。
白い前髪は、汗に濡れていくつかの束にまとまり、先端に雫を溜めて滴らせた。
「はあ、はあ、はあ、はあ……っ!」
水気を払う犬にも似てぶるぶると震える大蛇の尻尾を見つめながら、少女は荒い息を吐いた。
全身汗びっしょりだ。心臓も胸を内側から突き破りそうなほどバクバクと鳴っていて、苦しい。頭が真っ白になって、何も考えられない。
耐えかねた少女がカハッ、とえずくと、大蛇と少女を包んでいた衣はろうそくの火のようにかき消えた。
小さな体を虚空に留めていた力が無くなり、一糸まとわぬ白い肌が暗い地面に空白を作る。
大蛇も、怪物も、学生服の少年も、白い幽霊のような女も、既にどこにもいなかった。
あるのは、少女から少し離れた場所に投げ出された、持ち主のない服が二組。
それが、なんとか復帰した赤髪の少女が目の当たりにしたものだった。
「……白夜……?」
倒れ込んだ裸の少女を見下ろしながら、呆然と呟く。
なんとか意識を保っていた明日香もまた、あの光の柱を見た。
遠目からでも凄まじい力を感じ取った彼女は、万全から程遠くとも、最低限立てる程度には回復した体を引きずってここまで来たのだが。
戦いの後に残されたのは、さっきまで共に行動していた女とよく似た、しかし決定的に違うアルビノの少女だけだった。
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